自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆福沢諭吉とメディア-中-

2009年03月08日 | ⇒メディア時評

 東京国立博物館の「福沢諭吉展」を見終え、売店で絵葉書を5枚買い求めた。葉書の裏の絵は「文明論之概略」の表紙、「慶応義塾之目的」書幅、「学問のすすめ」(初版)、慶応義塾図書館ステンドグラス原画(和田英作)、福沢諭吉ウェーランド経済書講述図(安田靫彦)。絵葉書の裏絵とは言え、それぞれに歴史的あるいは文化的な価値があり、少々重い。ちなみに値段は一枚50円だった。

       政府の提灯は持たぬ  

  「政府の提灯は持たぬが、国家の提灯は持つ」。そう言い切って、福沢は明治15年(1882)3月1日に「時事新報」を発刊した。いまから127年のことだ。紙名もイギリスのタイムズにちなんだといわれる。

  当時、新聞はすでに相次ぎ創刊されていて、2つの系統に分かれていた。自由民権運動のさなかで、「自由新聞」は板垣退助の自由党の機関紙、「郵便報知新聞」は大隈重信がつくった立憲改進党の機関紙だった。これら政党色の強い新聞を当時、大(おお)新聞と呼んだ。一方、娯楽性を強調した大衆紙を小(こ)新聞と呼んで区別した。読売新聞(1874年発刊)、朝日新聞(1879年発刊)のスタートはこの小新聞だった。大新聞は政府の弾圧を受けたりと消長が激しかった。小新聞は徐々に大新聞の要素を吸収して「中新聞」として生き残った。

  明治初期にあって、現在の新聞のポリシーに最も近かったのは時事新報だった。福沢は、大新聞とは違って、財政的な独立なくして言論の独立はないと考え、広告を重視して経営基盤を固めた。どの政党にも属さずに、言論の独立性を高め、タイムズのような高級紙を目指すにはまず経営基盤を高めるというのは自明の理と言える。そして、福沢は門弟たちに、広告の取次業として起業することをすすめる。いわば、明治のニュービジネスである。もちろん、当時の新聞はニューメディアだ。福沢にはこうしたビジネス感覚があったのだ。

  もう一つ、福沢のメディア的な感覚が見て取れるのは「漫画」である。文字ばかりの紙面では当然読みづらい。そこで、視覚的な要素を紙面に取り込んだ。アメリカ帰りの挿し絵作家、今泉秀太郎を時事新報に迎え、腕を振るわせた。今泉の代表作に「北京夢枕」がある。四書五経を枕にアヘンを吸いながら横たわる中国人(ガリバー)の足元で、欧州勢(小人の国の兵隊)が勝手なことをしでかしている錦絵だ。こうなると、現在の漫画のイメージをはるかに超えて、「漫画ジャーナリズム」というタッチである。

  明治29年に、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で鉄道工学を学んだ二男の捨次郎が時事新報の社長に就く。時事新報は発刊から海外ニュースを売りにしていたが、明治30年4月、イギリスのロイターと記事配信の独占契約を結ぶ。他紙は時事新報より一日遅れで海外ニュースを掲載せざるを得なかった。福沢は当時62歳。時事新報は大新聞や小新聞ではなく、高級紙としての地位を次第に確立していく。

※写真は、福沢が明治8年(1875)に創設した三田演説館。英語のスピーチを「演説」、デベートを「討論」と訳したのは福沢だった。社会活動として一般市民向けに演説が行われた。自身は236回、熱弁を振るったといわれる。 

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