自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★四高の青春グラフティ-下-

2006年10月24日 | ⇒キャンパス見聞

 四高のOBには小説家の井上靖や、哲学者の西田幾多郎らそうそうたる顔ぶれがいる。しかし、かつてマスメディアの業界にいた私には、正力松太郎は図抜けて存在感がある。正力は警察官僚から新聞王となり、政治家となり、またメディア王、テレビ王にもなった。彼を押し上げた原動力には四高の人脈があった。

   正力は明治40年に四高を卒業した。学生時代は柔道に没頭した。東京帝大を卒業し明治末年に内閣統計局へ、大正になって警視庁に入った。そこで四高・東大の先輩であった警察部長の野口淳吉に可愛がられた。その野口が急死し、正力はこのあと共産党検挙に辣腕を発揮することになる。しかし、摂政宮皇太子(後の昭和天皇)が24歳の男にステッキ銃で狙撃された虎ノ門事件で、警察部長として皇室警護の責任者の立場にあった正力も懲戒免官された。この後、後藤新平や日本工業倶楽部の支援のもと、読売新聞の経営を引き受けることになる。ここから戦後、読売新聞の部数を破竹勢いで伸ばし、日本テレビなど設立して新聞王、テレビ王として、その存在を揺るぎないものしていく。

   そして、昭和34年(1959)6月25日、天皇が初めてプロ野球を観戦した後楽園球場の巨人-阪神戦9回裏に、長島が劇的なサヨナラホームランを放った天覧試合。正力が用意したそのロイヤルボックスに、天皇・皇后を据わらせたのは四高人脈である宮内庁の小畑忠や瓜生順良、そして文部省の初代体育局長の清水康平らだったといわれる。この天覧試合でプロ野球ブームが幕開けするのである。

  先日訪れた四高展示室には正力が寄贈した四高の学舎の模型が展示されていた。精巧なつくりで樹木の配置まできちんとかたどってある。おそらく業者に製作させたのだろうが、このときはメディア王はどんな思いでこの模型を眺めたのだろうか。自らの青春を懐かしんだに違いない。

 ⇒24日(火)朝・金沢の天気   くもり


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