先日、「四高開学120周年記念展示~学都金沢と第四高等学校の軌跡」という少々長いタイトルの展示会を見てきた。終戦直後まで続いたナンバースクールの学生のたちの青春ほとばしるグラフティである。
近隣県との激しい誘致競争の末、金沢に第四高等中学校の設立が認可されたのが明治27年(1894)で、高等学校令の公布により第四高等学校と改称される。その後、昭和25年(1950)3月にその歴史を閉じるまでの60年余りの間、金沢のシンボルでもあった。
展示で面白いのが学生たちの生活である。写真(上)は、寮祭のポスター(昭和15年ごろ)である。褌(ふんどし)姿で踊る姿が当時の寮生のバンカラぶりを彷彿させる。ちなみに最近の金沢大学の寮祭の立て看板と比較すると、最近のは少々品がよくなっている。が、寮では酒を飲み、大いに語り、青春が満喫できる。これは今も昔もそう変わらないのではないか。
別の展示を見ると、当時、四高の新入寮生には怪談話を聞かせる催しがった。学生の自主企画なのだが、電気を消した講堂で、金沢にまつわる怪しげな夜話が語られたのであろう。私も「カルシウムが足りなかった四高の学生がよなよな墓地に現れて、密かに骨をしゃぶった」などという怪談話をかつて四高OBから聞いたことがある。が、この話が当時の怪談会のネタの一つであったかどうか定かではない。
何しろ金沢は泉鏡花が育った街である。そんな怪談話が妙に合う。初めて金沢に来た学生たちはそんな怪談話の「洗礼」を受けてこの街に興味を持ち、金沢の人々と接するきっかけを持ったとしても不思議ではない。
⇒23日(月)夜・金沢の天気 くもり
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