先日(先月29日)能登半島の北側に位置する奥能登の輪島市町野町をめぐった。9月21、22日の豪雨の現場だ。行く途中で能登町を流れる町野川の橋脚で、自衛隊や消防隊員が瓦礫を取り除きながら捜索活動を行っていた=写真・上=。その様子を見守っていた土地の人に尋ねると、この周辺で31歳の女性が行方不明になっているので捜索を行っているのだという。輪島市の女性で、21日朝に職場に向かった後、消息が途絶えていて、本人の車が近くの道路で見つかっている。豪雨による死者は13人で、この女性含め3人が安否不明となっている。
その後、町野地区に入った。この日は晴天で、少し風が吹いていたせいかぼんやりとかすんでいた。乾燥した泥が薄黄の粉塵になって舞い上がっているのだ。マスクをして車の外に出た。同地区の中心部にある「五里分(ごりわけ)橋」には大量の流木が橋脚に絡んでいた。豪雨当時はこの橋がダム化して流れを堰き止め、周囲の濁流があふれたのだろう。橋の近くのスーパーの店は閉まっていて、中には入れなかったが倒れた陳列棚や冷蔵庫など従業員が片付けていた。床には泥が覆っていた。ただ、店は休まず営業しているようで、隣接する倉庫のようなところでは水や食品などを扱っていた。
また、近くで新築の家が建設中だったが、濁流にさらされたのだろう、高さ1㍍くらいまで水に浸かった跡が見えた。そして、水害から1週間経っていたものの、震災で倒壊した家々の中には泥水が生々しく残っていた。
輪島市町野町の曽々木海岸に入った。ここには夕日がすっぽり入り幻想的な光景を描き出す「窓岩」で知られる観光名所でもある。ところが、窓岩は元日の地震で崩れ落ちた=写真・中=。さらに、豪雨で山からの土砂で埋め尽くされた状態になっていた。民宿や旅館が押し流されたり、山から落ちてきた岩に押しつぶされたりしている=写真・下=。
この曽々木海岸は能登の観光ブームの発祥の地だった。昭和32年(1957)、曽々木海岸をロケ地とした東宝映画『忘却の花びら』(主演:小泉博・司葉子)が公開され、「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして、忘却を誓う心の哀しさよ」の名文句が大ブームを呼んだ。横長のリュックを背負った若者が列をなしてぞろぞろと歩く姿を「カニ族」と称する言葉もこのころ流行した。さらに、昭和39年(1964)9月に国鉄能登線が半島先端まで全線開通、同43年(1968)に能登半島国定公園が指定された。
能登の観光の一時代を背負ってきた曽々木地区の人たちにとっては、地震と豪雨が打撃となった。この二重災害を忘れてほしくない。忘却されてなるものか、地域の人たちの想いに違いない。
⇒1日(火)夜・金沢の天気 はれ
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