自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆金沢の犀川大橋が架設100年 歴史と詩の流れ

2024年07月31日 | ⇒ドキュメント回廊

  金沢市の中心部を流れる犀川に架かる犀川大橋では今月7日に架設100周年を迎えるイベント「百寿(ももじゅ)祭」が開催された。同日夜は犀川大橋周辺を全面通行止めにし、歩行者天国とするなどにぎやかなイベントとなった。

  その犀川大橋の歴史を調べてみると、犀川の洪水の歴史でもある。大正時代の1922年8月3日、金沢測候所が明治の開設以来ともいわれた豪雨に見舞われ、犀川の堤防決壊は60ヵ所に及んだ。繁華街の片町や香林坊も大水害となった。犀川大橋はその3年前の1919年に市内電車の敷設のため木造から鉄筋製に架け替えられていた。ところが、上流に架かる大桑橋や上菊橋、桜橋などの木橋が押し流され、犀川大橋に追突し、大橋も流されてしまう。

  その後、犀川大橋は先の大水害の教訓を生かし、橋脚のない橋に設計され工事が進んだ。が、1923年9月1日の関東大震災の影響で鋼材が入手困難となり、一部はイギリス産を使用するなど困難を極めたが、1924年に現在の犀川大橋が完成した。そして、2000年には国の登録有形文化財に登録され今に至っている。(※写真は、上流から撮影した犀川大橋)

  この犀川大橋を身近に感じていたのは、金沢出身の詩人で小説家の室生犀星(1889-1962)かもしれない。何しろ犀川大橋の橋詰に近い真言宗の寺院「雨宝院」という寺で幼少期から青年期を過ごした。「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」。この「犀川」の詩が収められている詩集『抒情小曲集』は大正7年(1918)に刊行された。ということは犀川大橋が木造から鉄筋橋に替わるときにこの詩を創ったのだろうか。犀星は1910年ごろから上京し、詩人の北原白秋らを訪ねるなど、帰郷と上京を繰り返している。結婚し、東京に新居をかまえたのが1918年だった(Wikipedia「室生犀星」)。

  「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」。この詩も『抒情小曲集』に収められている。遠方にあって故郷を思う詩ではなく、犀星が金沢に帰郷した折に創られた詩とも言われている。犀川大橋から犀川を眺めながら詠んだのではないだろうか。

⇒31日(水)夜・金沢の天気    くもり

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