ワーク(仕事)とバケーション(休暇)を組み合わせた造語、ワーケーション(workation)は夢のような働き方と思っていた。景勝地にオフィスを構え、通勤時間は歩いて10分ほど。四季を肌で感じ、食事は近くのホテルやレストランで取れたての食材で寿司や海鮮料理や和食、イタリアンなどを楽しむ。仕事に集中でき、ストレスは溜まらない。そのようなイメージだ。それが、能登で現実に動き始めようとしている。
日経新聞北陸版(1月23日付)で、東証一部の医薬品商社「イワキ」が東京都中央区にある本社機能をことし6月から石川県珠洲市に段階的に移転するというニュースが掲載されていた。記事によると、本社機能は経営企画、人事、経理、情報システムなどの部門が含まれ、約110人を予定し、東京と石川で居住地や就労地を選べるようにする。新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、本社機能の一部を珠洲市に分散し経営上のリスクを減らす。珠洲の原材料を使用した商品を開発するなど地方創生に関わる事業の創出にもつなげる。
珠洲市は能登半島の先端に位置する。日本海に囲まれ、北部は切り立った断崖、南部には穏やかな海が広がる。軍艦のような形をした見附島や、しぶきを上げて流れる「曽の坊の滝」などの観光スポットとしても知られる(同)。
記事を読んで驚いたことに、本社機能を移転する予定のオフィスは古民家だ。1914年に東京・日本橋で創業した上場企業が能登の茅葺(かやぶき)の古民家に拠点を移す。前代未聞だ。
じつは、自身はこの古民家にこれまで3度訪れたことがある。もともと、日本画家の勝田深氷氏が1994年に東京から移住し創作活動をしていたアトリエだった。当時は「勝東(しょうとう)庵」と呼ばれていた。勝田氏は、最後の浮世絵師と称され、美人画で知られた伊東深水の二男で、姉は女優の朝丘雪路だ。サンフランシスコにもアトリア「勝東庵」を構えていたが、2012年7月にシスコで急逝した。しばらく、奥様が珠洲の「勝東庵」を守っていた。自身が初めて訪れたのは2013年5月、奥様から深氷氏の18年間におよぶ能登での創作活動の様子などうかがった。その後、珠洲市が文化芸術交流施設「文藝館」=写真・上=として管理している。この文藝館がオフィスとして貸し出される。
堂々とした建物の外観もさることながら、内部には深氷氏が遺した芸術作品がある。正面玄関から入ると、左手に杉の板戸6枚に描かれた見事な桜が出迎えてくれる。 作品名は「桜心(おうしん)」=写真・中=。この絵を眺めていると、現代画壇という感じではなく、まさに江戸時代の絵師の筆の勢いというものが伝わってくる=写真・下=。この絵を鑑賞していると新たなアイデア創出や思考力といった感性が高まるような気がする。板戸だけではない。芸術的な工夫が凝らされた玄関やトイレ、客間なども感慨深い。
文化財の建物などを会議の場として活かすことをユニークベニュー(unique venue、特別な会場)という言葉を用いる。まさに、ユニークベニューなオフィスではないだろうか。
この古民家の周辺は、「珠洲ビーチホテル」という8階建のホテルを中心に家族用のキャビン群もあるリゾート地としても知られる。震災などリスクヘッジを念頭に置いた地方への本社機能の移転は進むのではないか。人材派遣会社「パソナグループ」も本社機能の一部を東京から兵庫県淡路島へ移転することを発表している。今回のイワキのケースは古民家を活用するという点で、地方移転へのシンボリックな存在になるのではないだろうか。
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