自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★文明論としての里山6

2010年01月08日 | ⇒トレンド探査

 「ITや科学の技術がわたしたちの問題を解決する」、そんなふうに日本人は信じ続けている。元旦の新聞紙面には「携帯端末向けマルチメディア放送」を携帯電話から広がるバラ色の未来のような感じで紹介されていた。果たしてそうなのだろうか。情報の過剰、ニュース(大事件)の過剰、色彩の過剰、モノの過剰に現代人は悩まされ続けているのではないだろうか。これ以上、情報を得てどうするというのだ。そして、法律の過剰。社会は、窒息しそうなくらいに細かく法律をつくって、それに反した「犯罪者」を量産している。自家中毒に喘ぐ人々の姿、これは文明の行き詰まりではないのか、最近、そんなふうに考えている。

                                        過剰な時代の貧困な精神

  白山ろく、旧・白峰村(現・白山市)に焼き畑の伝統技術を現代に伝える人たちがいる。焼き畑の研究をしている橘礼吉(たちばな・れいきち)氏からこんな話を聞いた。「かつて焼き畑は原始的、粗放的な農耕といわれてきたが、そうではない。循環型の、持続可能な農法なのです」と。焼き畑というと、森林破壊の元凶とのイメージを持つ人が多い。化学肥料をまいて、その土地が持つ地力以上の農産物を搾り取るのが近代農業だ。焼き畑はそうではなく、地力を生かした農業であり、休閑地を設けて自然な森林の再生を促す。ヒエやアワをつくり、木から道具をつくる。炭を焼く、薬草を採取する。

  当地ではこうした生産スタイルを「出(で)づくり」と呼ぶ。水田の確保が難しい奥山の山中にあって、どうすれば暮らしを持続可能にさせることができるか、人々が自然と向き合い、自然の摂理を脳と体に叩き込んで得た知恵だったのだろう。人と自然の絶妙なバランスを限りなく追求した姿だった。焼き畑の時代に戻れと言っているのではない。その精神が「うつくしい」のである。『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド著、草思社)で紹介されているように、マヤの小国の王たちは気候変動の危機に直面しているにもかかわらず、「よりみごとな神殿をより分厚い漆喰で塗り固め、互いに負けまいと懸命になった」、そして文明の崩壊を招いた。この姿は、情報過多で喘いでいるにもかかわらず、さらに多くの情報を得ようと血道を上げる現代人の姿に似ている。

 ⇒8日(金)夜・金沢の天気   あめ   

コメント (2)
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