能登半島の先端、珠洲市三崎町に「へんざいもん」という言葉がある。自家で栽培した野菜などを知人や近所におすそ分けするときに使う。「へんざいのもんやど食べてくだし」と言って、ダイコンや菜っ葉を手渡す。「へんざいもん」を漢字で当てると「辺採物」、「この辺で採れた物」である。「手作りのもので、立派な商品ではありませんが、どうぞ食べてやってください」と少々へりくだった言い回しの贈り物である。誤解されがちだが、これは単なる物々交換ではない、隣人愛に満ちた贈与なのである。
失われた価値を求めて
この「へんざいもん」という言葉を数年前に知って、中沢新一著『愛と経済のロゴス』(講談社・2003)を想起した。グローバル経済を突き動かしているのは欲望だ。しかし、愛もまた欲望に根ざしている。となれば、愛と経済は深いところでつながっている。そんなところからいまの資本主義の有り様を批判したのが『愛と経済のロゴス』である。以下、著書を自分なり解釈しながら、経済とは何かを考えてみる。
いまの商品経済を支えているのは交換原理だ。近代資本主義は、この交換原理を全世界にゆき渡らせた。このグローバル経済で、かつてないほど豊かなはずなのに、なぜ幸福感も豊かさも感じられないのか。それは、資本主義という商品経済だけが発達し、何かのバランスが崩れているからだ。そのバランスとは、近代資本主義以前にあった、「贈与」「純粋贈与」という経済の要素である。著者が、例としてあげるのはバレンタインデーのチョコレートだ。もともとチョコレートには値札が付いていたが、贈るときには外され、「商品」としての痕跡が消される。同じチョコレートでも買うのと、贈られるでは価値が違う。そこには贈与とう愛がある。
贈り物にはそれ以外にも特性がある。例えば、朝市での物々交換ならば、モノはその場で交換しなければ、交渉が成立しなくなってしまう。だが、贈与の場合は違う。その場でお返しをするのではなく、時間をあけてからお礼をした方が隣人愛や信頼関係が持続している証(あかし)とされる。交換はマネーによって価値を決めることで可能となるが、贈与の方は、贈るモノの価値を極力排除することからスタートする。つまり、値札を付けて贈り物をする人はいない。前述の「純粋贈与」は、贈り物と返礼の関係ではなく、一切の見返りを持たない贈与、贈られたことの記憶も見返りも求めない贈与を「純粋贈与」と著者は表現している。
本来あった経済の「贈与」「純粋贈与」の部分を徹底的にそぎ落とし、「交換」に集約して近代資本主義は完成する。そして、幸福感も豊かさも感じられない経済に突き当たったのが現在である。著者は、最近の自然農法や有機農業、里山保全活動に共通するのは、数万年の時空を超えて、失われた贈与理論を復活させようとする試みではないか、と指摘している。重農主義とも言う。人間は農地に対して労働を注ぐ。重要なのは、贈与において相手を思いやる繊細な心が何よりも大切なのと同じように、耕す人々が細心の心遣いを農地に対して払うことだ。これによって、農地の価値が発生する。つまり、労働は農地に対する一種の贈与なのである。
話は「へんざいもん」に戻る。大地の恵みを得て、人は感謝すると同時に物質的な豊かさではなく、「隣人との関係価値」を求めて贈与を行う。人と人が結びつくことでより豊かになれると考えるからである。富の独占ではなく配分だ。収奪型のマネーゲームとは対極の構図である。私は何も昔に戻れと言っているのではない。人々は失われた経済の贈与価値を再び求めて始めているのではないかと思っている。
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