思い起こせば、警察官は昔は、相当偉そうにしていた。ところが、最近では少なくとも表面的には「やさしそう」になっている。もう、何年か前になるが、年始に先祖の墓参りに行った際、墓地に沿ってコンクリートの塀があり、その塀際にはお盆の時期などはずらりと車が並ぶのだが、年始でしかも時期が遅めだったために、車は一台も置いてなかった。駐車禁止とは意識しておらず、墓参りを終えて、ものの10分ぐらいだったか、戻ってみると車はなく、路上にチョークで牽引していった旨の記載があった。
近くの人が、今さっき引っ張っていったよ、とのこと。警察署まで歩いていける距離だから、さっそく、路上に貼ってあったと思うが、紙切れを持って出頭した。その時の署内の対応に驚いた。あちこち笑顔で、こちらをみている。受付の方からは、尋ねもしていないのに、ああ、それは2階です、と声がかかる。完全なお客様扱いである。年始一発目の「獲物」として、署内で話題になっていたのかもしれない。
それでも、居丈高に脅されるよりは、ましなことはいうまでもない。日本は、敗戦までは、お上とシモジモの扱いがはっきりしていた。そして、敗戦以後もはっきりと残っているところは残っている、というか厳然として生きている。
役所でも、郵便局も昔は結構偉そうにしていたものだったが、社保庁もなくなり、今は、概ねどこの役所も横柄なところはなくなっているようにみえる。それは、市民の側が、理不尽な人の言い分も含めて、文句を言う人が増えてきたこともあるだろうが、徐々に社会全体として、民主的という理念が少しずつ浸透してきたことによるのだろう。
しかしながら、本丸の本丸では、やはりシモジモはシモジモであって、支配と被支配の現実はあり、本当に日本が民主国家であるかどうかは、まだまだ疑わしい面がある。
ちょっとしたことから、その本音が現れる。泉佐野市が厳しい地方財政から、必死の工夫で、財源をひねり出したことが、総理府の怒りをかい、意趣返しをされて裁判となった。規則をさかのぼって使ったということで最高裁で国が負けたのである。お上にたてつくとは何事!の気分がよく出ている。
判決は、規則の遡り適用を認めなかったものの、泉佐野市のすべてを肯定したわけではなかったが、穏当な判決だろう。
役所の仕事は、「お役所仕事」と言われ、遅いことが特徴となってきた。とりわけ、今度のコロナ騒ぎで、厚労省の仕事ぶりが、どうも腑に落ちない。説明不足と秘密主義的な傾向、基本的姿勢が、昔の役所の姿を示している。昔が残っている。外国から感謝状まできている国産の自動化されたPCR検査機械が日本では使われていないというか、認可さえされていない。役所は、国民にしっかり目をむけているのだろうか。