空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

ほんとうに無理?

2007年03月07日 08時41分30秒 | 思考試行
 昨日は、あわただしく、というのは、「いつ何があってもオカシクナイ。」の医師の電話を、深夜に受けたものだから、そのときの段取りが、頭に浮かび、消えするものだから、どうしても片付けておかなくては、と思うものを、済ませておくことに、こだわったからである。

 考えればそれも、大したことではないのは、当然なのだが、渦中にあっては、やってしまわねば、と思い込んでしまう。

 ところで、病院へいくと、けっこう元気で、自力の脈を打ち始めているという、医師も首をかしげている。私のなかで、在宅で最後をみとるのが、スジではないかと思い始めている。いまは、大勢のスタッフのおかげで、なんとか、本人は、文句をいいながら、(苦しいので、当たり前のことなのではあるが、)生きていることができているのだが、在宅でそんなことは、不可能とおもいこんでいたが、ここまでくると、介護の大変さを、きちんと体験することも、人生のカリキュラムの大事な要素の気がしてきた。

 父は、自分の母親の世話をしていた。昔のことで、病院へ入ることなく、エンエン何年にわたるのだろう、介護を続けた。いまさらながら、頭が下がる。そのことを自慢げに話すことは、なかった。

 私は、在宅では無理であると、医師にもはなしていたが、あるいは、本人は、口にはしないが、在宅を希望しているかもしれない。本人にも在宅は、無理といっていたが、それは、母や、妻の状況からいっていたので、お前はどうなのか、と自問自答したわけではなく、あまり、考えもせず、無理無理と結論付けてきていた気がする。

 大小便の処理は、これは、自然のことであり、これを扱うことは、人間にとって当たり前のことなので、そんなこともできずに、人間を語る資格はない、のかもしれない。それをしてきた人と、しなくてすんだ人との差は、当然あるのだろう。

 母は、当時外へ働きにでていた。それが、母の自慢でもあるが、それは、逃げの手段の一つであったかもしれない。それは、少し酷な言い方かもしれない。その後父親の「しょんべんまき」事件に何度も遭遇しているし、その種の世話は、何度もしているのである。やっていないのは、私なのである。

 仕事と、覚悟の問題で、無理無理といってきたが、ここで、やはり、本人の意向をキチンときいて、やるべきことをやる時期がきたのかもしれない。

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