未来永劫人間はいきるわけではない。そのときは必ず来る。振り返ってかなり生きてきたなあ、という感慨があるのであれば、それで良しとして、「カミサンの思し召し」にまかせたらいいのではないか、という心境に立ち至る。
考えれば、いろいろあった。私の人生をふりかえってみても、それほど、誇る人生ではないけれども、あまり、人様に非難されることもないとすれば、それで、いいではないか、とも思う。
思い込みで、間違いであった、という事件についに遭遇した。永年、思い続けてきたことが、全然間違っていた。この年になって、こんな風になるとは、思いもしなかったが、事実が判明して、それは良かったのであるが、自信を失わないのは、どういうわけか。
それは、語調強く主張しながらも、逃げ道を、一応は準備していたからで、その辺は、年の功というより、イヤラシサということだろう。
思いもしないけれども、その用意だけはしておいて、もし、自分が正しいのであれば、それで良しとして、万一まちがっていれば、逃げ道を残しているという、いやらしい領域をキチンと確保しているところが、気持ちの悪いところといえる。
しかし、そのおかげで、決定的な立場に立つことはない。ただし、自分が正しいことを、前提として、確信して、話しているから、端々にそれが自ずと現れる。
謙虚な姿勢を保ちつつ、その実背景の「自信」の表現を、続けることとなる。
これを、はたからみていた家内に言わせると、自信に溢れて、迫力ありすぎだったといわれてしまうこととなる。
後だしで、いろいろ言われても仕方がないが、ここは、やはり、謙虚に反省して今後に生かして生きたいと思う。本当に、口から出す言葉は、簡単ではあるけれども、その効果は大きいものがある。
とはいいながら、あまり、気にすることなく、自分の思うまま、そのままに話せばいいのではないか、とも思う。自分で完璧にしようなどとは思わず、そのまま言えば、間違いであれば必ずどこかで、補正してくれることになるのではないかとも思う。
甘えればいいのではないか。そのために起こる現象は、すべて、自分の成した行為の結果であることを、認めてそれを受け入れればいいのであって、逃げる必要はないのである。
信頼して、自分のいいたいことを言う。それを受けて、心ある人々が、証拠を示してその誤りを指摘してくれるに「ちがいない。」
考えれば、いろいろあった。私の人生をふりかえってみても、それほど、誇る人生ではないけれども、あまり、人様に非難されることもないとすれば、それで、いいではないか、とも思う。
思い込みで、間違いであった、という事件についに遭遇した。永年、思い続けてきたことが、全然間違っていた。この年になって、こんな風になるとは、思いもしなかったが、事実が判明して、それは良かったのであるが、自信を失わないのは、どういうわけか。
それは、語調強く主張しながらも、逃げ道を、一応は準備していたからで、その辺は、年の功というより、イヤラシサということだろう。
思いもしないけれども、その用意だけはしておいて、もし、自分が正しいのであれば、それで良しとして、万一まちがっていれば、逃げ道を残しているという、いやらしい領域をキチンと確保しているところが、気持ちの悪いところといえる。
しかし、そのおかげで、決定的な立場に立つことはない。ただし、自分が正しいことを、前提として、確信して、話しているから、端々にそれが自ずと現れる。
謙虚な姿勢を保ちつつ、その実背景の「自信」の表現を、続けることとなる。
これを、はたからみていた家内に言わせると、自信に溢れて、迫力ありすぎだったといわれてしまうこととなる。
後だしで、いろいろ言われても仕方がないが、ここは、やはり、謙虚に反省して今後に生かして生きたいと思う。本当に、口から出す言葉は、簡単ではあるけれども、その効果は大きいものがある。
とはいいながら、あまり、気にすることなく、自分の思うまま、そのままに話せばいいのではないか、とも思う。自分で完璧にしようなどとは思わず、そのまま言えば、間違いであれば必ずどこかで、補正してくれることになるのではないかとも思う。
甘えればいいのではないか。そのために起こる現象は、すべて、自分の成した行為の結果であることを、認めてそれを受け入れればいいのであって、逃げる必要はないのである。
信頼して、自分のいいたいことを言う。それを受けて、心ある人々が、証拠を示してその誤りを指摘してくれるに「ちがいない。」