菅総理を「嫌い」と、自公がいい、マスコミがはやしたてる。大合唱である。なぜなのか。考え方は、そんなに違わないと思うのだが。
内閣機密費については、双方とも、どのように使うかについては、まさに秘密にしており、差がない。どっちもどっちなのである。
御用評論家どもは、ここからの金で、買収されてきたようだが、それは、民主、自公共に差がない。あるいは、その徹底の度合いが違うのかもしれない。
汚いけれども、その度合いが違うのかもしれない。まったくキレイとはいえないが、少なくとも、できればそうしたい、というのと、真っ黒けで、今までドップリと、もっと、うまいことやってきたグループとの違いかもしれない。
それなら、片方が「嫌い」といい、何とか、昔の「よき時代」を、取り返したいと思うかもしれない。みんななかよく、税金を、社会保険を、年金を、利権を思うさま利用して、弱者をいじめまくって、荒稼ぎをし、自分達は、優雅にしてきたあの時代を取り戻したいと思うのだろう。
とこらが、菅総理は、今では、浮気もしないし、真面目だし、有能だし、やる気もあるし、付け入る隙がなかなかないものだから、やることなすことに、文句をつけ、「無能」といい、挙句の果てには、「嫌い」と言い出した。
石原トッチャンボッチャンの人相は、ますます悪く、自民議員は、みんな、悪相になってきた。公明も同じである。何かモンクをいうというのは、筋が通れば、それは、カッコいいのだが、そうでなければ、醜さがでるだけである。
自公の、政治家が、軒並みヘンになってきた。辛うじて共産党が、マジメさを継続して、もっとも見やすくなっている。
それでも、勢いが、感じられないのは、何故だろか。若い力が出てきていない。組織の柔軟さ、軽やかさが、見えない。
今、どこの世界も、若者たちの元気な声が、どこかへ行った。それは、儲け専一の連中の作戦の効果と言える。彼らが若者たちの未来を摘み取り、儲けのエサにしているからだ。そこから、どう立ち上がるか。課題は、そこにある。
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