人生というものは、当然であるが、終わりがある。若い時はもちろんだが、高齢と言われる年齢になっても、意外にもあまり意識しない。
まだまだ、続くだろうと思っている。
だが、突然、終わりが近いことを感じさせられるときがある。暑い最中に、冷たい風がさーっときたときのように。
目眩、咳がとまらなくて、眠れない。少しでも変調があれば、それは、すぐに人生の終着を連想する。台風がくれば、何人かの人が犠牲になる。プールが始まれば事故がある。海でも川でも山でも、思いもかけぬ時に、人生の終わりがやってくる。
生きている限りは、何らかのやることがあって、とにかく、ジッとしているわけにはいかない。動物の宿命である。生きることは、大変なのである。
韓国の大統領の演説の調子が変わっていた。きのうまで「盗人たけだけしい・・・」と国家元首ともあるまじき言動で、日本をあざけり、不買運動を煽っていた人が、あんたの方から、話がしたいというのなら、会ってやってもいいよ、と言い始めた。
こんなに、言動を変えられたら、ウロウロしてしまうが、要するに、どうも信用ならない相手であることがいよいよ、はっきりしたということのようだ。
日本は、ずっと、いわゆる舐められ切っている国なのだ。敗戦以来、日本の生きる道は、聖職者として世界に平和を訴え、導き、戦争なんか馬鹿げたことだと、他国に、説教するしか生きる道はない国なのである。
それに我慢できない、戦争のできる、普通の国になりたいという本音を持つ政治家が、今、日本にはたくさんいるということだ。国民は、誰だって、戦争なんかしたくない。だが、政治家は違う。彼らや、彼らの子弟は、行きたくなければいかないようにするだろうが、(アメリカはそうしているようだ。)
昔の日本は、権力者の子弟といえども、戦争には行っていた。乃木希典さんは、息子を戦死で失っている。
これからの政治家も、日本の場合はそうするかもしれない。だが、そんなことをしていたら、人類は、これ以上、存続できない方向へと進むほかない。戦争する種なら、なんぼでもある。
どうしても、対立構造があり、その決着をつけることは、事情が重なって、解決が難しい。となれば、黒白をつけるのは、戦争しかない。あるいは、コンピュータの仕事となるかもしれない。数値的に判断するほかないかもしれない。
国際的な取り決めも、突然無効となったり、せっかく作った、仕組みをひっくり返してみたり、文大統領は明らかに変である。だが、このへんな大統領を支持する結構な数の国民が、旗をもってデモしている。
この光景自体が、人生の不思議感をいやがうえにも盛り上げてくれる。
人類全体が、滅びたとしても、なんの不思議もないと思う。だって、そんな連中が核爆弾を持ったり、持とうとしたり、使いやすくして、使おうかというのだから、基本的なところで、諦めるしかないと思ってしまう。
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