ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[韓国語の旧語] 「ハコバン(箱部屋)」は日本語由来なので「パンジャッチプ(板子家)」に・・・

2014-04-21 23:56:37 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 神保町にある韓国専門書店の老舗で、私ヌルボも四半世紀前(?)からひいきにしている三中堂が来月佐倉に移転することになりました。横浜在住の私ヌルボとしてはとても残念なことです。
 ※1ヵ月ほど前の「朝鮮日報」でも報じられました。(→コチラ。→日本語版。)

 実はちょうど2週間前、ちょっとした偶然が重なって、この三中堂の店主・佐古さんとお酒を飲みながら話をするという機会を得ました。
 このことは、佐古さんがご自身のFACEBOOK(→コチラ)に記されていて、私ヌルボとしては甚だ恐縮の至りです。
 今まで私的な話を交わすことはなかっただけに、伺いたいことがいろいろありました。

 その中で、佐古さんが初めて行った時のことが聞けたのがよかったです、・・・と言っても、限られた時間だったので、そのサワリの部分なのですが・・・。
 驚いたのは、その初の韓国旅行というのが1968年だったということ。(2回目は1973年。) 佐古さんは私ヌルボと同い年。大学生の頃です。(ヌルボは大学の第三外国語で朝鮮語を選択するもわずか数回で脱落するという最初の挫折を経験した頃。)

 船で釜山へ行ったとのことで、関釜連絡船と思ったら、神戸港からの貨客船だったそうです。そういう船便があったのですね。
 それから正味16日間の韓国あちこち旅行となるわけですが、上記FACEBOOKを見るとやっぱり旅行記録をきっちり残されているようです。早く読みたいものです。

 いろいろ伺った中で、当時のソウルの街の印象ということで佐古さんが口にした言葉が「ハコバン」駱山(ナクサン.낙산)に密集しているそのハコバンを見て驚いたとのことでした。

 私ヌルボ、なんとなく聞いたことはあるといった程度の言葉です。箱+パン(방.房=部屋)でハコバン。バラックといった意味の言葉です。
 
 帰宅後하코방(ハコバン)」でネット検索すると約1,370,000件のヒット。「하꼬방」だと約27,700件です。
 このような日本語由来の、あるいは日本語混じりの言葉は別の言葉に言い換えるという「基本方針」に則って、この言葉も판잣집(パンジャッチプ)」とするのが正しいとされているようです。「판자(板子)」+「집(家)」の合成語で、「판자집」という表記例も多数あります。しかし、検索のヒット数は판잣집が約232,000件、판자집が約129,000件で、하코방よりはるかに少ない数字です。
 実際、2010年11月の「OhmyNews」の<「ハコバンに住む人は人ではないのか」 行き場所のない(仁川市)トファ洞の住民たち、開発のあおりで生活基盤を失う>という記事(→コチラ)でも見出しに하코방という言葉を使っています。

 また、하꼬방촌(ハコバンチョン[村])という言葉もありますが、近年はこれも「달동네(タルトンネ.月の街)」「판자촌」(パンジャチョン.板子村)とすべきだ、と指摘されています。(90年代以降の親日清算の流れで、日本語由来の言葉を否定する執念情熱はなみなみならぬものがあります。)
 ※タルトンネ(月の街)というのは、そのような貧民街が丘の上にあるため、月に近い所という意味でよばれたのです。サントンネ(산동네.山の街)も同じ。イ・チョルファン(作)草剛(訳)の「月の街 山の街」の題意もそういうことです。原題は「연탄길(練炭の道)」ですけど。
 駱山も、東大門の北、恵化駅の東の方の丘です。
 ※現在の駱山の外観については→コチラや→コチラに写真&説明があります。

 しかし、ハコバンは基本的に板切れで囲ったバラックなので板子家でOKですが、タルトンネの家は基本的にセメント壁。道もセメントで固められていてたりしています。
 また時代的にも、ハコバン村(パンジャ村)は終戦後~朝鮮戦争の時期に形成され、70年頃まで続いたのに対し、タルトンネは70年代以降現代に至るまでの経済成長期に形成されてきた街区とみる方がより的確です。
 もっとも、タルトンネはソウル五輪の前後から再開発が進められ、とくに今世紀に入ってからはどんどん消えていってます。それとともに、最近では人々に蔑視され忌避される所というよりも、人情を厚かった昔を思い出させる所としてドラマや映画の舞台になったり(「製パン王キム・タック」等)、観光客が訪れたりする街となっています。また、かつて板子村が並んでいた清渓川沿いには清渓川板子家体験館ができ(→コチラ参照)、仁川のかつてタルトンネがあった水道局山にはタルトンネ博物館が造られました。(→ソウルナビ。→コネスト。)
 どちらも、日本の1950~60年代を思い起こさせる懐かしい雰囲気が漂っているようです。私ヌルボはどちらも行ったことはありませんが・・・。
 ※このタルトンネの歴史については、立命館アジア太平洋大学の轟博志准教授の→コチラの論稿に詳しく述べられています。

 また、現在もパンジャッチプがないわけではありません。2008年のコチラ→の<OhmyNews>の記事は「31年暮らしてきてもパンジャッチプは自分の家にならないのか?」という、公園造成のため追い立てをくらっている住人に取材しています。(コチラはハコバンではなくパンジャッチプ。) 外見はバラックそのものでも、中は冷蔵庫やガス台もあって、けっこうフツーです。

 ちなみに、韓国で最初のパンジャ村はソウル市龍山(ヨンサン)のヨンサン洞2街を中心とした辺りで、「해방촌(ヘバンチョン.解放村)」とよばれてきました。終戦後日本や旧満州等から引きあげてきた人、「越南(월남)」すなわち北朝鮮から38度線を越えてきた人たち等が米軍部隊から流れてきたボール紙の箱や板で囲って壁にした家が多かったとか・・・。そして朝鮮戦争中に避難したり、家や財産を失った人たちが多数定着したということで、そんな歴史に由来する呼称です。
 昨2013年にこの「解放村」に行ってきた人のブログ記事を2つ(→コチラと→コチラ)読みました。お二方とも越南してきたおばあさんの話を聞いているんですね。いい話です。写真からも今の「解放村」の雰囲気がよく窺えます。

 ところで、私ヌルボがなんでハコバン村(パンジャ村)やタルトンネに興味を持ったかというと、最近たまたま大阪の日之出書房(→関係記事)で購入した櫻井義之「明治と朝鮮」(復刻版)という本の「土幕民と火田民」という一文を読んでいたからです。この土幕民とは、ウィキペディア(→コチラ)の説明にもあるように、日本の統治時代に「官有地私有地を無断占拠して居住する者」(京城府の定義)で、その住居(=土幕)は写真にもあるように竪穴式住居と見間違えるようなものさえあったということです。

       
 【1964年に刊行された本の1995年の復刻版。「土幕民と火田民」は1932年の論考。右の写真の場所は記されていません。】

 問題は、土幕民たちに公有地・私有地等という土地の所有権という観念が希薄だったということのようで、それは現代にまで及んでいるのでは、ということ。(上述の31年板子チプに[不法に]住んでる人もそんな感じが・・・。)
 また上掲のウィキペディアには、(日韓併合後日本に移り住んだ朝鮮人たちは)「内地においても土地を不法占拠し、土幕を形成するようになった」(例:ウトロ等)と相当に批判的な筆致で書かれていますが、ヌルボが考えたのは、そのような観念も歴史的に形成されるものなので、その点を理解しないとただ軋轢を生むばかりではないか、ということ。とくに必要がなければ、竹島とか尖閣のような領有権なんてどうでもいいわけだし、現に近代以前はどうでもよかった。それと同様です。
 最近読んでちょっと驚いたのは「李朝社会には村境もなければ、荘園台帳の一冊もない。あるのは、流民の集まる粗放な同族中心の村と、所有権のない荒蕪地ばかりである」という古田博司筑波大教授の著書の記述と、それを紹介している辻本武さんのブログ記事(→コチラ)に記されているたとえば次のような知見です。
 李朝時代に荘園台帳がなかったのは、地縁共同体が成立していなかったから荘園台帳を作成する必要がなかった、ということです。また村境がないのも、地縁共同体としての範囲を定める必要がなかったからです。男系血縁共同体である宗族のみが重要な李朝社会では地域全体の利益を考えることはなかったのですから、地域の記録・文書を作成すること自体がなかったのです。
 ・・・いやー、私ヌルボ知りませんでした。もしかして、こういう歴史もいろんな形で現在にまで影響を及ぼしているのでは、と思った次第です。

 いかんなー、この頃たくさん書きすぎだなー・・・。

     
          【現在の駱山(ナクサン)方面の景観。(GoogleEarthから加工。)】
コメント (2)
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