ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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「週刊ポスト」(3月28日号) <韓国軍はベトナムで何をしたのか>について ・・・・ ライダイハンのこと等

2014-03-19 19:37:04 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 ぼちぼち一般週刊誌にも取り上げられるだろうな、と思っていたら案の定。

 現地発緊急レポート「韓国軍はベトナムで何をしたのか」と題して、「遂に自国内で告発されたレイプ、慰安婦、民間人虐殺」について書いています。

 これまでも、ベトナム戦争での韓国軍の所業についてはいろんなところで指摘されたりはしてきましたが・・・。

 その内容の詳細についてはここでは略します。

 しかし「ライダイハン(라이따이한)」という言葉は、最近わりと知られるようになってはきましたが、まだ一般的にはなっていないようなので、少し説明しておきます。
 これは「韓国人兵士による現地ベトナム人女性に対する強姦などの性的交渉によりもうけられた子供」のことです。その数ははっきりしません。1500人~3万人ぐらいと幅があります。
 この言葉は「ライ(𤳆.混血児の卑語)+ダイハン(大韓)」というベトナム語の合成語で、差別語です。・・・と、日本版ウィキペディアの「ライダイハン」の説明にあります。(→コチラ。)

 「週刊ポスト」(→公式サイト)には、「国民はこの事実を知らされていない」とありますがそれは間違いで、ウィキペディアの説明文中にもあるように、ベトナム戦当時韓国軍の起こした虐殺事件については進歩系の週刊誌「ハンギョレ21」が1999年記事を掲載したのが最初。この時は「退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入」するといった騒ぎもありました。
 また、その後ライダイハンについても1996年MBCの報道特集や2007年SBSのドキュメンタリー番組等のTV番組で報じられました。経済成長後東南アジア勤務の韓国人男性と現地女性との間に生まれた「新ライダイハン」も問題化されました。(2007~08年のSBSのドラマ「黄金の新婦」もそうした背景の下で作られました。)
 ※しかし、ライダイハンや新ライダイハンという言葉を韓国人の多くが知っているというわけでもないようです。googleのヒット数は約68,800件で、「少ない」と言ってよさそうです。
 ※1996年のMBC報道特集「ライダイハン」(42:45)は、昨年(2013年)4月YouTubeにアップされています。コチラ。韓国語がわからなくても、映像でおおよその内容はつかめるのでは? コメントを見ると、良心的な人もいれば、「妄言」をカキコしている人もいます。

 そして最近の報道では、3月8日付の「朝日新聞」に<「韓国軍のベトナムでの性暴力、謝罪を」元慰安婦ら会見>という記事がありました。(→コチラ。)
 韓国人の元日本軍慰安婦と支援団体代表らが7日、ソウルで記者会見し、ベトナム戦争に参戦した韓国軍による「ベトナム人女性に対する性暴力や民間人虐殺」について、「韓国政府が真相を究明し、公式謝罪と法的責任をとるように」と訴えた。
 ・・・というものです。
 イジワルな見方をすれば、ライダイハンその他、韓国軍の過去の「蛮行」を無視したままだと、日本に対する抗議や要求運動にとって障害になると判断したから・・・、かもしれません。が、だからといって非難するものでもないと思います。(今後、北朝鮮の強制収容所等々の人権問題を追及するようなことがあればヌルホも認識を改めますが・・・。)

 また、韓国版ウィキペディアで「라이따이한」の項目(→コチラ)を見てみて気づいたことは、日本版との大きな違いです。
 日本版に書かれているベトナム戦争での「韓国軍の虐殺行為」と「虐殺行為の詳細」については全然記述ナシ。上記のような「強い抗議」が予想されるからか、「事実認定」に問題があるからか? それとも・・・。

 私ヌルボが思うに、どこの国であれ民族であれ、不当な虐待・虐殺は当然否定され批判されるべきものです。
 ただ、それが国際政治の道具とされるとなると話は別です。
 およそどの国も歴史をだどればスネの傷は多々あるのが当然。相手側のスネの傷だけをあげつらって非難すると泥仕合に陥るばかりです。
 どうも、熱く議論しあっている日本人も韓国人も、自分の持つ民族的アイデンティティといったものに囚われすぎているようです。(もちろんそれは日本よりは韓国、韓国よりは中国の方が強いですが、日本も同じ文脈で対抗するのはいかがなものか・・・。)
 殺害した人数の多さはその加害国(民族)の残虐性の指標でもないし、100万人殺した国が別の所で100万人殺されたからといって「差し引きゼロ」で清算されるわけでもありません。
 国単位の発想からしばし離れて歴史をみる視点が必要だと思います。

 今重視されるべきことは、過去、とくに近代以降の国民国家体制の中で繰りひろげられてきた数々の悲劇を、今後は決して繰り返さないという意思・姿勢・施策を明確に示すこと。そして人権と平和という普遍的価値観の確認です。
 それが見えてこないと、「反省」も「謝罪」の言葉もウソっぽく見えてしまいます。
 一方、「要求」や「抗議」をする側にとってもそれが基調になっていないと、単に昔のことに言いがかりをつけて補償を得ようとしている、とか、(普遍的な人権ではなく)民族的自尊心を満足させるためにやっていると見られてしまいます。

 現在展開されているような「対立」は、皮肉にも普遍的価値の確立とは逆方向に進んでしまっている部分が大きいようです。