ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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朝鮮から引き揚げた一女性からの聞き書き

2010-04-26 21:41:25 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 前の記事に記した朝鮮戦争の写真展の展示室で、係の人に話しかけている年配の女性が目にとまりました。
 「私、朝鮮から引き揚げてきたので・・・」という声が耳に入ってきます。係の人がどう対応したかわかりませんが、その女性がその場を離れて写真を見始めた頃合いをみて、私ヌルボ、話しかけてみました。
 
 「どちらにお住まいだったんですか?」
と尋ねると、
 「<たいでん><じんせん>に・・・」
とのお答え。
 一瞬頭の中に「?」がよぎりましたが、
 「大田(おおた)と書く、<たいでん>ですね? 今テジョンって言ってる・・・」
と何とか思いつきました。

 続けて話をうかがうと、お父さんは朝鮮総督府に勤めていたとのこと。
 「当時のことだから、おおっぴらには口にできないけど、父は家では「朝鮮人がかわいそうだ」とよく言ってましたよ。で、私も今でも他人事のようには思えなくて・・・。」
と、この写真展も見にきたと語られる。

 お父さんは朝鮮総督府で朝鮮人の徴用(徴兵?)などの仕事をされていたらしい。
 ところが戦争末期「多くの朝鮮人を戦地に送り込んだ自分が行かないわけにはいかない」と自ら志願して兵となり、その後あのレイテ戦で戦死。

 総督府の日本人の中にも、こんな誠実な方もいらっしゃったんですね。
 娘のIさんは終戦当時9歳。朝鮮人に襲われて壊された日本人の家も多かったけど、「私たちの家は朝鮮の人たちが守ってくれて助かった」そうです。

 朝鮮からの引き揚げは終戦の翌月の9月。事前に釜山まで送った家財は「日本人の物」ということで焼かれてしまい、ほとんど着の身着のままで日本に渡ります。

 Iさんの記憶では、「小さな船」だったそうです。港を発つ時5隻だった船が、唐津の港についた時には2隻。つまり3隻は知らぬ間に「消えていた」とか・・・。浮遊機雷に触れて沈んだのか・・・。

 たまたま、私ヌルボが読んでいる途中の古書「秘録 大東亜戦史」(冨士書苑.1953)には、8月15日の敗戦、韓国でいう光復前後のさまざまを記した手記が収録されています。

 大多数の日本人を支配していたのは、ただ「日本へ帰ろう」という気持ちだった。

 「××行」の旗を立てた機帆船が動いていた。日本に帰る人は、その船に勝手にのってゆけばよかった。税関、荷物の検査も何もなかった。荷物ものせられる、早ければ十二時間、おそくとも一昼夜で着くというので、みな争って乗った。しかしその間、暴風雨その他機雷、海賊船などで犠牲も相当でた。
 米軍が計画輸送を実施した十月十六日からこの機帆船は禁止された。

 唐津市に上陸したものは、全南、全北、慶南のものを合せて四万名におよんだという。


 当時、機雷の危険性が高かったため下関港へは入港できず、朝鮮からの船は博多や唐津、山口県の仙崎港に入港したようです。
 しかし、帰国する途中で沈んだ船や犠牲となった人たちの記録はどれくらいちゃんと残っているのでしょうか? ネット検索してもよくわかりません。まさか、「しかしその間、暴風雨その他機雷、海賊船などで犠牲も相当でた」という記述だけで済まされているわけはないと思いますが・・・。西新宿の平和祈念展示資料館あたりに資料があるかも・・・。

 今年75歳というIさん。2004年に、戦後初めて韓国に行ったとか・・・。「すべてがすっかり変わって・・・」。

 若い人たちに昔の話をするようなこともほとんどなく、また話を聞こうという人もいないようです。私ヌルボ、もっと詳しく聞きたいこともあったのですが、閉館時間まで1時間もなく、そのままお別れしました。

        
 【「秘録 大東亜戦史 朝鮮篇」。貴重な手記が収められています。】
コメント
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