ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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朝鮮戦争の写真展からわかったこと at日本新聞博物館

2010-04-24 23:54:57 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 4月17日(土)から横浜の日本新聞博物館で、「朝鮮戦争から60年 戦場の記録」と題した企画展をやっています。(6月27日(日)まで)

 すでにブログのネタは飽和状態だというのに、私ヌルボと同類の韓国オタク、お酒の好きなTヒョン(兄貴)からこの企画展をやっていることを聞いて、今日関内まで見に行ってきました。

 アメリカ紙「ニューヨーク・デイリーニューズ」から共同通信社が入手した満洲事変(1931)~朝鮮戦争(1950~53)の戦争報道写真約2万9千点を寄託され、そのうち朝鮮戦争関係が約3600点。その中から202点を厳選して展示しているものです。

 1950年6月25日の北朝鮮軍の総進攻から53年7月27日の休戦協定締結まで、時系列にしたがって展示されています。
 それぞれの写真説明は詳しいものではありませんが、何よりも写真自体が多くのことを物語っていて、メモを取りつつ見ていったら、結局2時間近くかかってしまいました。

 以下、とくに気づいた点を列挙します。

戦争中の実にさまざまな場面・風景を写している。米軍兵士だけでなく、韓国兵やトルコ兵、北朝鮮や中国の兵士(捕虜)、韓国の人々等々の人間、戦地の風景、飛行機から撮った、空襲で破壊された都市や工場や鉄道等々。
 太平洋戦争当時の写真も同様ですが、従軍カメラマンの活躍と、彼らの役割をアメリカ政府や軍当局が重視していたかがうかがわれます。

開戦を伝える新聞も展示されています。
6月25日「毎日新聞」は号外で「戰爭狀態を布告」「北鮮共和国、韓国へ」と報じています。(「2時20分」とのメモあり。) 翌26日の「讀賣新聞」は「北鮮軍の主力南下」という見出しで1面のトップ記事にしています。
当時の新聞は<北朝鮮>でなく<北鮮>だったのですね。しかし、1行15字詰の小さい字を昔の日本人は読んでたんですねー。あ、昔の私ヌルボもふつうに読んでたんだー・・・。

戦火を逃れて南への道をたどる住民。はだしの人もけっこういます。荷車に家財道具を乗せて牛の引かせている人、牛の背にたくさんの荷物を乗せ、自分も乗っている人もいます。
女性は皆チマ・チョゴリで、頭に荷物を載せた人が目につきます。洗面器を手で支えないで載せている女性も写っています。
 いつ頃までなんだろう? 昨年12月にソウルに行った時、めずらしく頭に物を載っけたおばさん(おばあさんではない)を見かけましたが、カメラを取り出してる間に見失ってしまいました。

大田駅前でアメリカの歩兵部隊を迎える多くの市民の写真。背景の商店の看板は「平和館」「共成堂製菓所」のように左→右書きもあれば「里千三」のように右→左書きもあります。漢字使用が普通だったようで、つけたし的に「담배」(タバコ)とか「공급과자」(高級菓子)のようなハングルが書かれています。

1950年9月、仁川上陸作戦で捕虜となった北朝鮮軍の捕虜は丸裸にされたんですね。武器隠匿を警戒してとのことです。また同月、ソウル郊外で女性捕虜1号となった19歳と16歳の従軍看護婦の写真もありました。存命であれば今70代後半ですか・・・。

1950年12月、北朝鮮の興南の国連軍墓地で葬送ラッパを吹く海兵隊兵士。数十(?)の十字架が並んでいますが、今どうなってるんでしょうね?

⑦北朝鮮深く進攻した米軍が、中国人民義勇軍の参戦により後退する際、大同江の橋を破壊しましたが、その橋の骨組みにしがみついて、まさにアリの群れのように逃れようとする平壌市民。その写真は1951年のピュリツァー賞を受賞したそうです。
 戦線が南に北に移動する度に、多くの住民も各地を移動し、やはり米軍の爆撃で橋が破壊されたソウルの漢江のような川を越えるのは大変だったようです。漢江で、幅の狭い歩道橋を多くの人が渡っている写真もあります。(歩道橋といっても道路をまたぐ歩道橋じゃなくて・・・)

1950年11月、「敵と内通した韓国人」ということで609人が死刑に。その10冊の場面の写真もあります。

済州島に小舟で渡った避難民も7万人に上ったそうです。孤児1000人も・・・。
 全体的に、子どもの写真が目につきます。

1951年3月、旧朝鮮総督府が、焼けて骨組みがあらわになってしまっている写真があります。私ヌルボ、初めて見ました。

1952年9月、説明文によると「在韓国連軍後方には4万人のゲリラが活動」とあり、さらに「韓国警察は13ヵ月間に1万3千人射殺」とあります。同じ民族同士。戦争がなければ殺し殺されずにすんだのに・・・。

遺棄死体数百といひ数千といふ いのちをふたつもちしものなし 土岐善麿(1940)」
 多くの死体が並んだ写真を見ると、この短歌が思い出されます。
 咸興の洞穴から発見されたという数十(?)の虐殺死体の写真。20日の記事で紹介した<老斤里事件>の他にも、無辜の住民が殺された事例はいろいろありそうです。

厳しい状況の中でも韓国女性のたくましさを感じさせるのが、戦時のソウルの路上でお好み焼きを売る女性や、米兵向けに立ち木や井戸を利用して洗濯屋を開いている女性。たいしたものです。

巨済島の捕虜収容所。捕虜たちは命令を無視して毛沢東・スターリン・金日成の肖像画を掲げたりしています。
 かつて虐げられた人々の希望の星だった3巨人。今明らかになっていることを思うと、私ヌルボ、暗澹たる思いにとらわれてしまいます。(とくに金日成の野望と決断のためにどれだけの人々が命を失い、不幸な目にあったことか・・・。)

1954年1月20日、板門店で、中華民国の青天白日旗と蒋介石・孫文の肖像画を掲げ、中華人民共和国への送還を拒否する中国軍捕虜たち・・・。一方で北朝鮮に囚われた米軍捕虜21人は報道陣に対して「送還拒否」の意向表明。「THEY CHOSE THE COMUNIST SIDE(彼らは共産主義者の側を選んだ)」。

[付記]
 この企画展の感想ノートが置いてあって、チラと見てみると次のような記述が・・・。

 「今なぜこの写真展か。」
 「同感。朝鮮戦争がはじまったのを日本のせいにしたいようである。」
 「国連軍が<介入> 中国人民義勇軍が<参戦> この違いは何か?」

 朝鮮の南北分断についての日本の責任論にも首をかしげてしまいますが、朝鮮戦争についての責任はそれよりさらにありえないでしょう。「同感」と書いた方は思い込みが過ぎるのでは?
 最後の指摘はごもっとも、かも・・・。
 上記<北朝鮮軍の総進攻>の用字は展示の文言そのままですが、<侵攻>の方が妥当ですかね。
コメント
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