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再開に向けての備忘録(その3)

2022-10-18 | 唯善と後深草院二条

早歌における「白拍子三条」と同様、「昭慶門院二条」が後深草院二条の「隠名」ではなかろうかと疑っている私としては、飛鳥井雅有が『とはずがたり』『増鏡』に登場しているかも気になりますが、『とはずがたり』には全く出て来ません。
『増鏡』にも本人は登場しませんが、巻十四「春の別れ」には、正中元年(1324)の後宇多院崩御後、「雅有の宰相の女〔むすめ〕」である「宰相典侍」が万秋門院と哀傷の歌を贈答する場面があります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p126以下)
ということで、『とはずがたり』『増鏡』いずれにも雅有と後深草院二条の直接の関係を窺わせる記述はありませんが、しかし、『春の深山路』には、雅有が久我家の家司で『とはずがたり』にも登場する藤原仲綱(「尾張守仲綱入道」)とその息子・仲頼と親しく交流する様子が出てきます。
まず弘安三年(1280)三月七日、雅有が亀山院の近臣や女房たちにせがまれて千本釈迦堂に花見に行ったところ、雨が激しく降り出してきたので、一行は釈迦堂で雨宿りします。
そして、

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帰りざまに、尾張守仲綱入道、もとより籠り居て侍りしが許へ駆けて逃げ侍りし。
  暮れぬとて今日来ざりせば山桜雨より先の色を見ましや
皆々人々は道よりあかれぬ。今ただ雅藤・業顕ばかりにて帰り参りぬ。猶雨降る。さらばとて、この人々を引き連れて帰りて、夜もすがら物語してぞ、遊びぬる。

【外村南都子訳】
帰り道に、前尾張守仲綱入道が以前からこもっていた家へ、走って逃げ込んだ。
  暮れぬとて……(日が暮れたからといって今日来なかったならば、雨に降られる前の
  美しい山桜の様子を見られただろうか、いや見られなかっただろう)
人々はみな道の途中で別れた。今はもう雅藤と業顕だけで、一緒に帰ってきた。まだ雨が降っている。それではと、この人々を連れて家に帰って、夜通しおしゃべりして遊んだ。
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ということで(p326)、仲綱入道は極めて唐突に登場しますが、雅有が大勢を引き連れて突然訪問しても驚きもせず歓待してくれたようなので、雅有とはよほど気心の知れた間柄ですね。
ところで、『とはずがたり』には、文永九年(1272)八月、仲綱は後深草院二条の父・雅忠の死の直後に出家して千本の聖のもとに住んでいたとあります。
即ち、

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 五日夕がた、仲綱こき墨染(すみぞめ)の袂(たもと)になりて参りたるをみるにも、大臣(だいじん)の位にゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ思ひつるに、思はずにただいまかかる袂をみるべくとはと、いとかなしきに、「御墓へ参り侍(はべ)る。御ことづけや」といひて、彼も墨染の袂、乾くところなきを見て、涙おとさぬ人なし。

【次田香澄訳】
 五日の夕方、仲綱が濃い墨染(すみぞめ)の衣の姿にあらためて参ったのをみるにつけても、父が大臣の位になっていらっしゃったならば、仲綱は四位(しい)の執事(しつじ)などになるはずと、みな思っていたのに、思いがけずただいまこういう出家の姿を見ようとはと、まことに悲しい。「お墓へまいります。何かおことづけでも」といって、彼も墨染の袂(たもと)が乾くところもないほどであるのを見て、涙を落さない人はなかった。

http://web.archive.org/web/20150512051734/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-18-menotorashukke.htm

とのことで、雅忠が大臣に出世していたら仲綱も「四品の家司」になれたはず、というのが後深草院二条の見立てです。
そして仲綱が千本釈迦堂の近くに住んだことは少し後、父親の四十九日が済んで間もない時期に、後深草院二条が乳母の家で「雪の曙」(西園寺実兼)と契る場面に、「めのとの入道なども、出家の後は千本の聖のもとにのみ住まひたれば」と出てきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p147)
『春の深山路』は雅忠の死の八年後、弘安三年(1280)の仲綱の様子を描いていますが、出家して千本釈迦堂の近くに住んでいることは『とはずがたり』の記述と一致していますね。
さて、仲綱の息子の仲頼は雅有が関東に向けて出発する直前、十一月十一日に登場します。

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十一日、下るも幾程なければ、いとど名残も多くて、暮るる程に東宮に参りぬ。廂に出御あり。いかに思ふらむなど打ち湿りおはしまし、常灯も参らず、月御覧ぜられておはします。大方にだにこぼれやすき涙の、いかでかかかる御気色につれなからむや。いひ知らぬ袖の上なり。月をだに宿して見むには、げに濡るる光にいてもあらまし。「仲頼といふ新院の上北面、名残とてまうで来たり」と申せば、ただ今出でむもいと口惜し。又出でざらむも人のため情なかるべし。とばかりありて、ちとこの由を申して、やがて帰り参らむとて、頼成を申して相具して出でぬ。盃廻る程なく又参りぬ。【後略】

【外村南都子訳】
十一日、関東下向も間近であるから、いっそう名残惜しさもまさり、夕暮の頃、東宮御所へ参上した。東宮は廂間にお出ましであった。出立の後はどのように思うであろうかなどと、しおれておいでになり、灯火もつけさせずに、月を御覧になっていらっしゃる。そうでなくてもこぼれそうな涙なのに、どうしてこのようなご様子に平気で、涙せずにいられようか。言いようもないくらい涙に濡れる袖の上である。その袖に月を宿して見るならば、本当に濡れたように輝く月光であろう。「仲頼という亀山院の上北面の武士が、お別れを、といって参っております」と申すのだが、今退出するのもたいそう口惜しい。また、退出しないのも相手に対して情のないことであろう。しばらくいて、ちょっとこのことを申して、すぐ帰ってくるといって、頼成を申し受け、一緒に退出した。盃が一巡する間もなく、また御所に参上した。
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ということで(p265)、ここだけ見ると、せっかくの東宮(熈仁親王、伏見天皇)との別れの場を仲頼に邪魔されてしまったのは残念だ、と言っているように見えますが、藤原頼成と三人で一杯やってから東宮御所に戻って来ている訳ですから、雅有は仲頼とも相当に親しい間柄ですね。
仲頼は五年前の関東下向の際の紀行文である『都路の別れ』にも登場しており、こちらでは雅有との親しさがよりはっきりと描かれています。

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