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再開に向けての備忘録(その12)

2022-10-27 | 唯善と後深草院二条

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者六人のうち、慶融(生没年未詳)については全く触れてきませんでしたが、この人は為家(1198-1275)の息子で、為氏・為教の異母弟、為相の異母兄、為世・為兼の叔父です。
小林一彦氏の「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究紀要』5号、2000)によれば、慶融の歌は、

12 玉くしげはこ根の山の峰ふかくみづうみ見えて澄める月影
  (夫木抄・雑五・はこねのうみ、相模・一〇三一〇・「三島社十首歌、山月」・慶融)

というもので、『夫木抄』のおかげでこの一首だけが残された訳ですね。
ちなみに『夫木抄』は勅撰集未収歌一七三五〇余首を部類した類題集で、編者は地方武士で冷泉為相の門弟・勝間田長清です。

夫木和歌抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E6%9C%A8%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84

さて、井上宗雄氏の『中世歌壇の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)によれば、慶融は次のような人物です。(p55以下)

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慶融 正応三年、木田本拾遺愚草に次の如き奥書を記した(岩波文庫本参照)。

 正應三年正月於大懸禅房以
 京極入道中納言家眞筆不違一字少生執筆寫之畢、以同本校合之  隠遁慶融<有判>

次に「正安三年三月日於鎌倉大仏亭書写畢 右筆素月<有判>」とある。素月は撰要目録にみえる宴曲の作者であろう(なお次の正徹の応永十七年の奥書略す)。恐らく関東においての書写であろう。五年には貞時の勧めで三島社十首を詠じた(夫木抄)。
【中略】
 乾元本八雲御抄の奥書に

 <本云>
 建治二年正月九日以冷泉御本書寫之、此草子部類十帖也、肝心有此帖間別書留也、
 件本文永十一年秋比、不思懸自東方出来等云々         慶融

とあり、私付傍点の部分から推すと、彼はかなり早くから関東に縁があったのかもしれぬ(この奥書、『校本万葉集』首巻より引用)。
 勝間田長清とも交際があり(夫木抄巻四)、為相その他関東在住の公武と歌を詠みかわす事も多かった事であろう。
【中略】
 慶融は僧であるから「一家」を樹立しようとしたのではなく、「一家の風」をたてようとしたかもしれぬ。が、源承和歌口伝によると、慶融は宗家に敢て反抗しようというような強い立場はとらなかったらしい。さればこそ続拾遺の撰集にも関与し(井蛙抄)、新後撰や続千載等の二条派の集にもかなり多い歌数が採られている。関東に滞在した事があったから冷泉家とも多少は親しかったが(この点はのちにも述べる)、玉葉に一首しか入っていないという事は、親京極派ではなかったからである。立場としてはやはり宗家に近い人物と見るべきで、要するに甥の定為と同じように、歌道執心の僧であったのではなかろうか。【後略】
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慶融は定家の孫で、冷泉為相や飛鳥井雅有ほどではないにしても、関東の武家歌人と相当親しく交わっていた人ですね。
井上氏は「親京極派ではなかった」とされますが、二条派・京極派の対立がさほど激烈ではなかった、というか京極派の歌風がまだ確立されていなかった「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点では、意外にも慶融の歌は後の京極派に通じるところもあります。
その点、小林一彦氏は上記論文で極めて興味深い指摘をされています。(p109以下)

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 『金槐集』(定家本)には、先に取り上げた「はこねぢをわがこえくれば…」の歌の直前に次のような詠作が存在する。

    又のとし二所へまいりたりし時はこねのみうみを見てよみ侍歌
 たまくしげはこねのみうみけゝれあれやふたくにかけてなかにたゆたふ  (六三八)

「はこねのみうみ」とは芦ノ湖のことである。12「玉くしげ…」の歌では、この芦ノ湖が詠まれている。「山月」の題で、慶融は箱根の山の奥深くに照る月はもとより、芦ノ湖の水面に澄み宿る月をも同時に写し取ろうとしたのである。『東関紀行』に「岩が根高く重なりて、駒もなづむばかりなり。筥ばかりなる山の中に至りて水海広くたたへり。箱根の湖水と名づく。また芦の海といふもあり。」とあるように、芦ノ湖は呼称が一定していない。そのことは、いまだ歌枕として確立していなかったことを意味している。『東関紀行』の作者は、さらに筆を箱根権現の描写へと進めた後、

 今よりは思ひ乱れじ芦の海のふかき恵みを神にまかせて         (四九)

の一首を詠じていた。数少ない芦ノ湖を詠じた作として、しかもその最初期のものとして注目されるこの歌は、しかしながら、あくまでも箱根権現への崇敬の念を主としており、「芦の海」は「乱れ」「芦」の縁語に加え、「深き」を導く有意の序としても、修辞上の役割を負わされているに過ぎず、芦ノ湖を写実的に詠じた叙景歌ではあり得なかった。その点、慶融歌の写実性は異彩を放つ。
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段落の途中ですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。

コメント
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