安貞二年(1228)の「直御参」か「二所奉幣使」の代参かの争いは、二所詣は将軍が直々に行なうべきか否かという原理原則の問題と、将軍の代理として三浦義村が行くのが適切かという問題が混在していて、三浦義村への露骨な批判もできないので「直御参」という原則を主張した人もいそうですね。
この時期は承久の乱(1221)を指導した北条義時・大江広元・北条政子が相次いで没した後、泰時が御成敗式目(1232)を定める前の、政治的にはやや不安定な時期ですから、二所詣論争の背後に北条氏と三浦氏の主導権争いを見るべきなのかもしれません。
さて、続きです。(p103)
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嘉禎三年(一二三七)一一月九日、延応元年(一二三九)一月二五日、仁治元年(一二四〇)八月四日に頼経が当社に参詣し、また同年七月一三日には二所と当社に神馬を贈っている。さらに頼経は同年八月五日参詣して延年舞におよび、一二月には二所・三嶋および大和春日社等において毎日神楽を行うことを立願したが、莫大な用途が必要となるので、所領一ヵ所の寄進が幕府の評定によって決議された。しかし寄進に適当な場所がないため功銭を定めて毎月神楽を奉納することとなり、翌春一月一七日より開始された。寛元二年(一二四四)一月二三日頼経は当社に奉幣し、供奉の人々とともに千度詣をした後、管弦・詠歌などの遊びに及んでいる。
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ここも段落の途中ですが、いったん切ります。
『吾妻鏡』によれば、嘉禎三年(1237)十一月一日条に「将軍家被始二所御精進」、七日条に「辰刻御進発」、八日条に「箱根御奉幣。有御経供養。導師大納言律師隆弁<依此事。自鎌倉被召具>」、九日条に「三嶋」、十一日条に「伊豆山」、十二日条に「自二所還御」とあり、五泊六日の行程ですね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma31b-11.htm
暦応二年(延応元、1239)以降の二所詣も行程のパターンはほぼ同じですが、二所詣という行事の幕府にとっての重要性を確認するため、少し丁寧に見て行きたいと思います。
まず、暦応二年(延応元、1239)一月十七日条に「将軍家二所御精進始」、二十七日条に「今日巳刻。自二所御帰着。一昨日廿五日曉昏。三嶋伊豆両社御奉幣云々」とのことで、前回より簡単な記述ですが、日程はほぼ同様と思われます。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma33a-01.htm
ついで仁治元年(1240)七月二十六日条に「将軍家二所御精進始也。未刻。為浴潮給。出御于由比浦。御先達一乗房阿闍梨云々」、八月三日条に「箱根御奉幣也。当山衆徒并供奉人々延年。各施芸。相互莫不催興云々」、四日条に「着御三嶋。今日無御奉幣之儀。於此所又及延年云々」、五日条に「今曉被遂三嶋御奉幣。入夜。走湯山御奉幣也。当山衆徒延年」、六日条に「今日御還向。入夜着酒匂宿給」、七日条に「終日甚雨暴風。自二所御下向之間。路次煩也。随兵以下供奉人皆不及取笠。濡衣裝云々」とあり、行程のパターンは固まっていますね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma33b-08.htm
更に寛元二年(1244)正月十七日条に「将軍家二所御精進始也。雨令浴潮給。出由比浦御」、二十一日条に「二所御進発。北条左親衛供奉給」、二十二日条に「箱根御奉幣也。衆徒与供奉人等方(及)延年。各施芸云々」、二十三日条に「三嶋御奉幣。将軍家并供奉人々有千度詣。其後及管絃歌詠等御遊」、二十四日条に「甚雨暴風。令参伊豆山給。降雨之間。供奉人皆舐鼻。彼山衆徒等。終夜催延年興」、二十五日条に「有走湯山御奉幣。昨日依爲坎日。延而及今朝。入夜。着浜部宿給」、二十六日条に「未刻入御幕府」とあります。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma35b-01.htm
さて、このあたりから将軍と執権との関係が相当に微妙になります。(p103以下)
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しかし頼経は同年四月執権北条経時の強要により将軍職を子頼嗣に譲り、同三年鎌倉久遠寿量院で出家させられた。翌四年二月二二日、頼経は「殊御願」のため二所参詣の精進を七日間行い、二八日二所参詣に出発しているが、付き従ったのは名越光時・三浦光村ら数輩のみであったという(以上「吾妻鏡」)。五月には執権北条時頼により光時ら側近は処断され、頼経も京都に追返された(「葉黄記」同年六月六日条など)。しかし、頼経はその後も権力の回復に努めており、たびたびの三嶋社参詣の裏には執権北条氏との間で権力をめぐる確執があったと思われる。
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頼経は将軍を退いた後も二所詣に行っていますから、二所詣への執着は凄いですね。
『吾妻鏡』を確認しておくと、寛元四年(1246)二月二十二日条に「入道大納言家令始二所御精進給。七ケ日間有御座于御精進屋。依殊御願也云々」とあり、「入道大納言」が前将軍・頼経です。
ついで二十八日条に「二所御進発也。越後守。相摸右近大夫将監。相模八郎。太宰少弐為佐。但馬前司定員。備後前司広将。能登前司光村以下数輩云々」とあり、三月三日条には「甚雨暴風。入道大納言家還御。自走湯山直御下向也。依風雨煩。及曉更云々」とあって、頼経にとって最後の二所詣は、まるでこの後の頼経の運命を予言しているかのような感じもします。
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