東国の初期浄土真宗から「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の問題に入って既に40投稿を重ねたので、ここで簡単に中間整理をしておきます。
浄土真宗の歴史は「本願寺中心史観」で描かれるのが通例ですが、同史観において悪役の筆頭とされるのが親鸞の末娘・覚信尼が後夫・小野宮禅念との間に儲けた唯善(1266-1317)です。
小野宮禅念の父は小野宮少将・源具親なので、唯善は具親の孫です。
また、北条義時と「姫の前」の離婚後、「姫の前」は京都で源具親と再婚しており、「姫の前」が生んだ輔通の女子が中院雅忠(1228-72)の後妻となります。
つまり、唯善と中院雅忠の後妻は従姉弟(雅忠後妻の方が相当年上)の関係であり、おそらくその縁で唯善は中院雅忠の猶子となります。
従って、唯善は、後深草院二条(1258生)の八歳下の義理の弟です。
ここから私は、唯善は正応四年(1291)の横曽根門徒・性海による『教行信証』出版事業に際しても、平頼綱の後援を得るために義姉・後深草院二条の強力なコネクションを利用しただろうと推測します。
ただ、この推測は、『とはずがたり』の鎌倉訪問記、特に平頼綱・飯沼助宗父子とのエピソードが事実の記録であることを前提としています。
この東国訪問記に関しては、『とはずがたり』以外の客観的な史料から後深草院二条の東国での活動が裏付けられれば相当の信頼性は確保できるので、私としても従来からそのような史料を探しており、早歌の作者「白拍子三条」の分析から一応の成果は得たつもりです。
ただ、早歌の関係で確認できたのは、あくまで後深草院二条と金沢北条氏の接点であって、得宗家との関係は分かりませんでした。
ところが、小林一彦氏の「「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を読む」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第5号、2000)で「昭慶門院二条」という歌人の存在を知り、この謎めいた女性歌人にヒントがあるのではないかと感じたので、「昭慶門院二条」を少し探ってみることにした、というのが発端です。
「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」と「昭慶門院二条」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba239fca9ea719a85c4aa76e98c8ccb0
「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に「当代一流の歌人達が少なからず出詠している」中で、女性歌人は「昭慶門院二条」たった一人です。
(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/695f1ab47994ad952f212bf7fb05708b
「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」は散佚しており、『夫木抄』・『沙弥連瑜集』・『藤谷集』・『風雅和歌集』・『拾遺現藻和歌集』から集められたものは僅かに18首です。
その内訳は、宇都宮景綱(沙弥連瑜)6首、冷泉為相4首、京極為兼3首、飛鳥井雅有2首、二条為道1首、慶融1首、「昭慶門院二条」1首となります。
「昭慶門院二条」の歌は、全18首の中で唯一の女性歌人の歌であることに加え、出典が『拾遺現藻和歌集』である点でも珍しい存在です。
(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a88648025b75f09f7a5d080c42a2b26d
小林一彦氏は若干の疑念を抱いておられますが、小川剛生氏が校訂された『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見ると、この歌の作者が「昭慶門院二条」であることを疑う理由は特にありません。
ただ、亀山院皇女の喜子内親王が「昭慶門院」という女院号を得たのは永仁四年(1296)であり、正応五年(1291)の三島社十首の時点で、問題の女性の女房名が「昭慶門院二条」であったはずはありません。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b48d539ba45bd1c2ba1a6516376b834b
そこで、「昭慶門院二条」を探究すべく、小川剛生氏の『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、1996)を見て行くことにしました。
『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7233f3ad4f365e54f0280694dc7248cd
「現藻」は「現存者の詠藻」の意味で、成立時に生存している歌人という極めてさっぱりした基準で大枠が画されています。
そして「現存する二条派歌人と大覚寺統関係者を重視し、持明院統と京極派を冷遇」しています。
「昭慶門院二条」の歌は「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」を含め四首が採られています。
(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d2d8eddea4b8e2ffa9a4daa7821841a
訂正とお詫び:「長沼宗秀」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/730b0fd24725394a9596c901e7454908
「本集が採歌した、歌会・歌合・定数歌等の催し」を「大覚寺統・二条派主催」・「持明院統・京極派主催」・「関東歌壇関係者による行事」という分類で数えると、「大覚寺統・二条派主催」が72.3%と圧倒的多数です。
「昭慶門院二条」が登場する「北条貞時勧進三島社十首」は僅か三つの「関東歌壇関係者による行事」の一つですね。
(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2188d08153298c0ddd25465589f99ef6
『拾遺現藻和歌集』の撰歌範囲の行事に関する『増鏡』の叙述には相当詳細なものがあり、しかも『続千載集』への評価のように歌壇事情の機微に通じていることを窺わせる記事が見られます。
『拾遺現藻和歌集』と『増鏡』の関係は非常に面白いテーマですね。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fc92011a6487663c0d8a8f8c3490f0f