学問空間

「『増鏡』を読む会」、第7回は2月1日(土)に開催します。テーマは「二人の二条」です。

「こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある」(by 佐藤進一氏)

2020-09-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月16日(水)10時12分25秒

ちょっと間が空いてしまいましたが、またボチボチと投稿して行きます。
中世における天皇家の権威低下の時期と原因という問題を検討するにあたって、まず基礎的な知識の整理ということで、佐藤進一氏の古典的業績、『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965)から少し引用します。(p214以下)

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高兄弟

 師直・師泰兄弟はおよそ直義とは対蹠的なタイプの人間だった。たとえば師直は一条今出川にあった護良親王の母親の旧邸を改築して、壮麗な邸宅を営み、人待ち顔の斜陽貴族の娘はおろか、摂関家・皇族の娘のもとにまで通って、つぎつぎと子を生ませたので、
 「執事ノ宮廻リニ手向〔タムケ〕ヲ受ヌ神モナシ」
と京中の笑い草になった。現に師直の愛児師夏は、師直が二条前関白の妹を盗み出して生ませた子供である。以上は『太平記』にのっている話だが、そのほかに、師直が『徒然草』の著者で有名な吉田兼好に恋文を代筆させた話も伝わっている。最近の研究では、兼好は倉栖という武士の一族で、金沢文庫を経営した北条一門金沢氏の右筆をつとめた倉栖兼雄は兼好の兄弟だというが、師直の家来の中に倉栖某という武士がいるから、兼好の代筆一件はまんざらの作り話ではないかもしれない。
 『太平記』はまたこんな話も伝えている。師直の家来が、恩賞にもらった所領が小さい、なんとかしてほしいと嘆願すると、
 「何を嘆くことがあるか。その近辺の寺社本所領をかってに切り取れ」
と命じ、罪を犯して所領を没収されることになった武士がなんとかお力で助けていただきたいと頼むと、
 「よしよし、わしは知らん顔をしていよう。幕府からどんな命令がでてもかまうものか。
  そのまま居すわっておれ」
と答えた。
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いったん、ここで切ります。
足利直義、そして高師直とその一族の評価については、最近の亀田俊和氏の研究により劇的な変化が生じていますね。
当掲示板でも『高師直 室町新秩序の創造者』(吉川弘文館、2015)等の亀田氏の著作に若干言及したことがあります。

「第五章 貴顕と交わる右筆」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/123decd4e2cf5386ec04a383a940595c
「尊氏は、生真面目な弟とは違って適当な人間である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9771b1e1d8aa827144a122c0d9a7ded1
「さすがにその呪縛から解放されるべき研究段階」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6b791d02e92f7d0def9dcdce06749c3

また、「最近の研究では、兼好は倉栖という武士の一族で、金沢文庫を経営した北条一門金沢氏の右筆をつとめた倉栖兼雄は兼好の兄弟だというが」とありますが、これは林瑞栄氏の説ですね。
網野善彦氏も「倉栖氏と兼好─林瑞栄氏「兼好発掘」によせて」(『文学』52巻7号、岩波書店、1984)という論文を書いていますが、林説にはもともと無理が多く、最近の小川剛生氏の研究で完全に過去の遺物になってしまいました。
「師直が『徒然草』の著者で有名な吉田兼好に恋文を代筆させた話」は『太平記』第二十一巻の「塩谷判官讒死の事」に出てきますが、そもそも兼好法師と吉田家は全然関係がないことが小川氏の研究により明らかとなり、「吉田兼好」という表現自体が過去の遺物になりつつありますね。
ちなみに吉田兼倶の系図偽造前に成立している『太平記』西源院本では、兼好は「兼好と云ひける能書の遁世者」「兼好法師」として登場しており(兵藤裕己校注『太平記』(三)、岩波文庫、2015、p442・443)、「吉田兼好」ではありません。
これはおそらく他の本でも同様だと思います。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f8a40b01d861705b1c8291f30001971

さて、佐藤著の続きです。(p215以下)

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 師泰の暴虐ぶりも師直におとらなかったが、『太平記』の著者をして「あさましき限り」と慨嘆させたのは、かれら兄弟のつぎのことばだった。
 「都ニ王ト云フ人ノマシマシテ、若干(多く)ノ所領ヲフサゲ、内裏・院ノ御所ト云フ所ノ有テ
  馬ヨリ下ル六借〔ムツカシ〕サヨ。若〔モシ〕王ナクテ叶〔カナフ〕マジキ道理アラバ、木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、
  生〔イキ〕タル院・国王ヲバ何方〔イヅカタ〕ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」
 これらの挿話に描かれている師直兄弟の言動の真偽を一々確かめることはできないけれど、こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある。たとえば青野原の戦いで奮戦して幕府の危急を救った美濃の守護土岐頼遠は、康永元年(一三四二)九月、京都で光厳上皇の行列に行きあって、「院の御車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
 「何ニ、院ト云フカ。犬ト云フカ。犬ナラバ射テヲケ」
と、上皇の車を取りかこんで、矢を射かけて去った。そのうえ、事件が問題になると、幕府の許可なくかってに本国に引き上げた。幕政を主宰する直義は事件を重大視して、頼遠を召喚して斬罪に処した。
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土岐頼遠の件は事実ですが、「木ヲ以テ造ルカ、金ヲ以テ鋳ルカシテ、生タル院・国王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨奉ラバヤ」云々は『太平記』第二十七巻「妙吉侍者の事」に出て来て、『太平記』の作者自身が怪僧・妙吉侍者の讒言と認めている叙述の中の表現ですね。
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