投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月13日(土)10時37分59秒
ついでにもうひとつ、筧克彦のエピソードを『天皇と東大』から孫引きしておきます。(下、p82以下)
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筧克彦の不思議な人間性について、丸山真男は梅本克己との対談「日本の反動思想─戦前と戦後」(『丸山真男 座談6』岩波書店所収)の中で、こんなエピソードを紹介している。
「梅本 ところが、筧さんの方になると、その国体論は強烈なもので、天皇制からいえば極右といっていいものだけれども、それが通常の国粋主義にむすびつくかというと、そうでもない。国体の中身は『空(くう)』みたいなもので、なんだか知らんけれども紙袋みたいなものの中から、ぴょこぴょこ親鸞がとび出したり、道元がとび出したり、ゲーテのファウストまでとび出してくる。(略)一種の狂信者といっていいんだけれども、その狂信の内容が蓑田胸喜などとは全く違う。まったくうらうらとして、神道自由主義みたいなところがあって、つかまえどころがない。宣長のある面をそのまま継承している。自然主義的ナショナリズムとでもいうか、簡単に国粋主義とは重ならない。反動思想の原動力になっていることはたしかなんだが・・・・。
丸山 ですから、それを一番端的に示しているのは、筧さんは戦後も教職追放にならなかったんですよ。つまり、あの時、定年で辞めた人も含めて全教授の資格審査委員会が各大学に設けられた。パージに該当するかどうかについては一定の基準が定められていたんです。軍国主義を説いた者とか大東亜戦争を基礎づけた者とか、第一、第二、第三というふうにいくつかの基準があった。そして過去の言論及び学説を全部しらべて、一人一人審査したわけです。
誰でも、常識的に考えて筧さんは当然どれかの該当項目にひっかかると思っていたわけですね。ところが一つ一つ基準をはめてゆくとどれにも入らないんです(笑)。それであの人は教職追放にならなかったんです。
梅本 筧さんという人はそういう人だ。そういう点でも日本の天皇制は融通無碍なんですね。どうしたって追放されなければならないのが、追放されないようにできてしまっている(笑)。無責任体制の理想型で、その象徴が天皇だ。
私には経験があるんですが、大学を出てから文部省の教学局、当時のファシズムの思想生産というか、その中心みたいなところで雇員として月給五十円で十ヵ月ばかりおったんです。そこで、当時の学術振興会の会合があったときで・・・・。大正リベラリズムの尾を引いている日本主義者と最右翼の松永材(もとき)の一派とが、日本の国体問題で猛烈な激突をしたことがあったんです。どうなるかと思って、みていました。一方は京都学派流に、道元とか芭蕉とか、ああいうものをもってきて、日本精神論をやったわけです。それにたいして、そんなもんじゃない、日本精神は天皇をぬいては考えられない、というわけで、松永材が猛烈な勢いで喰ってかかり、同じような連中が応援しだした。
どうなることかと思ってみていると、そこに筧さんがヒョコヒョコ出てきた。壇に上るといきなり、パン、パーンとかしわ手を打って、実にいい人相で(笑)、お二方とも、どちらもよろしい。道元さまも、親鸞さまも、それから吉田松陰さまも、みんな同じところから出た神さまです。それがヤオヨロズの神というものだ、というわけで、激突も毒気をぬかれて蒸発してしまった(笑)。
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まあ、梅本克己(1912-74)も少し胡散臭い、というかクセがある人なので、多少割引いて読む必要はあるでしょうが、少なくとも筧克彦のエピソードは事実の正確な描写なんでしょうね。
梅本克己
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9C%AC%E5%85%8B%E5%B7%B1
ついでにもうひとつ、筧克彦のエピソードを『天皇と東大』から孫引きしておきます。(下、p82以下)
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筧克彦の不思議な人間性について、丸山真男は梅本克己との対談「日本の反動思想─戦前と戦後」(『丸山真男 座談6』岩波書店所収)の中で、こんなエピソードを紹介している。
「梅本 ところが、筧さんの方になると、その国体論は強烈なもので、天皇制からいえば極右といっていいものだけれども、それが通常の国粋主義にむすびつくかというと、そうでもない。国体の中身は『空(くう)』みたいなもので、なんだか知らんけれども紙袋みたいなものの中から、ぴょこぴょこ親鸞がとび出したり、道元がとび出したり、ゲーテのファウストまでとび出してくる。(略)一種の狂信者といっていいんだけれども、その狂信の内容が蓑田胸喜などとは全く違う。まったくうらうらとして、神道自由主義みたいなところがあって、つかまえどころがない。宣長のある面をそのまま継承している。自然主義的ナショナリズムとでもいうか、簡単に国粋主義とは重ならない。反動思想の原動力になっていることはたしかなんだが・・・・。
丸山 ですから、それを一番端的に示しているのは、筧さんは戦後も教職追放にならなかったんですよ。つまり、あの時、定年で辞めた人も含めて全教授の資格審査委員会が各大学に設けられた。パージに該当するかどうかについては一定の基準が定められていたんです。軍国主義を説いた者とか大東亜戦争を基礎づけた者とか、第一、第二、第三というふうにいくつかの基準があった。そして過去の言論及び学説を全部しらべて、一人一人審査したわけです。
誰でも、常識的に考えて筧さんは当然どれかの該当項目にひっかかると思っていたわけですね。ところが一つ一つ基準をはめてゆくとどれにも入らないんです(笑)。それであの人は教職追放にならなかったんです。
梅本 筧さんという人はそういう人だ。そういう点でも日本の天皇制は融通無碍なんですね。どうしたって追放されなければならないのが、追放されないようにできてしまっている(笑)。無責任体制の理想型で、その象徴が天皇だ。
私には経験があるんですが、大学を出てから文部省の教学局、当時のファシズムの思想生産というか、その中心みたいなところで雇員として月給五十円で十ヵ月ばかりおったんです。そこで、当時の学術振興会の会合があったときで・・・・。大正リベラリズムの尾を引いている日本主義者と最右翼の松永材(もとき)の一派とが、日本の国体問題で猛烈な激突をしたことがあったんです。どうなるかと思って、みていました。一方は京都学派流に、道元とか芭蕉とか、ああいうものをもってきて、日本精神論をやったわけです。それにたいして、そんなもんじゃない、日本精神は天皇をぬいては考えられない、というわけで、松永材が猛烈な勢いで喰ってかかり、同じような連中が応援しだした。
どうなることかと思ってみていると、そこに筧さんがヒョコヒョコ出てきた。壇に上るといきなり、パン、パーンとかしわ手を打って、実にいい人相で(笑)、お二方とも、どちらもよろしい。道元さまも、親鸞さまも、それから吉田松陰さまも、みんな同じところから出た神さまです。それがヤオヨロズの神というものだ、というわけで、激突も毒気をぬかれて蒸発してしまった(笑)。
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まあ、梅本克己(1912-74)も少し胡散臭い、というかクセがある人なので、多少割引いて読む必要はあるでしょうが、少なくとも筧克彦のエピソードは事実の正確な描写なんでしょうね。
梅本克己
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9C%AC%E5%85%8B%E5%B7%B1