投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 1日(土)21時16分29秒
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。
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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000
といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)
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姫の前との出会い
頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
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うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f
とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。
「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/96df4cd637ee73e7320d0bbb4a0cda23
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。
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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000
といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)
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姫の前との出会い
頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
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うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f
とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。
「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/96df4cd637ee73e7320d0bbb4a0cda23
大河ドラマ愛好家さんへの回答
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f11fffa1cf848113140648d3ec4984
「山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。」
『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!