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『兼好法師自撰家集』に登場する堀川具親

2017-11-29 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月29日(水)09時50分48秒

兼好が弘安6年(1283)生れだとすると永仁2年(1294)生れの堀川具親より11歳上ですが、小川剛生氏も簡単に触れている『徒然草』第238段のエピソード(『兼好法師』p89)では、身分的にはともかく、精神的には兼好が具親の保護者的な立場にあるような感じがします。
具親は『兼好法師自撰家集』の末尾近く、286首中の278番目にも登場しますが、こちらでは二人の関係について若干異なった印象を受けますね。
『新日本古典文学大系47 中世和歌集 室町篇』(岩波書店、1990)から引用してみます(p59)。

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 前坊御まへに月の夜、権大納言殿さぶらはせ給て、御
 酒などまいりて御連歌ありしに、候よし人の申さ
 れたりければ、御さかづきをたまはすとて

まてしばしめぐるはやすき小車〔をぐるま〕の

 といひをかれて、つけてたてまつれとおほせられし
 かば、たちはしりて逃げんとするを、長俊の朝臣に
 ひきとゞめられしかば

かゝる光の秋にあふまで

 と申す
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「前坊」邦良親王(御二条天皇第一皇子、1300-26)の御前に、月の夜、「権大納言殿」堀川具親が伺候して御酒などを召し上がって、連歌が行なわれた。その時、兼好がいることをある人が親王に申し上げると、親王が兼好に御盃を下さるといって、前句を言われた。そして、付句を奉れと仰せられたので、兼好がそこを急ぎ出て逃げようとするのを、五辻長俊に引き留められたので、付句を申し上げた訳ですね。
こんな風に書くと、私が兼好家集をスラスラ読解しているように見えるかもしれませんが、丸山陽子氏『コレクション日本歌人選13 兼好法師』(笠間書院、2011)の解説をパクっだけです。
引続き、丸山氏に解説してもらうと(p29以下)、

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 前句「小車」は、「めぐる」の縁語で、月日のめぐる速さにたとえている。当時皇太子であった親王が、やがて天皇に即位する意を込めたのである。ただし、親王は結局即位できず、二十七歳でこの世を去っている。対する兼好は、「光の秋」を読む。連歌が行なわれた月夜の景として、秋の月光を詠むのだが、ここに、親王にお会いして盃をいただく光栄に浴した喜びの心を込めたのである。それぞれに自身の思いを表現したのである。
 兼好は、この時親王から盃を賜り、連歌をすることになろうとは、夢にも思っていなかったのだろう。兼好が親王と連歌するに至ったのは、家司〔けいし〕として仕えた堀川家の具親につき従い、親王の御所に控えていたことがきっかけであった。
 兼好にとって、親王との連歌は、後に忘れ難い体験として記憶に残ったことであろう。
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ということですね。
兼好が逃げ出そうとしたことに若干の演劇性・遊戯性が伺えるので、小川説に従って兼好は堀川家に「家司として仕えた」のではないと解すると、このあたりの人間関係もより自然な感じになるように思われます。
ま、それはともかく、兼好のような地下歌人が邦良親王と親しく交わることができたのは堀川具親のおかげで、堀川家の縁故を得たことは兼好に大変なメリットを与えた訳ですね。

堀川具親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E5%85%B7%E8%A6%AA
邦良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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