学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

後深草院二条と飯沼助宗

2013-04-06 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 4月 6日(土)23時03分51秒

>筆綾丸さん
週刊誌記者と高知県の神社の神職を兼ねている川村一代氏の『光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ』(晶文社、2012)という本に震災後の田代麻紗美氏の活躍が描かれていますが、私は素直に優れた人だと思っています。
早く落ち着いた日々を取り戻してほしいですね。

『光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ』
http://www.shobunsha.co.jp/?p=2289


>権勢家の得宗被官とはいえ、将軍の陪臣にすぎず、
>極官がせいぜい左衛門尉ごとき男

これは筆綾丸さんの、というか多くの国文学者・歴史学者の誤解なんですね。
平頼綱・飯沼助宗父子は武家社会の「特権的支配層」の最上層で、鎌倉には「もっと上流の階級」は存在しません。
これは細川重男氏が『鎌倉政権得宗専制論』・ 『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』で明らかにされたことですが、史料を緻密に読み込んだ強固な実証的研究の成果であって、この時期を専門的に研究している歴史研究者の間では既に共通認識でしょうね。
将軍は20年程度で交替させられるお飾りであり、朝廷の官位・官職も鎌倉での身分標識として便利だから借用しているだけで、鎌倉の身分秩序と朝廷の身分秩序は別物ですね。

>涙川、契り、濡れ衣・・・などから、男女の関係を
>想定したのでしょうが、網野氏の性的妄想

網野善彦氏にエロ親父的側面があるのは否定しませんが、この部分の解釈として男女の関係を連想したのは正しい、というか「涙川、契り、濡れ衣」という語彙から見て、それ以外の解釈は成り立たないと思います。
ただ、それは二条が『とはずがたり』の読者に、二条と助宗との間に男女の関係があったと思わせるように書いただけであって、実際に二人の間に男女関係があったかどうかとは別問題ですね。
証人が二条一人であり、そしてその唯一の証人は常に自分に都合の良いことだけを書く人ですから、客観的には事実の確定はできないですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6777
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