投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 8月25日(土)07時55分43秒
>筆綾丸さん
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」が詠まれた時期ですが、いつも参考にさせてもらっている水垣久氏の「やまとうた」には、
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【補記】いつの作とも知れない。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作とする。いずれにせよ「春死なむ」の願望が現実と化したことで、この歌は西行の生涯を象徴するかの如き一首となった。因みに西行の入寂は文治六年(1190)二月十六日。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった(藤原定家『拾遺愚草』)。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めたのだった。なお第二句は「花のもとにて」で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わるが、「花のしたにて」が正しいようである。
【他出】御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、古今著聞集、西行物語、六華集、兼載雑談
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html
とありますね。
『山家心中集』の成立時期が重要なのでしょうが、五味文彦氏の『西行と清盛』p192には、
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西行の歌集には『山家集』のほかに『山家心中集』と称される歌集があって、これと『山家集』を比較すると、歌数が三七四首といたって少なく、後年の歌をほとんど収録していない。その末尾には、西行が歌を集めて送ったことを語る、先に揚げた「花ならぬ」や「世を捨てて」という歌を載せているが、これらは『山家集』においては途中(一二三九と一二四〇)に収録されている。これらのことから、『山家集』に先立つ歌集であると考える見解が出されているが、その点はほぼ首肯できよう。
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とあります。
この後も説明が続きますが、結論として五味氏は四〇代の歌と位置づけていますね。
確かに死が現実のものとして差し迫った時期ではなく、四十代くらいの方がよさそうですね。
>四国八十八ヵ所の札所巡り
いいですねー。
『とはずがたり』に出てくる崇徳天皇の白峰御陵には前々から行ってみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。
それと、渋いところでは土御門天皇の配流地にも行ってみたいですね。
>筆綾丸さん
「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」が詠まれた時期ですが、いつも参考にさせてもらっている水垣久氏の「やまとうた」には、
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【補記】いつの作とも知れない。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作とする。いずれにせよ「春死なむ」の願望が現実と化したことで、この歌は西行の生涯を象徴するかの如き一首となった。因みに西行の入寂は文治六年(1190)二月十六日。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった(藤原定家『拾遺愚草』)。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めたのだった。なお第二句は「花のもとにて」で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わるが、「花のしたにて」が正しいようである。
【他出】御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、古今著聞集、西行物語、六華集、兼載雑談
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html
とありますね。
『山家心中集』の成立時期が重要なのでしょうが、五味文彦氏の『西行と清盛』p192には、
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西行の歌集には『山家集』のほかに『山家心中集』と称される歌集があって、これと『山家集』を比較すると、歌数が三七四首といたって少なく、後年の歌をほとんど収録していない。その末尾には、西行が歌を集めて送ったことを語る、先に揚げた「花ならぬ」や「世を捨てて」という歌を載せているが、これらは『山家集』においては途中(一二三九と一二四〇)に収録されている。これらのことから、『山家集』に先立つ歌集であると考える見解が出されているが、その点はほぼ首肯できよう。
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とあります。
この後も説明が続きますが、結論として五味氏は四〇代の歌と位置づけていますね。
確かに死が現実のものとして差し迫った時期ではなく、四十代くらいの方がよさそうですね。
>四国八十八ヵ所の札所巡り
いいですねー。
『とはずがたり』に出てくる崇徳天皇の白峰御陵には前々から行ってみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。
それと、渋いところでは土御門天皇の配流地にも行ってみたいですね。
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