学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

兼好法師の遺跡?

2013-01-14 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 1月14日(月)13時20分49秒

検索してみたら花見の時期の美しい境内の様子を撮影した動画もありました。
2分過ぎくらいにチラッと出てくる稲荷社前の渋い狐、けっこう私の好みのタイプです。

http://www.youtube.com/watch?v=uLOaWu7B-CU

「兼好法師の庵」だったという話もあるそうですね。

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 摂津八十八ヶ所第32番霊場「正圓寺」境内に、「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。吉田兼好は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人であり、後宇多天皇に仕える北面の武士であった。
 1324年(正中元年)比叡山で剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、後には南北朝の戦乱を避け、彼の弟子の命婦丸(文献によっては命松丸)の里であった阿倍野丸山(現在の大阪市阿倍野区丸山通り付近)に移り住み、自ら藁を打ち、ムシロを織って、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われている。
 『兼好法師の藁打石』と伝えられる大石は、元は当寺院の北の方に丸山古墳があり、その近くにあった柘榴塚の大石が伝えられたもので、現在正圓寺門前の正面参道の石段のところに建つ「大聖歓喜天」と刻んだ標碑の礎石がその『藁打石』と言い伝えられている。
すぐ傍らに『兼好法師隠棲庵跡』の碑や『句碑』も建てられているが、これらの石碑は柵で囲まれており、石碑の建立年月などは確認できなかった。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage423.htm

こちらは史実としてはかなり微妙な話ですが、近世に様々な形で広がった兼好伝説の一例としては面白いですね。
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