投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月31日(金)14時03分9秒
(承前)
それでも、毒を食らわば皿まで、の心境で更に読み進むと、エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」についてのあまり正確ではない要約に続いて、「今日の歴史学の立場からすれば、国家成立に関しては対外的契機をより重視すべきであろう」という唐突な提言が出てきます。
何じゃこれ、と驚きつつ、一応続きを見ると、「一定の国際関係と軍事的圧力のもとでは、経済的にはきわめて遅れた種族的諸集団も短期間で国家形成を遂行し、その国家機関を国内の再編成に利用する。また国家の属性を考えるうえでは、国家支配を正統化するイデオロギーとイデオローグ、さらにはそのイデオロギーを社会に浸透させていく諸媒介物の存在や、社会に一定のリズムと画一性・階層性を賦与するための国家的儀礼・儀式・位階、体系の創出(君主制の機能はこの両者に深く関係する)、あるいは国家の公共性を顕示する上での施療・施薬機能等を看過することはできない」となっていて、様々な要素を秩序無く並べたゴッタ煮の様相を呈してきます。
このあたりになると、普通の辞書・辞典類の解説にはない奇妙な雰囲気が漂ってくるので、好奇心から更に読み続けると、「ただし、近代以前の段階では、国家が社会から自立して存在してはいるものの、その国家的意思の伝達と行政遂行に当たっては、種々の伝統的中間的諸機関・諸団体との依存・協力関係が不可欠であり、したがって近代国家理論の中核ともいうべき国家主権概念(国家は領域内の集団・個人に最高かつ絶対の支配権を持ち、他のどのような法的制限にも従属しないこと)は、一六世紀フランス絶対主義のイデオローグだったボーダンによって初めて説かれたのであった。ウェーバーの国家説もこの延長線上にあり、「国家とはある特定の領域の内部において、それ自身のために合法的な物的強制力の独占を要求するところの人間共同体である。・・・すなわち、国家のみが、強制力行使の「権利」の唯一の源泉とし妥当している」(「国家社会学」)と彼は定義している」のだそうです。
まあ、ジャン・ボダンの主権論にしても、マックス・ウェーバーの国家論にしても、ずいぶん乱暴な要約なのではなかろうかと思いましたが、この後の文章を読んだ衝撃で、そんな疑念は吹き飛ばされてしまいました。
「人権宣言以降、基本的人権概念が定着するなかで、主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきたが、現実には国家的危機に瀕した際には、国家は自己決定組織として行動し、他のいかなる諸組織の決定にも従属しない。」
うーむ。
どうも筆者は日本国憲法を読んだことがないようで、「主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきた」という筆者の認識と異なり、主権国家である日本は国際社会に対して日々「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっており、また国民主権を基本原理とする日本国憲法は、対内的にも「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっているんですね。
「主権」概念には国際社会に対する国家の最高独立性としての「対外的主権」と、国内での最高権威としての「対内的主権」の二面があり、「国民主権」の「主権」は後者であって、これは別に露骨な権力・暴力ではなく、あくまで権威であり、支配の正当性の源なんですね。
筆者は主権に「対外的主権」の側面があることを知らず、更に「対内的主権」を権威ではなく露骨な権力であると二重に誤解しており、ちょっと想像を絶するおバカさんですね。
以上、相当長く引用しましたが、『日本史大事典』の記述はこれで半分くらいで、以下、「日本における国家の成立とその展開を考える場合」の問題点を四つ並べていますが、くだらないので省略します。
ちなみにこの項目の筆者は宮地正人氏(東京大学名誉教授・東京大学史料編纂所元所長・国立歴史民俗博物館元館長)ですね。
宮地正人(1944生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E6%AD%A3%E4%BA%BA
(承前)
それでも、毒を食らわば皿まで、の心境で更に読み進むと、エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」についてのあまり正確ではない要約に続いて、「今日の歴史学の立場からすれば、国家成立に関しては対外的契機をより重視すべきであろう」という唐突な提言が出てきます。
何じゃこれ、と驚きつつ、一応続きを見ると、「一定の国際関係と軍事的圧力のもとでは、経済的にはきわめて遅れた種族的諸集団も短期間で国家形成を遂行し、その国家機関を国内の再編成に利用する。また国家の属性を考えるうえでは、国家支配を正統化するイデオロギーとイデオローグ、さらにはそのイデオロギーを社会に浸透させていく諸媒介物の存在や、社会に一定のリズムと画一性・階層性を賦与するための国家的儀礼・儀式・位階、体系の創出(君主制の機能はこの両者に深く関係する)、あるいは国家の公共性を顕示する上での施療・施薬機能等を看過することはできない」となっていて、様々な要素を秩序無く並べたゴッタ煮の様相を呈してきます。
このあたりになると、普通の辞書・辞典類の解説にはない奇妙な雰囲気が漂ってくるので、好奇心から更に読み続けると、「ただし、近代以前の段階では、国家が社会から自立して存在してはいるものの、その国家的意思の伝達と行政遂行に当たっては、種々の伝統的中間的諸機関・諸団体との依存・協力関係が不可欠であり、したがって近代国家理論の中核ともいうべき国家主権概念(国家は領域内の集団・個人に最高かつ絶対の支配権を持ち、他のどのような法的制限にも従属しないこと)は、一六世紀フランス絶対主義のイデオローグだったボーダンによって初めて説かれたのであった。ウェーバーの国家説もこの延長線上にあり、「国家とはある特定の領域の内部において、それ自身のために合法的な物的強制力の独占を要求するところの人間共同体である。・・・すなわち、国家のみが、強制力行使の「権利」の唯一の源泉とし妥当している」(「国家社会学」)と彼は定義している」のだそうです。
まあ、ジャン・ボダンの主権論にしても、マックス・ウェーバーの国家論にしても、ずいぶん乱暴な要約なのではなかろうかと思いましたが、この後の文章を読んだ衝撃で、そんな疑念は吹き飛ばされてしまいました。
「人権宣言以降、基本的人権概念が定着するなかで、主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきたが、現実には国家的危機に瀕した際には、国家は自己決定組織として行動し、他のいかなる諸組織の決定にも従属しない。」
うーむ。
どうも筆者は日本国憲法を読んだことがないようで、「主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきた」という筆者の認識と異なり、主権国家である日本は国際社会に対して日々「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっており、また国民主権を基本原理とする日本国憲法は、対内的にも「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっているんですね。
「主権」概念には国際社会に対する国家の最高独立性としての「対外的主権」と、国内での最高権威としての「対内的主権」の二面があり、「国民主権」の「主権」は後者であって、これは別に露骨な権力・暴力ではなく、あくまで権威であり、支配の正当性の源なんですね。
筆者は主権に「対外的主権」の側面があることを知らず、更に「対内的主権」を権威ではなく露骨な権力であると二重に誤解しており、ちょっと想像を絶するおバカさんですね。
以上、相当長く引用しましたが、『日本史大事典』の記述はこれで半分くらいで、以下、「日本における国家の成立とその展開を考える場合」の問題点を四つ並べていますが、くだらないので省略します。
ちなみにこの項目の筆者は宮地正人氏(東京大学名誉教授・東京大学史料編纂所元所長・国立歴史民俗博物館元館長)ですね。
宮地正人(1944生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E6%AD%A3%E4%BA%BA
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