投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月20日(日)13時34分11秒
前回投稿で言及した今西一氏(小樽商科大学教授)は、「五〇年分裂」前後の日本共産党の動向について、関係者からの聞取りを熱心に行っている研究者ですね。
今西一(1948生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E4%B8%80
「小樽商科大学学術成果コレクション:Barrel」の「詳細検索」で「著者名」に「今西一」と入れて検索すると108項目が出てきますが、その中に小樽商科大学『商学討究』に二回に分けて載せられた岡田裕之氏(法政大学名誉教授)からの聞取りがあります。
岡田裕之氏は網野・犬丸と同年の1928年生まれで、1945年に旧制一高に入学、病気休学の期間があって50年に東大経済学部入学、53年に卒業した人です。
共産党には一高時代の1948年に入党し、その際の推薦者は新島淳良と上田健二郎(不破哲三)だそうですね。
岡田氏の生育環境と一高時代の活動は非常に興味深いのですが、それは「占領下東大の学生運動と「わだつみ会」(Ⅰ) : 岡田裕之氏に聞く」を見てもらうとして、とりあえず網野に関係する部分だけを(Ⅱ)から引用すると(p13)、
-------
今西 :この頃,歴史学者の網野善彦さんなども活動されていたのですね。
岡田 :網野善彦君は組織で知っています。網野君は最初の国際派の会議でお目にかかりましたが,話しはしたことがありません。すぐ主流派に移ったと聞きました。会ったのは一度きりです。
今西 :網野さんは,所感派だったのですか。
岡田 : 「網野は所感派だ」 と国際派は悪く言っていました。
今西 :網野さんは,山村工作隊などの犠牲を悼んで,国民的歴史学運動から離れていったそうですね。
岡田 :そういうのは分かりませんからね。我々はレッテルを貼っていたのでしょう。戦後の歴史学では唯物史観が支配的で,石母田正さんの影響は大きかった。安良城君の太閤検地論は,石母田説をマルクスに添って批判的に延長するものでした。一時安良城旋風とまで評価されましたが,網野君の歴史観は完全なる唯物史観批判で,特に百姓 (ひゃくせい)史観というか,中世の非農業社会に注目して戦後日本史学を変えました。「レッテル貼り」は安易なやっつけで自戒しています。
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=395&item_no=1&page_id=13&block_id=135
といった具合です。
「最初の国際派の会議で」顔を見ただけで話もせず、「会ったのは一度きり」ということなので、この程度の内容になるのは仕方ないですね。
さて、網野の名前は東大「国際派」のリーダー格であった力石定一(法政大学名誉教授)の回想、「第三高等学校から東京大学へ : 力石定一氏に聞く」(『小樽商科大学人文研究』119号、2010)にも登場します。
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=604&item_no=1&page_id=13&block_id=135
ただ、こちらは、
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今西:先生は,所感派の地下活動とか武装闘争には,最初から反対だったんですか。
力石:反対です。
今西:東大の人はそんなに武装闘争に行ったんですか。
力石:全然行かない。
今西:早稲田のひとは,小河内闘争とかね,非常に山村工作隊に行っていますよね。東大はあんまり出ていない。
力石:全然行かない。大衆闘争でいいんだ,と。
今西:農学部の菊池昌典さんとか,武装闘争を経験したことがあると聞いたことがあるんですけれど。
力石:僕らよりちょっと若いでしょ。
今西:でも,所感派もいたでしょう。
力石:所感派は行っていたですよね。
今西:網野善彦さんなんかは,そうですよね。
力石:網野善彦はそうですね。
今西:やはり山村工作隊へ。
力石:そうですね。
今西:先生方は所感派グループに対して。批判的だったわけですね。
-------
といった具合で、「山村工作隊」の関係で名前が出ているだけですね。(p29)
力石の回想は渡辺恒雄や氏家齊一郎を東大細胞から追い出した時期の話の方が面白いですね。(p23以下)
力石定一(1926-2016)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E7%9F%B3%E5%AE%9A%E4%B8%80
前回投稿で言及した今西一氏(小樽商科大学教授)は、「五〇年分裂」前後の日本共産党の動向について、関係者からの聞取りを熱心に行っている研究者ですね。
今西一(1948生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E4%B8%80
「小樽商科大学学術成果コレクション:Barrel」の「詳細検索」で「著者名」に「今西一」と入れて検索すると108項目が出てきますが、その中に小樽商科大学『商学討究』に二回に分けて載せられた岡田裕之氏(法政大学名誉教授)からの聞取りがあります。
岡田裕之氏は網野・犬丸と同年の1928年生まれで、1945年に旧制一高に入学、病気休学の期間があって50年に東大経済学部入学、53年に卒業した人です。
共産党には一高時代の1948年に入党し、その際の推薦者は新島淳良と上田健二郎(不破哲三)だそうですね。
岡田氏の生育環境と一高時代の活動は非常に興味深いのですが、それは「占領下東大の学生運動と「わだつみ会」(Ⅰ) : 岡田裕之氏に聞く」を見てもらうとして、とりあえず網野に関係する部分だけを(Ⅱ)から引用すると(p13)、
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今西 :この頃,歴史学者の網野善彦さんなども活動されていたのですね。
岡田 :網野善彦君は組織で知っています。網野君は最初の国際派の会議でお目にかかりましたが,話しはしたことがありません。すぐ主流派に移ったと聞きました。会ったのは一度きりです。
今西 :網野さんは,所感派だったのですか。
岡田 : 「網野は所感派だ」 と国際派は悪く言っていました。
今西 :網野さんは,山村工作隊などの犠牲を悼んで,国民的歴史学運動から離れていったそうですね。
岡田 :そういうのは分かりませんからね。我々はレッテルを貼っていたのでしょう。戦後の歴史学では唯物史観が支配的で,石母田正さんの影響は大きかった。安良城君の太閤検地論は,石母田説をマルクスに添って批判的に延長するものでした。一時安良城旋風とまで評価されましたが,網野君の歴史観は完全なる唯物史観批判で,特に百姓 (ひゃくせい)史観というか,中世の非農業社会に注目して戦後日本史学を変えました。「レッテル貼り」は安易なやっつけで自戒しています。
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=395&item_no=1&page_id=13&block_id=135
といった具合です。
「最初の国際派の会議で」顔を見ただけで話もせず、「会ったのは一度きり」ということなので、この程度の内容になるのは仕方ないですね。
さて、網野の名前は東大「国際派」のリーダー格であった力石定一(法政大学名誉教授)の回想、「第三高等学校から東京大学へ : 力石定一氏に聞く」(『小樽商科大学人文研究』119号、2010)にも登場します。
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=604&item_no=1&page_id=13&block_id=135
ただ、こちらは、
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今西:先生は,所感派の地下活動とか武装闘争には,最初から反対だったんですか。
力石:反対です。
今西:東大の人はそんなに武装闘争に行ったんですか。
力石:全然行かない。
今西:早稲田のひとは,小河内闘争とかね,非常に山村工作隊に行っていますよね。東大はあんまり出ていない。
力石:全然行かない。大衆闘争でいいんだ,と。
今西:農学部の菊池昌典さんとか,武装闘争を経験したことがあると聞いたことがあるんですけれど。
力石:僕らよりちょっと若いでしょ。
今西:でも,所感派もいたでしょう。
力石:所感派は行っていたですよね。
今西:網野善彦さんなんかは,そうですよね。
力石:網野善彦はそうですね。
今西:やはり山村工作隊へ。
力石:そうですね。
今西:先生方は所感派グループに対して。批判的だったわけですね。
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といった具合で、「山村工作隊」の関係で名前が出ているだけですね。(p29)
力石の回想は渡辺恒雄や氏家齊一郎を東大細胞から追い出した時期の話の方が面白いですね。(p23以下)
力石定一(1926-2016)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E7%9F%B3%E5%AE%9A%E4%B8%80
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