学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「皮肉なことに、研究が進めば進むほど、それらの仮説が成り立たないことが明らかになっていき…」(by 呉座勇一氏)

2020-09-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 2日(水)10時25分53秒

それでは呉座勇一氏の『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』(新潮社、2014)に即して、「鎌倉幕府滅亡の原因は何か」という「難問に対する日本中世史学界の最新の回答」を確認しておきたいと思います。
同書は、

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はじめに
第一章 蒙古襲来と鎌倉武士
第二章 「悪党」の時代
第三章 南北朝内乱という新しい「戦争」
第四章 武士たちの南北朝サバイバル
第五章 指揮官たちの人心掌握術
第六章 武士たちの「戦後」
終章 “戦後レジーム”の終わり


と構成されていて、これから引用する部分は第二章の最後に位置しています。(p97以下)

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 鎌倉幕府滅亡の原因は何か。この難問に対する日本中世史学界の最新の回答をお教えしよう。ズバリ「分からない」である。
 そんなバカな、と思われるかもしれないが、これはまごうことなき事実である。一例を挙げよう。二〇〇七年の日本史研究会大会・中世史部会で熊谷隆之氏が「鎌倉幕府支配の展開と守護」という報告を行った。これは従来の理解と異なり、時代が下るにつれて鎌倉幕府の地域支配が強化されていることを論じた斬新なものであった。討論では「熊谷氏の説明では、なぜ鎌倉幕府が滅びたのか分からない」という批判が起こったが、熊谷氏は「制度が強化される一方で結果として幕府は滅びるが、その理由を一言で説明するのは難しい」と応答した。つまり「分からない」のである。
 もちろん、今まで多くの研究者が、鎌倉幕府滅亡の原因を考察し、色々な仮説を提示してきた。しかし、皮肉なことに、研究が進めば進むほど、それらの仮説が成り立たないことが明らかになっていき、「分からない」という悲しい結論に陥ってしまったのである。
 たとえば、御家人の家における惣領と庶子の対立に注目する意見がある。幕府は異国警固番役の惣領・庶子の並立勤仕を認める(五一~五二頁)など、兵力確保のために庶子の独立を応援する姿勢を示した。しかし惣領側の反発を受け、結局幕府は惣領優遇の方針に回帰した。この結末を「幕府によって裏切られた庶子の増加は、とりもなおさず在地反幕潜在勢力の増大をもたらすことになった」と解説する向きもある。
 だが、この見方は穿ちすぎだろう。倒幕に参加したのが庶子たちであったという事実も、幕府方についたのが惣領たちであったという事実も確認されていない。
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いったん、ここで切ります。
2007年日本史研究会大会での熊谷報告は「中世史部会共同研究報告 鎌倉幕府支配の展開と守護[含 討論と反省]」(『日本史研究』第547号、2008年3月)に出ていますね。
実は私、熊谷隆之氏が六波羅の「檜皮屋」即ち六波羅御所こそが征夷大将軍の本邸だと主張する論文「六波羅探題考」(『史学雑誌』113編7号、2004)を読んで、何だかなあ、と思ったことがあります。

六波羅の「檜皮屋」について

また、熊谷氏の「モンゴル襲来と鎌倉幕府」(『岩波講座日本歴史第7巻(中世2)』、2014)については、あまりに奇妙な文体で叙述されているので、こんなものが論文なのだろうか、と思ったこともあります。
そんな訳で、私はあまり熊谷氏を高く評価できず、『日本史研究』第547号の内容も殆ど記憶していないのですが、念のため「討論と反省」を含め、再確認しておきたいと思います。

「公家・武家・関東」
「北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇」
「二つの滅亡論」(筆綾丸さん)
「金沢貞顕の恐怖の記憶」
「歴史には、史料が黙して語らぬ、裏がある」(by 熊谷隆之氏)

>筆綾丸さん
2014年6月18日の投稿で、筆綾丸さんが岩波講座の桃崎・熊谷論文を辛辣に評されていて、ちょっと笑ってしまいました。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

パラメーター 2020/09/01(火) 18:54:28
小太郎さん
エマニュエル・トッドは、女性の識字率の上昇と出生率の低下、並びに、乳児死亡率の上昇というパラメーターから、ソ連邦の崩壊を予言しましたものね。
ソ連邦の崩壊は二十世紀における世界的な大事件で、鎌倉幕府の滅亡は十四世紀における極東の小事件・・・なんてことはないですね。

※参考
戦犯でない天皇? 2014/06/18(水) 20:00:35
小太郎さん
あまり気が進まなかったのですが、『岩波講座日本歴史中世2』の中の桃崎氏の『建武政権論』を、パラパラ眺めてみました。
「・・・幕府にとって、承久の乱の本質は生存闘争であり」(45頁)とありますが、源平の争乱は源氏にとって「生存闘争」であり、元寇は幕府にとって「生存闘争」であり・・・というような具合に、言おうと思えば何にでも言えることであって、つまりは何も言ったことにはならないから、「承久の乱の本質は生存闘争である」などと言うのは、語弊があることながら、ただの間抜けな表現としか思えないですね。また、何の注釈もなく単に「生存闘争」と言えば、普通はダーウィンの「struggle for existence」を踏まえたものと考えますが、ここでダーウィンの進化論など何の関係もないだろ、という気もしますね。
「・・・幕府内政争の都合で皇位を操作し、初めて戦犯でない天皇から位を奪った・・・」(46頁)ですが、「初めて戦犯でない天皇」という表現から逆に想定されている「戦犯の天皇」を仲恭天皇とすれば(承久の乱の時、後鳥羽、土御門、順徳は上皇だから「戦犯の天皇」とは言えないですね)、乱の時に今上は四歳の幼児であって、戦犯も何もないだろ、と思いました。要するに、「初めて戦犯でない天皇」などというのは、非常に奇怪な表現のような気がしますね。また、詳しくは知らぬことながら、戦犯(戦争犯罪)という概念は西欧近代の国際法において発展したもので、日本の中世とは何の関係もないだろ、とも思われますね。
・・・というようなわけで、桃崎氏の『建武政権論』は4頁だけ読んでイヤになり、やめました。

次に、熊谷隆之氏の『モンゴル襲来と鎌倉幕府』を眺めたのですが、著者は老人なのか若者なのか、文体が何ともチグハグなものですね。
「鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。答えは一にあらざるも、一連の事実をあげる」(35頁)などは一昔前の老人のような文体で、「それにしても、『吾妻鏡』は、信用ならぬ。『吾妻鏡』のない後半、史料は乏しい。それでも、鎌倉幕府研究に可能性はあると思う」(36頁)の「それでも」の使い方などは、背伸びした小学生が馬脚をあらわしたような感じがします。
また、「まもなく来たる後高倉皇統の断絶は・・・」(3頁)は、日本語の文法が変じゃないかな。

続けて、高橋秀樹氏の『中世の家と女性』をパラパラ眺めました。
「また、十四世紀の観阿弥は、シテが女性を演じる能の作品を多くつくり、観阿弥の子息世阿弥は、内面的にも女性となりきることから生じる姿に能の「女体」を見出したという。また、世阿弥が足利義満に寵愛されたのは、男とも女とも違う、その稚児性ゆえであるともいう。中世の人びとは、ジェンダーの境界領域に文化的な興を見出していたのであろう」(247頁)
それまで男女の性差らしきものを論じてきて、最後で不意に「稚児性」などに言及したら、何が何だかわからんじゃないか、という感じがしました。「稚児性」は「ジェンダーの境界領域」にあるものなのかなあ。

最後に・・・眺めるのもイヤになりました。
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