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『古典の未来学』を読んでみた。(その2)

2020-12-17 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月17日(木)17時58分1秒

それでは谷口雄太氏の「「太平記史観」をとらえる」を少し検討してみます。
この論文の構成は、

一、はじめに
二、「太平記史観」を定義する
三、それが「太平記史観」だと気付くまで
四、「太平記史観」批判の現在
五、「太平記史観」超克の未来
六、おわりに

となっていますが、まずは谷口氏の問題意識を知るため、「一、はじめに」を引用します。(p689以下)

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一、はじめに

 本稿は平成三〇年(二〇一八)一一月一七日・一八日に開催された国際日本文化研究センターのシンポジウム「投企する太平記」(呉座勇一主催)での報告をもとに、その後、約一年間の成果(令和元年〔二〇一九〕一二月現在)も踏まえて、再構成したものである。
 右のシンポジウムは、『太平記』の再考が企図されたものだが、その趣旨説明で、主催者の呉座は、『太平記』と現在の歴史学の関係について、次のように整理している。すなわち、近代の歴史学は「太平記は史学に益なし」(久米邦武)と、軍記物などの二次史料を批判した。それゆえ、論文類では『太平記』の使用を慎重に回避しつつも、図書類では躍動的な描写を目指して『太平記』を積極的に利用するという二重基準的状況を発生させた。その結果、『太平記』の史料としての活用法を追究せぬまま、かえってその歴史観(「太平記史観」)に我々は強く絡め取られてしまっている現状が否定し難く存在しているのではないか、と。
 かかる呉座の総括に基づき、筆者に与えられた課題が、「「太平記史観」をとらえる」であった。具体的には「太平記史観」をめぐり議論が活発化しつつある現在の南北朝期研究において、国文学側の『太平記』研究の進展も受け止めつつ、歴史学サイドとしていかに「太平記史観」を乗り越えていくのか、その方針をまがりなりにも提示すること、である。極めて重要かつ喫緊の課題ではあるが、筆者にできることはいうまでもなく限られている。
 そこで、以下の構成をとりたい。まず、「太平記史観」とは何か、なぜそれが問題なのか、について述べる(第二節)。次いで、筆者がどうして「太平記史観」と関わることになったのか、その経緯(出会いの瞬間)について振り返る(第三節)。そのうえで、「太平記史観」批判をめぐる研究の現状を把握し(第四節)、最後に、歴史・文学双方の成果に学びつつ、「太平記史観」超克へ向けた今後の展望について、多少なりとも考えを打ち出す(第五節)。
 以上を踏まえ、以下、早速本論に移っていこう。
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ということで、第二節では最初に「太平記史観」の定義がありますが、それは「端的にいえば、『太平記』が紡ぎ出す物語・視座(物の見方・『太平記』的な見方)のこと」(p390)だそうです。
そして、「「太平記史観」のおそらく大部分は、我々にとってもはや自明の前提・常識(盲点・死角)となっているがゆえに、その作業(「太平記史観」を自覚的に批判していく作業)には、かなりの困難が伴うと予想される」(p692)のだそうです。
次いで第三節では、「筆者がどうして「太平記史観」と関わることになったのか、その経緯(出会いの瞬間)について振り返る」とのことで、まるで Boy Meets Girl の物語のような「出会いの瞬間」のトキメキとともに足利と新田の関係が熱く語られます。(p694)

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(二)歴史と文学の境界へ

 新田氏といえば、足利氏のライバル、というのが一般的なイメージであり、人口に膾炙している常識だろう。【中略】
 だが、すでにみたように、実際には、新田氏は足利氏と同格などではない。それどころか、むしろ、新田氏は足利氏の庶流(足利一門)として位置付けられる存在にすぎなかった。事実、新田氏を足利氏と同格と描くのは主に『太平記』(および、その影響を受けたもの)であり、他の中世の同時代史料はみなこぞって新田氏(新田系)を足利一門と記している。
 つまり、新田氏を「源家嫡流」とし、同氏やその一族を非足利一門とするのは、『太平記』が紡ぎ出すフィクションにすぎず、現実には、みな彼らのことを「足利庶流」(足利一門)とみなしていたわけである。ここに、『太平記』の持つ物語性・作為性(「太平記史観」)をみないわけにはいかないであろう。新田氏は「足利庶流」そのものだったのであるから。
 新田氏は足利一門である。なぜこうした考えに我々は至らなかったのか。換言すれば、なぜ我々は新田氏のことを足利一門の外部(非足利一門)かのようにみなしてしまうのか。この問題、すなわち、新田氏を足利一門から切り離し、あたかも別の一族かのように認識してしまうこと、これこそ、新田氏に関する「太平記史観」最大の問題であると考える。
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まあ、「最大の問題」かどうかはともかくとして、谷口氏のこの指摘は、最初に聞いたときはなかなか新鮮に思えましたが、「足利一門再考」(『史学雑誌』122編12号、2013)、「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか」(呉座勇一編『南朝研究の最前線』、洋泉社、2016)と『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019)を既に読んでいる読者にとっては、いささか聞き飽きた話でもあります。
ちなみに、谷口氏が「出会いの瞬間」に関連して挙げる四つの「拙論」のうち、私は「変貌する新田氏表象」(倉本一宏編『説話研究を拓く』思文閣出版、2019)は未読です。
さて、第四節に入ると、「「太平記史観」の批判をめぐる昨今の状況を(管見の範囲内ではあるが)概観してみたい」(p696)とのことで、最初に「本シンポジウム(「投企する太平記」)の主催者である呉座勇一の発言」として、呉座氏の「はじめに」(『南朝研究の最前線』、2016)が七行分ほど引用され、

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 傍線部に的確に示されているように、「慎重に」扱っているつもりであっても、「知らず知らずのうちに」とらわれているものこそ、「太平記史観」なのである。後半部で建武政権の事例も挙げられているように、南北朝期の通説には「太平記史観」が潜在しているのだ。
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といった感想が付されます。(p696)
ついで、「呉座とともに現在の南北朝期研究をリードしている亀田俊和の意見」として、「「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか」(『南朝研究の最前線』)から九行分ほどの引用があり、

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 亀田も建武政権のイメージを史学史的に辿りつつ、それが結局は「太平記史観」の産物であったことを剔抉しており、現在ようやくそれに対する批判が出てきたとまとめている。
 だが、「太平記史観」が本当に恐ろしいのは、批判者もまだ依然として「太平記史観」にとらわれている可能性が否定できないためである。亀田に対する山田徹の批判をみよう。山田もまた、呉座・亀田とともに現在の南北朝研究を主導している若手の一人である。
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とのことで、この後、山田徹氏の「書評 亀田俊和『観応の擾乱』(『ヒストリア』268号、2018)が十二行分ほど引用されています。(p698)
少し長くなったので、いったんここで切ります。

TRF / BOY MEETS GIRL (TRF 20th Anniversary Tour)
https://www.youtube.com/watch?v=AE-n1ZQl_XI
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