学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

佐藤雄基氏「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(その4)

2022-11-11 | 唯善と後深草院二条

前回投稿で引用した「それ故に「失」の有無という一種の偶然性に左右されるリスクを忌避したのではなかろうか」に続いて、

-------
 逆にいえば、起請文を提出するという行為自体に、自分は「失」を恐れないこと、すなわち自己の主張には偽りがないというアピールをする意味合いがあったと考えられる。【後略】
-------

とあり(p8)、呉座勇一氏はこの部分を、少し表現を変えて『一揆の原理』で紹介された訳ですね。

「「一味神水」はパフォーマンス」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06d418c0ad9b0525f05e64a076305192

さて、佐藤氏によれば、

-------
【前略】「懸物押書」や第一節で検討した参籠起請と同じく、訴訟当事者の起請文提出もまた一二四〇年代を最後にして姿を消すのである。残存史料の絶対数自体は鎌倉後期に増加することを考慮すれば、単なる残存史料の偶然的な偏りではなく、一二三〇・四〇年代の執権政治期の御家人間相論における特徴として位置づけることが可能である。村井章介氏が指摘するように、承久の乱後の執権政治期は、外部では公家政権・本所との折衝、内部では将軍勢力・外様御家人などとの均衡の上に成り立っていたため、当事者間の個別事情と衡平感覚、合意形成を重視した訴訟処理(理非判断)を志向せざるを得なかった。白黒つけがたい局面において、個別の事情を斟酌しつつも、起請文(神仏)という外部的バロメーターによって「失」の有無を示すことで理非判断を下そうとする姿勢は、個別的な論点を持ち込む当事者の衡平感覚を無視し得ない執権政治期の幕府訴訟の特質であるといえよう。これに対して、いわゆる得宗専制期になると、訴訟手続きが整備され、一般性をもって認識される規範に基づくシステマティックな訴訟処理が行なわれるようになる。所務沙汰において相論を有利に進めるために、相手方の罪科(密通や悪口など)を訴え出ることがしばしば行われるが、十三世紀後半の幕府裁許では、密通の有無のような判断し難い問題は「沙汰に及ばず」として取り扱わない方針がとられるようになる。【後略】
-------

とのことで(p8以下)、参籠起請も訴訟当事者の起請文提出も、割と短期間で終了してしまったそうです。
これに対し、「訴訟当事者による起請文が姿を消す一方、鎌倉幕府法廷の証人に「起請之詞」を付した文書の提出が求められるとのあり方は、鎌倉幕府滅亡まで存続する」(p9)そうですが、そもそも「証人に口頭陳述ではなく文書の提出を求めること自体、鎌倉幕府裁判に特徴的なもの」(p10)とのことなので、虚偽の証言を抑制するために誓言を付することを要求するのは合理的であり、長く続いたのももっともですね。
さて、「第二章 院政期訴訟における起請文利用」と「第三章 起請文と公家法・武家法」において、院政期社会と鎌倉期公家社会での起請文利用の有り方を見て、それらとの比較の上で鎌倉幕府訴訟における起請文利用の特質を検討された佐藤氏は、「おわりに」において、

-------
 日本中世の起請文は、神仏への誓いを文書様式に表現したものであり、しばしば中世社会の未開性として捉えがちである。だが、鎌倉中期の幕府訴訟では、当事者の起請文を利用して理非判断が難しい問題に対して柔軟な判断が下されており、鎌倉後期以降は証人・使節の請文に起請之詞を求めるシステマティックな運用がなされていた。文書主義を背景にして、貞永元(一二三二)年の「御成敗式目」を画期として理非判断と神仏の論理が起請文によって結合した点に、鎌倉幕府訴訟と武家法の歴史的特質がある。その一方で、貸借関係には起請文を用いないという考え方もみられ、起請文を用いて決断する必要があるか否かによって中世人の思考に分節を見出すことができる。起請文は神仏への誓いという様式的特徴をもつが、その機能には神仏と文書を媒介にして秩序形成を行った中世人特有の合理精神が表現されている。一見して未開で非合理的に映りがちな中世人の営為の中に、固有の合理性を見出す機能論的アプローチは、過去の人間社会への他者理解という困難な課題に接近する手がかりとなると思われる。
-------

と書かれていて(p27以下)、なかなか格調が高いですね。
こうした佐藤氏の考察を踏まえた上で、「御成敗式目」の起請文の部分を改めて眺めてみると、「理非判断と神仏の論理が起請文によって結合」というよりは、決定的に重要なのは「理非判断」であって、「神仏の論理」は修飾程度の意味しかないようにも思えてくるのですが、その点は次の投稿で書きます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐藤雄基氏「日本中世前期に... | トップ | 「御成敗式目」の宗教的色彩 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

唯善と後深草院二条」カテゴリの最新記事