学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

起請文破りなど何とも思わない人たち(その3)

2022-11-06 | 唯善と後深草院二条

私は日本における「無神論」の起源とその発展の様相に興味があって、戦前の共産主義運動(「日本戦闘的無神論者同盟」等)から廃仏毀釈、近世儒学、臨済禅などと歴史を遡って反宗教的現象を探り、南北朝時代あたりまでは何となく把握できたつもりでいるのですが、土佐房昌俊の弁明、即ち神や仏との約束より人(主君)との約束の方が大事、という思考は、既に「無神論」と評価してよいような感じもしますね。
さて、土佐房昌俊の話は『吾妻鏡』にも出てきますが、『平家物語』に較べればごく簡単な記事で、起請文云々もありません。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-10.htm

『平家物語』も諸本によって差異がありますが、佐藤雄基氏の「鎌倉期の御家人と誓約に関する覚書─『吾妻鏡』の起請文記事を中心にして─」(『生活と文化の歴史学6 契約・誓約・盟約』所収、竹林舎、2015)によれば、最も古態を残すと言われる延慶本では、

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 『平家物語』における起請文の著名な挿話は、七枚の起請である(第六末)。義経暗殺に失敗した土佐房昌俊が、起請文の提出を申し出て、義経は「必ず書けとは思わないが、書くも書かないのも昌俊の心次第」と返事したところ、昌俊は「一旦の害を遁れむがため」に「熊野牛玉」を取り寄せて起請文七枚を書いて、一枚はその場で焼いて飲み、残り六枚を各社に奉納したという。ところが昌俊は、起請文を書いた日の夜、義経に夜討ちを仕掛けた。七枚という数の多さが誠意のなさを象徴しているかのように、起請文が取り交わされて誓約が結ばれても、それが容易に破られうる状況が示されている。
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とのことで(p111)、昌俊は起請文の定番である「熊野牛玉」を用いていますね。
そして焼いて飲んだ一枚を除く六枚は全て神社に奉納したとのことで、呉座氏の推測とは異なり、義経には提出していない訳ですね。
このエピソードが、前回投稿で紹介した東大国語研究室蔵本(高野辰之氏旧蔵)のように「ほめぬ人こそなかりけれ」で終わっているのかが気になるので、後で延慶本を確認してみるつもりです。
また、『平家物語』諸本のうち、話の流れがよく纏まっていて分かりやすい『源平盛衰記』の場合、土佐房は熊野ではなく「七大寺詣」を上京の名目としていますね。
そして、「和僧が上洛、全く七大寺詣にはあらじ。義経夜討の料なり。大名などを上せば、九郎用心して天下の煩ひにもなりなん。和僧奈良法師なり。事を七大寺詣と披露して義経討てとの謀ぞや」と嘲笑う義経に対し、次のように弁明します。(水原一編『新定 源平盛衰記 第六巻』、新人物往来社、1991、p134以下)

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「全くその儀侍らず。不審を散ぜん為、起請文を書き進らせん」と言ふ。伊予守は、「起請を書きたればとて実〔まこと〕にすべからず。その上の事、和僧が心にまかせよ」と言へば、昌俊その辺より熊野牛王尋ね出だして、その裏に上天下界の神祇勧請し奉り、起請文書き、灰に焼きて呑む。宿所に帰つて思ひけるは、起請は書きたれども、今夜計らずば悪しかりなんと思ひて、夜討の支度しけり。
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用紙は「熊野牛王」ですが、一枚だけ書いて、それを焼いて飲んだということで、七枚も書いたという不自然さがなく、すっきりと纏まっていますね。
夜討に失敗し、逮捕された後の場面では、

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大庭に引き据ゑて、「いかに、和僧は腹黒なしと起請書きながら、かやうの結構をば巧みけるぞ。冥覧〔みやうらん〕頂〔いただき〕に有り、神罰踵〔きびす〕を廻らさず。奇怪奇怪」と言ひければ、土佐房、今は助かるべき身に非ずと思ひて悪口に及ぶ。「夜討は二位家の結構、起請は昌俊が私の所作なり。必ずしも冥罰にあらず。只自然の運の尽くるにこそ、互にその期〔ご〕あるべし」と言ふ。伊予守腹を立てて、「しや頬〔つら〕打て」とて、頬を打たせたりければ、昌俊面〔おもて〕も振らず、顔も損ぜず。「ただ飽くまで打ち給へ、打ち給へ。昌俊が顔、顔にあらず。これは源二位家の御頬なり。この代わりには又鎌倉殿、伊予守殿の顔を打ち給はんずれば、思ひ合せ給はんずらん」と申す。伊予守からからと打笑ひて、「和僧が志誠に神妙なり。主を憑むといふはかくこそあるべけれ。囚人〔めしうど〕なれども土肥が親しくなりけるは、宜しく理〔ことわり〕なり」と感じて、「命惜しくば助けん。二位殿へ参れ」と言ひければ、昌俊、「取替へもなき命を奉つて鎌倉を立ちし日より、生きて帰るべきと存ぜず。夜討し損じ虜〔いけど〕られぬる上は、申し請くべき命にあらず、芳恩には急ぎ頭〔かうべ〕を召せ」と申す。伊予守以下侍共感じ申しける。さらば切れとて、六条川原に引き出だして、京の者に中務丞友国といふ者切りてけり。
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ということで(p137)、起請文破りで「神罰」が下ったと言う義経に対し、昌俊は「冥罰」ではなく、ただ「自然の運」が尽きただけのことであり、それはお互い様だ、あなたにも「自然の運」が尽きる機会があるだろうと「悪口」を言います。
「神罰」「冥罰」など存在せず、ただ「自然の運」があるだけだ、という主張も、起請文破りの論理としてはすっきりしています。
昌俊の「夜討は二位家の結構、起請は昌俊が私の所作」、「昌俊が顔、顔にあらず。これは源二位家の御頬」、「この代わりには又鎌倉殿、伊予守殿の顔を打ち給はん」という対比的なレトリックも面白く、義経が「からからと打笑」ったように、この場面は笑いと諧謔に満ちていますね。
起請文破りなど何でもないこと、神仏との約束などより「主を憑む」ことの方が遥かに大事という価値観、即ち武士的な笑いに溢れた「無神論」は昌俊と「伊予守以下侍共」、そして読者に共有されています。
もちろん、『源平盛衰記』は延慶二年(1309)の奥書を持つ延慶本より遅い時期の『平家物語』の異本であり、脚色も一層多くて、土佐房昌俊のエピソードは史実とは言い難いものです。
しかし、読者として想定される武士層の共感を全く呼ばない創作が生まれるはずはなく、また、こうした作品は読者たる武士層の思想にも影響を与えて行きます。
いったん真剣に起請文を書いた人が、その後の事情の変化で起請文破りをする必要に迫られた場合、土佐房昌俊のエピソードを思い出して、「神罰」も「冥罰」もそれほど怖くないんじゃないか、自分も「自然の運」に任せよう、などと思ったりすることもあったかもしれません。

百科事典としての『太平記』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ce0a5f7f0dcc79489204d9c99492d91
「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b57ee91887115b0af20ddc274cc98c31

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