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上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その3)

2021-09-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月26日(日)11時59分27秒

続きです。(p163以下)

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 だが、動員体制の整備を待つうち、御家人たちの間に再び迎撃論が強まった。この事態をみた広元は、五月二十一日の群議の場で、次のように発言して再び進撃論を主張する。

  上洛定まりて後、日を隔つるにより、すでにまた異議出来す。武蔵国の軍勢を待たしむ
  るの条、なお僻案なり。日時を累ぬるにおいては、武蔵国衆といえどもようよう案をめ
  ぐらし、定めて変心あるべきなり。ただいま夜中、武州(泰時)一身といえども鞭を揚
  げらるれば、東士ことごとく雲の竜に従うがごとくなるべし。

 「一旦進撃案が決定されたものの、軍勢の進発に時間をかけたために再び迎撃論がむしかえされてしまったのである。武蔵国の武士の集結を待つことは愚策で、いかに幕府の主力たるべき彼らも、日時の経過とともに心変わりする恐れがあるから、今夜に泰時は単騎でも出撃すべし」というのが広元の主張である。
 かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強硬論を述べたのはなぜだったのだろうか。幼い日に目の当たりにしたかもしれない保元・平治の乱や、頼朝の伊豆での挙兵、そして度重なる鎌倉幕府内部の武力抗争の勝敗の帰趨が、いずれも機敏な先制攻撃によって決してきたことを広元が熟知していたことは理由の一つにちがいない。また、頼朝の時代以来奉公を続けてきた幕府に戦いを挑んだ後鳥羽に対し、広元が心底より怒りを覚えていたという面もあったろう。あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない。
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いったん、ここで切ります。
「かつて「合戦のことはわからない」と語った広元」とは、比企氏の乱の時の話ですね。
比企氏の乱での広元の動きはなかなか微妙ですが、承久の乱に際しての苛烈さと比較するために少し紹介しておくと、

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 『吾妻鏡』同日条の広元の行動に関する記述を見よう。北条時政が広元邸におもむき、比企一族の横暴な振る舞いぶりと「逆謀」を企てている事実を語り、討伐の方針を示して意見を求めたところ、広元は次のように答えたという。

  幕下将軍の御時以降、政道を扶くるの号あり。兵法においては是非を弁ぜず。誅戮する
  や否や、よろしく賢慮あるべし。(私は、頼朝様以来政道を補佐するものではあります
  が、兵法のことはよく分りません。比企氏を討伐するかどうかについては、賢明な判断
  を下すべきです)

 「文士たる自分が合戦のことについて意見を述べることはできない」とした上で、慎重な態度を求める微妙な返答である。時政は、この言葉を比企氏討伐容認と解したらしく、ただちに合戦に臨む姿勢を見せ、政子邸(名越殿)で協議がなされ、広元も招かれた。
 広元は、随行を申し出る家人たちをおしとどめ、飯富宗長一人をともなってしぶしぶ政子邸に向かっている。【後略】
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といった具合です。(p111以下)
この後、広元が宗長に意味深長な発言をして、このあたりは比企氏の乱における謎の一つなのですが、今は深入りはできません。
ただ、「幕下将軍の御時以降、政道を扶くるの号あり。兵法においては是非を弁ぜず。誅戮するや否や、よろしく賢慮あるべし」は、自分は幕府内部の争いには関らない、という「文士」としての中立的姿勢を示したものと私は解しています。
そう考えると、承久の乱での広元の態度は、幕府内部の争いではなく、朝廷との関係はまさに京下りの「文士」である自分の専門分野であって、朝廷の本質を知らない武士たちには任せられない、自分だけが正しく是非を弁別できる、という自負の現れと解することができ、別に比企氏の乱での慎重な態度とは矛盾しないように思われます。
なお、上杉氏は「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」と言われますが、私には広元の態度は終始一貫、全くブレていないように見えます。
まあ、息子とはとうとう互いに分かり合えなかったな、という父親としての苦い感情はあったのかもしれませんが、そうした私的感情で公的判断を乱されるようでは、広元はとても幕府の宿老にはなれなかっただろうと思います。
さて、承久の乱に戻って、続きです。(p164)

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 広元の言葉は義時を強く動かし、さらに広元とともに文官官僚として幕府を支えてきた三善康信の病躯をおしての強硬策の提言もあって、ついに幕府は、軍勢を京都へ向けて出発させることとなった。五月二十二日から二十五日にかけて、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の三手に分かれて鎌倉を発った幕府軍は、各地で朝廷軍を破りながら西上した。そして、六月十四日に宇治川の防衛線を突破し、翌十五日に入京した幕府軍は、朝廷軍を完全な敗北に追い込んだのである。
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完全な勝利を得た幕府は、この後、三上皇配流を始めとする苛烈な戦後処理を行ないますが、果たして三上皇配流を決めたのは誰だったのか。
『吾妻鏡』が描く義時は決して独裁者ではなく、むしろ些か優柔不断なようにも見えますが、果たしてそうした義時が三上皇配流という驚天動地・空前絶後の戦後処理を主導できたのか。
仮に義時が主導したのでないとすれば、誰がそれを発案し、実現させたのか。
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