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目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その1)─「城を枕に討死という発想は後鳥羽院にはない」

2023-09-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
森野論文への私の立場からの評価は一応固まりましたが、目崎氏に見解について少し書いてから森野論文に戻ることにします。
『人物叢書 紀貫之』(吉川弘文館、1961)の「はしがき」の最後には、

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 この貧しい仕事でもそれが形を成すまでに蒙った学恩を数え立てれば切もないが、ここでは特に刊行についていろいろお世話を頂いた東京大学史料編纂所の斎木一馬助教授と、片田舎に住む私のために常に親切な助力を惜しまれない阿部善雄・落合辰一郎・田中健夫・山中裕の四氏に感謝を述べておきたい。それからこの研究に対して昭和三十五年度文部省科学奨励研究費を受けたことを附記する。
 私は終戦直後から最近まで十年余りを療養のために費した。貧乏の最中に母を失い、家計も看護も育児も一切を妻の手に委ねた来し方をふり返ると、この小さな本に対しても大げさにいえば「命なりけり小夜の中山」の気持ちがする。
  昭和三十六年七月    目崎徳衛
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とありますが、ここに名前が挙げられている人の中で、落合辰一郎という方は聞いたことがなかったので「国会図書館サーチ」で検索してみたところ、たった一件、「図書館風土記・人物編-17-新潟県の巻(公共図書館)」(『図書館雑誌』62巻4号、1968)という記事がヒットしました。
おそらくこの方が新潟県立図書館の関係者で、「私以外に利用する者もないと思われる特殊な文献を購入して貸与」してくれた人なのでしょうね。
さて、歴史学から国文学との境界領域に果敢に乗り込み、国文学者からも絶賛される多大な業績を上げられた目崎氏に対して、私も改めて尊敬の念を強くしているのですが、しかし、目崎氏が『史伝 後鳥羽院』において、後鳥羽院が「逆輿」で配流されたとの記事を史実とされる以上、私としては、目崎氏を「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(仮称)に加えざるを得ません。
和歌を中心に国文学関係の史料に精通し、歴史学における文学作品の利用方法についても、おそらく最も深く考究されたであろう目崎氏が、何故に慈光寺本を信頼できると考えられたのか。
「慈光寺本妄信歴史研究者」の相当部分は権門体制論者であり、権門体制論者は明らかに慈光寺本に親和性がありますが、左右のイデオロギーに警戒的であった目崎氏は(少なくとも黒田流の)権門体制論者ではなかったはずです。
では、何故に目崎氏は慈光寺本を信頼されたのか。
慈光寺本作者を藤原能茂と考える私としては、慈光寺本作者は非常に華やかな前半生を送った人で、苦労人の目崎氏とはおよそ正反対のタイプであり、慈光寺本にはそうした作者ならではのトリッキーな要素が多々含まれているにもかかわらず、目崎氏はそれを理解できないのではないか、と一応想定しています。
この点、『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)に即して、もう少し考えてみたいと思います。

『史伝 後鳥羽院』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b493036.html

同書の構成は些か変わっていて、

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起の巻
 その一 棺を蓋いて事定まらず
 その二 運命の四の宮
 その三 幼帝と権臣
 その四 十代の太上天皇
承の巻
 その一 和歌への出発
 その二 『新古今集』成る
 その三 秀歌と秘曲
 その四 狂連歌と院近臣
 その五 鞠を蹴り武技を練り
 その六 習礼と歌論
転の巻
 その一 北条殿か北条丸か
 その二 はこやの山の影
 その三 治天の君の苦悩
 その四 内裏再建の強行と抵抗
 その五 敗者の運命
結の巻
 その一 『遠島御百首』の世界
 その二 人それぞれの戦後
 その三 歌道・仏道三昧の晩年
 その四 氏王のこと
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となっていますが、まずは「転の巻」「その五 敗者の運命」の冒頭部分を少し見ておきます。(p163以下)
なお、私の手許にあるのは「新装版」ではなく、2001年の初版なので、頁数も初版のものです。

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  その五 敗者の運命

 木曽川筋に派遣された軍勢の大敗を伝える飛脚が院御所高陽院に到着したのは、義時追討の院宣発布からわずか半月後の六月七日であった。翌日後鳥羽院は土御門・順徳両院以下を従え、首都防禦の拠点比叡山を目指して出発した。しかし頼みとする山門は動かず、なす術もなく東坂本から高陽院に引き返す。もともと明敏な院はこの時すでに方針転換を策したのであろう。拘禁していた西園寺公経の処刑を取り止めさせたのは、和平の仲介に起用する処置である。
 激戦の末に宇治・勢多の渡河に成功した北条時房・同泰時の幕府勢は、六月十五日早くも洛中に姿をあらわした。院は使者を六波羅の本営に派遣し、義時追討の院宣撤回を告げる。つまりは降伏の意志表示であった。辛くも宇治・勢多の戦場を脱出して帰参した三浦胤義らの武士がこのあまりに性急な停戦に納得できなかったのは当然であろう。高陽院の門を固く閉ざして、お前たちが立て籠ったら戦いになるから、「只今ハトクトク何クヘモ引退ケ」と無情にも告げる院を、「カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀ナレ」と嘆いて立ち去ったと、『承久記』(慈光寺本)は伝えている。しかし城を枕に討死という発想は後鳥羽院にはない。武勇を好み武技にもすぐれた院は、あくまでも公家的人間であった。
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「義時追討の院宣発布からわずか半月後の六月七日であった」に付された注(1)には、目崎氏の慈光寺本に対する基本的態度が記されていますが、少し長くなったので次の投稿で紹介します。
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