『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第177回
雲海に酒を渡したマツリ。
「世話になったようで」
ほっほ、と笑いながら「何のことでしょうかな?」と、一度断った酒を受け取り、半歩後ろに居た紫揺に目を転じると、紫揺がお辞儀をしてから口を開いた。
「マツリへのご助力を頂いたようで有難うございました。 それと先日は学び舎での道義を聞かせて頂き、有難うございました」
(そのようにきたか。 ・・・杠は分かっていたということか。 我には想像も出来んかったわ)
「いやいや、知れたもので御座います。 それより、よくお似合いで御座います」
杠に無理矢理、市に放り出され買い求めた衣。 宮の衣には程遠いが坊の衣ではない。
裾が足首までの巻きスカートのようにしていたものもあったが、それではあまり足が広げられなく動きが制限される。 ってことで、裾は足首より少し上までになってしまうが、フレアースカートのような物を購入した。 ちゃんと女人の衣である。
足が見えるということでマツリが苦情を呈したが「それなら膝上までたくし上げる」と巻きスカートの方を指さされ渋々承諾した。
「動きにくいのですが」
「お噂はお聞きしております。 ですが御内儀様となられればその衣でもお足りにならないかと」
武官達が話している紫揺のトンデモ噂だろう。 ウソ噂ではなく真実なのだが。
「あと少しですがこちらに居ります。 その間はこの衣で居た方が良いと思われますでしょうか?」
坊の衣の方がいいというように、少し不服気味な言い方をする。
「ええ、御内儀様になられるお方ですから」
紫揺が相好を崩した。
「そう思われますか・・・では、そうします」
(こ、こやつ。 ちゃんと百足を立ておった・・・)
何故かこれから先が不安になった。 うかうかしていると足元をすくわれるかもしれない。
「ああ、そうでした、マツリ様」
前を見据えてはいたが、殆ど頭の中が飛んでいたマツリが名前を呼ばれ我に戻る。
「学び舎で道義以外に勉学も教えたら如何かと御内儀様・・・紫さまが申されまして。 如何で御座いましょう」
「教えて頂けるのなら、それに越したことは無いが・・・。 無理を言って来てもらっておる、負担がかかろう」
「いいえ、いいえ。 マツリ様から仰っていただきましたら、いくらでも」
「そうか。 ・・・では無理のないところで頼む」
「承りました」
好々爺が深く頭を下げた。
好々爺の長屋を出ると武官の様子を見に少し歩いた。
武官達の巡回の様子を見ながら「ふむ」と言うと屋舎に向う。 紫揺はずっと付いてきている。
屋舎には杠が居た。
「あ! 杠!」
裾をたくし上げ、マツリを抜いて紫揺が走り出した。
(・・・気にくわん。 杠めっ)
帳面を見て下を向いて誰かと話していた杠とその誰かが顔を上げた。 マツリが思わずUターンしかけたが、紫揺を置いていくわけにはいかない。 そんな事をすれば、また杠に取られてしまう。
「紫さま、お走りになられませんよう。 ああ、裾などたくし上げては・・・」
杠が紫揺にコンコンと大人しくするように言っている横で、誰かである依庚にコンコンと三十路の話をされたのであった。
夕刻、宮都から硯職人が馬に乗ってやって来た。 硯になる岩石を運ぶに馬車を扱わねばならない。 よって馬にも乗れるということであるが、あまり上手くはない。 時がかかったのだろう、くたくたに疲れている様子が見てとれる。
「お疲れで御座いました。 明日、馬車で行きましょう」
マツリたちが泊まっている宿には空き部屋がある。 そこに泊まらせることにした。
翌朝、杠が馭者台に座り馬車に乗り込んだ硯職人。 紫揺も気になり付いて行きたかったが、杠に取られまいとするマツリに止められた。
杠が居なければマツリが屋舎に向かわねばならない。 杉山で何かあれば巴央が来るだろうし、芯直たちからの接触もあるかもしれないと思ってのことであったが、巴央が来ることもなく芯直たちからの接触もなかった。
紫揺の掌は、朝、武官に薬草を塗ってもらった時にかなり治ってきていた。 そし夕刻に塗り直してもらった時には跡形がなくなっていた。 さすがは武官が持つ薬草である。
その報告を聞いて普通ならよかったと思うところ、顔を歪ませたのはマツリであった。
ましてや硯職人と戻ってきた杠からは、硯に使える岩石だと聞き「これで安心して東の領土に戻れる。 明日戻るから、あとはマツリがやっといてね」などといわれる始末。
ブスッとした顔のマツリと紫揺を置いて杠が辺りを回ってくると言うと、紫揺がそれについて行きたそうにしている。
マツリと少しでも一緒に居ているようにと、杠が言うが聞きそうにない。 いつもならマツリと杠が肩を並べて回っているところである。
「よい、我も行く」
マツリはどこかでジレンマを感じている。 六都のことは気になる、だが滅多に会えない紫揺が居る、その紫揺と一緒に居たい。 ならば紫揺と一緒に六都を回ればいい。
紫揺を挟んで三人で小路を歩いていると、顔色を変えた享沙が後ろを気にしながら早足で歩いてきていた。 後ろを気にするあまりか、マツリと杠に気付いていない。 すると横の小路から男が出て来た。 振り返っていた享沙がその男に声をかけられ前を向くと足を止めた。 小路を回って先回りした様だ。
マツリと杠の目前で何が起こっているのだろうか。 享沙が下手を踏んだのだろうか。
「兄さん、どうして逃げるの!」
え? という顔をしてマツリと杠が互いを見合う。
「・・・ぴょこの、弟、か?」
「そのようで」
何のことかと真ん中で紫揺が二人を見上げている。
ぴょこ?
六都の決起のことは終わった。 享沙は長屋で大人しくしていれば良かったが、いつまでもじっとはしていられなかった。 ちょっと見回るだけのつもりだったのに弟と遭遇してしまった。
知らぬ存ぜぬは通せない、他人の振りは出来ない。 前回会ってしまった時に話をしてしまっていた。 弟の横を走ってすり抜けた時、弟が手を出してきたがそれを撥ね退けた。 その時になってようやく目の前にマツリと杠が居ることに気付いた。
「あ・・・」
言ったのは杠だった。
弟をすり抜けようとした享沙を追って、弟がこちらに顔を向けたからであった。
「まさか、あの男が沙柊の・・・ぴょこ、あ、いや、弟?」
「なんだ? 知っているのか?」
「例の、都司にと考えていた男です」
え? という顔をしてマツリが男を見る。
杠から二十七歳と聞いていた。 確かにその年齢より随分と若く見える。 だがその男が享沙の弟?
マツリと杠に気付いた享沙だったが杠の横を走り去る。 ついでに紫揺にも気付いていた。
床下に潜り、享沙が何度も練習をしても上れなかった木にいとも簡単に上った坊。 芯直たちからその坊はマツリの御内儀であり、五色の紫であり紫揺でもあると。 杠が紫揺と呼んでいることから芯直たちも紫ではなく紫揺と呼んでいるとも聞いた。
弟が逃げ去る享沙を見て肩を落とし、やって来た小路に引き返して行った。
それをずっと見ていたマツリと杠。
「兄弟を調べた時に分からなかったのか」
「兄の名は凶作と書かれておりましたので・・・」
凶作と書いて “きょうさ” という名であった。 まさか享沙だったとは。
享沙の親から出生届を受け取った文官はそれなりの趣味があったようだ。
「ふむ、たしかに若く見える顔だったが、芯はしかりとしていそうか・・・」
いつまでも兄を探し求めてはいるようだが、兄に会うまでは一人でやって来たのだろう。 幼くは見えても、見ようによっては責任感があるように見えなくもない。
「一度、話してみるか」
弟と。
「沙柊は如何いたしましょう」
同席させるのか?
「ふむ。 良いかもしれんな。 ケリをつけさせるに丁度いいだろう」
「では今晩で宜しいですか?」
マツリが頷いた。
頭上で交わされる意味の分からない会話。 一人のけ者にされたような気分になる。 眉根をひそめ、今晩というものに参加することを心に決めた。
杠が別行動で弟と享沙の家に行き、マツリと紫揺は六都の中をずっと歩き、夕餉の刻になると宿に戻って行った。
歩き回っている時に武官と目が合った紫揺が手を振ったり、武官が “うふっ” っという感じで礼をとるではなく、皆が同じように手を振り返してきたのには眉がピクピクと動いてしまったが。
戻ってきた杠と夕餉を食べ終えると部屋に戻り、この宿に享沙と弟に来るように言ったとの事だった。
「沙柊にも弟にも互いが来るとは告げておりません」
「承知した」
「紫揺は己の部屋に行っておくといい」
「ここに居ちゃ駄目?」
東の領土が気になるから戻ると言ってはこんな状態だ。
「如何いたしましょう」
「・・・黙っているならよい」
行けと言っても駄々をこねるのは目に見えている。 隅にでも座らせておこう。
先にやって来たのは享沙だった。
部屋に入ると紫揺が居た。 隅っこにちんまりとではあったが。
「先に紹介しておこう、マツリ様の御内儀様となられる東の領土五色、紫さまです」
座した享沙が手を着いて頭を下げる。 御内儀様と顔を合わすなんてことは有り得ない事なのだから。 だがどうしてこの場に呼ばれたのだろう。
「今回の決起のことでは紫さまがよく動いて下さいました。 紫さまは芯直、絨礼、柳技の顔は知っておられます」
そういうことか。 マツリの手足となって動いている者との顔合わせということか。
「紫さまとお話しするに、今も今後も私を通す必要はありません」
民からすれば御内儀様ともなれば雲上のお方になる。 もちろんマツリもそうなのだが、マツリは領土を回っていて民に顔を見せているし、話すこともある。
ましてや自分たちはマツリに呼ばれて宮に行ったのだ、マツリから話しかけられマツリの下で働いている。 今となってはマツリと話すのは特別なことではない。 だが御内儀様は違う。 宮から出ることも無く、御内儀様の顔を見ようと思えばたった一度、婚礼の儀の時に馬車で民の前に姿を現す時に見られるだけである。
享沙が杠に頷いてみせ、次にマツリに頭を下げると紫揺に向き直った。
「享沙、通り名を沙柊と申します。 紫さまのお姿は一度長屋でお見掛けいたしました」
「え?」
「床下に潜られ、木に上られるところを」
見られていたのか、全く気付かなかった。
マツリが渋面を作り、杠が笑いかけている。
「気付きませんでした。 では初めましてではないんですね。 改めまして、紫と言います」
お辞儀をしかけて身体を止める。
顔合わせはこれで終った。 弟が来るまでに聞きたいことがある。
「沙柊、六都に残っている沙柊の名は不作という意味の凶作だったのか?」
頷いた享沙が答える。
六都を出て漢字を覚えるようになり、自分の名はどんな字を書くのだろうかと、一度六都の文官所に赴き漢字を教えてもらったのだという。 だがそれがとんでもない字だった。 だから自分で考え、漢字を当てはめたということであった。
享沙が生まれた時に登録をした文官はトンデモ趣味文官だったようだと、享沙に説明されようやく納得がいった。
「ですがどうして俺の名を調べたりしたんですか?」
ここからはマツリに説明してもらう。
「沙柊、弟のことだが、この六都の都司になって欲しいと考えておる」
「え?」
「弟の身辺を洗うことで兄に凶作という者が居ると分かったが、この六都を出てどこに居るかが分からなかった。 だが今日、弟の兄が誰か分かった」
それが享沙だった。
そうか、名を調べられた理由が分かった。 だが弟が都司に?
「長く離れておったと聞いたが、どうだ? 享沙から見て弟は都司に向いているようか?」
「・・・小さな時の弟は・・・ただただ優しいだけでした。 俺が居なくなってからは、六都を出たと言っていました。 俺と同じように六都の外で勉学をしたと。 それだけしか言えません。 他には何も知りませんので」
「そうか。 なぁ、沙柊、我の手足となっていることはさて置き、弟と話をせんか」
「・・・情が移ってしまいます」
「今も充分そうであるから逃げておるのであろう。 それに我は情の無いような者を選んだつもりはない」
「マツリ様・・・」
「もう少しすれば弟がここに来るが、都司の話を持ち掛ける。 そのあとにでもゆっくりと話をしてみんか」
「どうして・・・そのようなことを」
「我が手足となっている者の幸(さち)を願わぬわけが無かろう」
「沙柊、あくまでも弟と一緒に住むからと、こちらを抜けることは許されません。 ですが兄弟がゆっくり顔を合わせてもいいのではありませんか? 積もる話もあるでしょう」
紫揺がどこか驚いた顔をしている。
杠が言ったのは当然と思って聞けた。 だがマツリがあんなことを言うなんて。
杠と地下から出てきて宮に戻った時、杠が言っていた、マツリは『あの方は気骨があり温情の深い方』と。 あの時は『権高で癇性の間違いじゃないの?』 と思っていたが、今ではそうでないことを分かっている。 だが杠の言う “恩情の深い方” それがこういう事なのだろうか。
と、戸を叩く音がした。 享沙がビクンと体を震わせる。
杠が立ち上がり戸を開けるとそこには享沙の弟である、飛於伊(ひおい)が立っていた。
杠が飛於伊を中に入れる。 そこに兄である享沙が居たことに驚き、一瞬立ちすくんでしまったが、杠に座るように促され享沙の隣に座った。
正面には同じように座しているマツリが居る。 マツリと同じ位置に座るなど考えられない事だった。 すぐに両手をつき頭を下げた。
「改まらずともよい。 伏していては話が出来ん」
更に杠にも声をかけられ、おずおずと飛於伊が顔を上げる。
「享沙の弟、飛於伊だな」
「はい・・・」
いったい何なのだろう。 わけが分からず伏目にしている睫毛が揺れる。
「急な話ではあるが、飛於伊にはこの六都の都司になってもらいたく来てもらった」
「と・・・都司?」
思わず声がひっくり返り目を見開いた。
「都司になってもらうにあたり、身辺に疑いのある者では困る。 飛於伊にはこの兄一人しか居らんということで間違いないな」
そういうことか。 それで兄が呼ばれたのか。 「はい」と言いながら頷く。
「兄であるこの者も飛於伊と同じように真っ当に生きておるようだ。 何の疑いもない。 この六都は他の都と違って、都司は代々が継いでいるものではない。 読み書きが出来れば良いのだが、どうだ、今すぐにということではないが都司になってみんか」
すぐに返事が出来るものでないことは分かっている。
「マツリ様が変えようとされている六都の最初の都司になってみてはくれないか。 悪いが、飛於伊のことはこの私が調べました。 何の淀みもない。 都司としてやっていけると思うのですが?」
飛於伊が戸惑ったような顔をしている。 こうして見ると本当についさっき大人になったような顔だ。
「簡単には決められないでしょう。 ですが私がマツリ様に飛於伊のことをお知らせし、マツリ様がご納得をされました。 それを念頭に置き、兄に相談して決めてはくれませんか?」
飛於伊が享沙を見る。
享沙に杠のやりようが分かった。 享沙からも勧めろということだ。
享沙が弟に頷いてみせた。
「我が身に有り余るお話しでは御座いますが、兄とよくよく相談しお返事をさせていただきたいと存じます」
「良い返事を待っております。 私は杠と申します。 決められましたらいつでも私の方まで」
享沙と飛於伊が部屋を出て行った。
「あの物言いが出来るのなら、文官に舐められることもなかろう」
「はい、単に読み書きが出来るわけではなく、頭の回転もよさそうですので」
「兄弟でよく似ておる」
ぴょこ、さえなければだが、いや、飛於伊にも何か秘められたものがあるのだろうか。
「紫、どうしても明日戻るのか?」
ずっと黙って隅に居た紫揺。
「あ・・・うん」
今のマツリを見せられて、自分の知らないマツリをもっと見てみたいなどと思っていたが、今の自分は東の領土のことを考えなければいけない。
いくら秋我が呼びに来なくとも、あまり領土を空けるのは考えもの。
「マツリ様、明日は武官ではなく、マツリ様がお送りされれば如何で御座いましょう。 宮に戻られて、柴咲と呉甚のことがどこまで進んでいるかということも御座いますし」
まだ進展が無いのだろうか、それとも何かあるのだろうか、宮から早馬が走って来ていない。
「・・・そうだな」
「紫揺、宮で一日でも泊まるか?」
「うううん、宮に戻ったらすぐに領土に帰る」
そんな無駄な時間は取りたくない。
「では明日一番に出るということで宜しいでしょうか」
紫揺ではなくマツリに向かって言う。
「致し方ないか」
朝一番に出て夕刻前には宮に着くだろう。 それから岩山まで馬で走り、東の領土に入って山を降りねばならない。 強行突破だが、朝一番を逃すとそれが出来なくなる。
宮都の一角で「もう熱は下がりました。 明日には目が覚めるでしょう」と言い残し、医者が帰って行った。
見知らぬ、まだあどけない女人だったが、驚くほどの高熱を出していた。 放っておくわけにはいかなかった。 医者の言葉にホッと胸を撫で下ろした夫婦だった。
翌早朝、杠が厩から一頭の馬を曳いてきた。 紫揺がこの六都に乗ってきていた馬である。
『紫揺が乗ってきた馬だけで御座いますか?』
杠は当たり前にマツリの乗る馬も曳こうと思っていたが、マツリが紫揺の乗ってきた馬だけを曳いてくるようにと言った。
一方で、文官所と武官所では紫揺が帰るということを聞いて、しっちゃかめっちゃかになっていた。
文官所では早朝から誰かが出仕しているものではない。 だが武官所では二十四時間体制。 武官が早朝に杠から聞いたことがまだ出仕していない文官の耳に入り、文官たちが出仕時となっていないのに詰め寄せていた。 まだ交代の刻限にもなっていない武官も然りであった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第177回
雲海に酒を渡したマツリ。
「世話になったようで」
ほっほ、と笑いながら「何のことでしょうかな?」と、一度断った酒を受け取り、半歩後ろに居た紫揺に目を転じると、紫揺がお辞儀をしてから口を開いた。
「マツリへのご助力を頂いたようで有難うございました。 それと先日は学び舎での道義を聞かせて頂き、有難うございました」
(そのようにきたか。 ・・・杠は分かっていたということか。 我には想像も出来んかったわ)
「いやいや、知れたもので御座います。 それより、よくお似合いで御座います」
杠に無理矢理、市に放り出され買い求めた衣。 宮の衣には程遠いが坊の衣ではない。
裾が足首までの巻きスカートのようにしていたものもあったが、それではあまり足が広げられなく動きが制限される。 ってことで、裾は足首より少し上までになってしまうが、フレアースカートのような物を購入した。 ちゃんと女人の衣である。
足が見えるということでマツリが苦情を呈したが「それなら膝上までたくし上げる」と巻きスカートの方を指さされ渋々承諾した。
「動きにくいのですが」
「お噂はお聞きしております。 ですが御内儀様となられればその衣でもお足りにならないかと」
武官達が話している紫揺のトンデモ噂だろう。 ウソ噂ではなく真実なのだが。
「あと少しですがこちらに居ります。 その間はこの衣で居た方が良いと思われますでしょうか?」
坊の衣の方がいいというように、少し不服気味な言い方をする。
「ええ、御内儀様になられるお方ですから」
紫揺が相好を崩した。
「そう思われますか・・・では、そうします」
(こ、こやつ。 ちゃんと百足を立ておった・・・)
何故かこれから先が不安になった。 うかうかしていると足元をすくわれるかもしれない。
「ああ、そうでした、マツリ様」
前を見据えてはいたが、殆ど頭の中が飛んでいたマツリが名前を呼ばれ我に戻る。
「学び舎で道義以外に勉学も教えたら如何かと御内儀様・・・紫さまが申されまして。 如何で御座いましょう」
「教えて頂けるのなら、それに越したことは無いが・・・。 無理を言って来てもらっておる、負担がかかろう」
「いいえ、いいえ。 マツリ様から仰っていただきましたら、いくらでも」
「そうか。 ・・・では無理のないところで頼む」
「承りました」
好々爺が深く頭を下げた。
好々爺の長屋を出ると武官の様子を見に少し歩いた。
武官達の巡回の様子を見ながら「ふむ」と言うと屋舎に向う。 紫揺はずっと付いてきている。
屋舎には杠が居た。
「あ! 杠!」
裾をたくし上げ、マツリを抜いて紫揺が走り出した。
(・・・気にくわん。 杠めっ)
帳面を見て下を向いて誰かと話していた杠とその誰かが顔を上げた。 マツリが思わずUターンしかけたが、紫揺を置いていくわけにはいかない。 そんな事をすれば、また杠に取られてしまう。
「紫さま、お走りになられませんよう。 ああ、裾などたくし上げては・・・」
杠が紫揺にコンコンと大人しくするように言っている横で、誰かである依庚にコンコンと三十路の話をされたのであった。
夕刻、宮都から硯職人が馬に乗ってやって来た。 硯になる岩石を運ぶに馬車を扱わねばならない。 よって馬にも乗れるということであるが、あまり上手くはない。 時がかかったのだろう、くたくたに疲れている様子が見てとれる。
「お疲れで御座いました。 明日、馬車で行きましょう」
マツリたちが泊まっている宿には空き部屋がある。 そこに泊まらせることにした。
翌朝、杠が馭者台に座り馬車に乗り込んだ硯職人。 紫揺も気になり付いて行きたかったが、杠に取られまいとするマツリに止められた。
杠が居なければマツリが屋舎に向かわねばならない。 杉山で何かあれば巴央が来るだろうし、芯直たちからの接触もあるかもしれないと思ってのことであったが、巴央が来ることもなく芯直たちからの接触もなかった。
紫揺の掌は、朝、武官に薬草を塗ってもらった時にかなり治ってきていた。 そし夕刻に塗り直してもらった時には跡形がなくなっていた。 さすがは武官が持つ薬草である。
その報告を聞いて普通ならよかったと思うところ、顔を歪ませたのはマツリであった。
ましてや硯職人と戻ってきた杠からは、硯に使える岩石だと聞き「これで安心して東の領土に戻れる。 明日戻るから、あとはマツリがやっといてね」などといわれる始末。
ブスッとした顔のマツリと紫揺を置いて杠が辺りを回ってくると言うと、紫揺がそれについて行きたそうにしている。
マツリと少しでも一緒に居ているようにと、杠が言うが聞きそうにない。 いつもならマツリと杠が肩を並べて回っているところである。
「よい、我も行く」
マツリはどこかでジレンマを感じている。 六都のことは気になる、だが滅多に会えない紫揺が居る、その紫揺と一緒に居たい。 ならば紫揺と一緒に六都を回ればいい。
紫揺を挟んで三人で小路を歩いていると、顔色を変えた享沙が後ろを気にしながら早足で歩いてきていた。 後ろを気にするあまりか、マツリと杠に気付いていない。 すると横の小路から男が出て来た。 振り返っていた享沙がその男に声をかけられ前を向くと足を止めた。 小路を回って先回りした様だ。
マツリと杠の目前で何が起こっているのだろうか。 享沙が下手を踏んだのだろうか。
「兄さん、どうして逃げるの!」
え? という顔をしてマツリと杠が互いを見合う。
「・・・ぴょこの、弟、か?」
「そのようで」
何のことかと真ん中で紫揺が二人を見上げている。
ぴょこ?
六都の決起のことは終わった。 享沙は長屋で大人しくしていれば良かったが、いつまでもじっとはしていられなかった。 ちょっと見回るだけのつもりだったのに弟と遭遇してしまった。
知らぬ存ぜぬは通せない、他人の振りは出来ない。 前回会ってしまった時に話をしてしまっていた。 弟の横を走ってすり抜けた時、弟が手を出してきたがそれを撥ね退けた。 その時になってようやく目の前にマツリと杠が居ることに気付いた。
「あ・・・」
言ったのは杠だった。
弟をすり抜けようとした享沙を追って、弟がこちらに顔を向けたからであった。
「まさか、あの男が沙柊の・・・ぴょこ、あ、いや、弟?」
「なんだ? 知っているのか?」
「例の、都司にと考えていた男です」
え? という顔をしてマツリが男を見る。
杠から二十七歳と聞いていた。 確かにその年齢より随分と若く見える。 だがその男が享沙の弟?
マツリと杠に気付いた享沙だったが杠の横を走り去る。 ついでに紫揺にも気付いていた。
床下に潜り、享沙が何度も練習をしても上れなかった木にいとも簡単に上った坊。 芯直たちからその坊はマツリの御内儀であり、五色の紫であり紫揺でもあると。 杠が紫揺と呼んでいることから芯直たちも紫ではなく紫揺と呼んでいるとも聞いた。
弟が逃げ去る享沙を見て肩を落とし、やって来た小路に引き返して行った。
それをずっと見ていたマツリと杠。
「兄弟を調べた時に分からなかったのか」
「兄の名は凶作と書かれておりましたので・・・」
凶作と書いて “きょうさ” という名であった。 まさか享沙だったとは。
享沙の親から出生届を受け取った文官はそれなりの趣味があったようだ。
「ふむ、たしかに若く見える顔だったが、芯はしかりとしていそうか・・・」
いつまでも兄を探し求めてはいるようだが、兄に会うまでは一人でやって来たのだろう。 幼くは見えても、見ようによっては責任感があるように見えなくもない。
「一度、話してみるか」
弟と。
「沙柊は如何いたしましょう」
同席させるのか?
「ふむ。 良いかもしれんな。 ケリをつけさせるに丁度いいだろう」
「では今晩で宜しいですか?」
マツリが頷いた。
頭上で交わされる意味の分からない会話。 一人のけ者にされたような気分になる。 眉根をひそめ、今晩というものに参加することを心に決めた。
杠が別行動で弟と享沙の家に行き、マツリと紫揺は六都の中をずっと歩き、夕餉の刻になると宿に戻って行った。
歩き回っている時に武官と目が合った紫揺が手を振ったり、武官が “うふっ” っという感じで礼をとるではなく、皆が同じように手を振り返してきたのには眉がピクピクと動いてしまったが。
戻ってきた杠と夕餉を食べ終えると部屋に戻り、この宿に享沙と弟に来るように言ったとの事だった。
「沙柊にも弟にも互いが来るとは告げておりません」
「承知した」
「紫揺は己の部屋に行っておくといい」
「ここに居ちゃ駄目?」
東の領土が気になるから戻ると言ってはこんな状態だ。
「如何いたしましょう」
「・・・黙っているならよい」
行けと言っても駄々をこねるのは目に見えている。 隅にでも座らせておこう。
先にやって来たのは享沙だった。
部屋に入ると紫揺が居た。 隅っこにちんまりとではあったが。
「先に紹介しておこう、マツリ様の御内儀様となられる東の領土五色、紫さまです」
座した享沙が手を着いて頭を下げる。 御内儀様と顔を合わすなんてことは有り得ない事なのだから。 だがどうしてこの場に呼ばれたのだろう。
「今回の決起のことでは紫さまがよく動いて下さいました。 紫さまは芯直、絨礼、柳技の顔は知っておられます」
そういうことか。 マツリの手足となって動いている者との顔合わせということか。
「紫さまとお話しするに、今も今後も私を通す必要はありません」
民からすれば御内儀様ともなれば雲上のお方になる。 もちろんマツリもそうなのだが、マツリは領土を回っていて民に顔を見せているし、話すこともある。
ましてや自分たちはマツリに呼ばれて宮に行ったのだ、マツリから話しかけられマツリの下で働いている。 今となってはマツリと話すのは特別なことではない。 だが御内儀様は違う。 宮から出ることも無く、御内儀様の顔を見ようと思えばたった一度、婚礼の儀の時に馬車で民の前に姿を現す時に見られるだけである。
享沙が杠に頷いてみせ、次にマツリに頭を下げると紫揺に向き直った。
「享沙、通り名を沙柊と申します。 紫さまのお姿は一度長屋でお見掛けいたしました」
「え?」
「床下に潜られ、木に上られるところを」
見られていたのか、全く気付かなかった。
マツリが渋面を作り、杠が笑いかけている。
「気付きませんでした。 では初めましてではないんですね。 改めまして、紫と言います」
お辞儀をしかけて身体を止める。
顔合わせはこれで終った。 弟が来るまでに聞きたいことがある。
「沙柊、六都に残っている沙柊の名は不作という意味の凶作だったのか?」
頷いた享沙が答える。
六都を出て漢字を覚えるようになり、自分の名はどんな字を書くのだろうかと、一度六都の文官所に赴き漢字を教えてもらったのだという。 だがそれがとんでもない字だった。 だから自分で考え、漢字を当てはめたということであった。
享沙が生まれた時に登録をした文官はトンデモ趣味文官だったようだと、享沙に説明されようやく納得がいった。
「ですがどうして俺の名を調べたりしたんですか?」
ここからはマツリに説明してもらう。
「沙柊、弟のことだが、この六都の都司になって欲しいと考えておる」
「え?」
「弟の身辺を洗うことで兄に凶作という者が居ると分かったが、この六都を出てどこに居るかが分からなかった。 だが今日、弟の兄が誰か分かった」
それが享沙だった。
そうか、名を調べられた理由が分かった。 だが弟が都司に?
「長く離れておったと聞いたが、どうだ? 享沙から見て弟は都司に向いているようか?」
「・・・小さな時の弟は・・・ただただ優しいだけでした。 俺が居なくなってからは、六都を出たと言っていました。 俺と同じように六都の外で勉学をしたと。 それだけしか言えません。 他には何も知りませんので」
「そうか。 なぁ、沙柊、我の手足となっていることはさて置き、弟と話をせんか」
「・・・情が移ってしまいます」
「今も充分そうであるから逃げておるのであろう。 それに我は情の無いような者を選んだつもりはない」
「マツリ様・・・」
「もう少しすれば弟がここに来るが、都司の話を持ち掛ける。 そのあとにでもゆっくりと話をしてみんか」
「どうして・・・そのようなことを」
「我が手足となっている者の幸(さち)を願わぬわけが無かろう」
「沙柊、あくまでも弟と一緒に住むからと、こちらを抜けることは許されません。 ですが兄弟がゆっくり顔を合わせてもいいのではありませんか? 積もる話もあるでしょう」
紫揺がどこか驚いた顔をしている。
杠が言ったのは当然と思って聞けた。 だがマツリがあんなことを言うなんて。
杠と地下から出てきて宮に戻った時、杠が言っていた、マツリは『あの方は気骨があり温情の深い方』と。 あの時は『権高で癇性の間違いじゃないの?』 と思っていたが、今ではそうでないことを分かっている。 だが杠の言う “恩情の深い方” それがこういう事なのだろうか。
と、戸を叩く音がした。 享沙がビクンと体を震わせる。
杠が立ち上がり戸を開けるとそこには享沙の弟である、飛於伊(ひおい)が立っていた。
杠が飛於伊を中に入れる。 そこに兄である享沙が居たことに驚き、一瞬立ちすくんでしまったが、杠に座るように促され享沙の隣に座った。
正面には同じように座しているマツリが居る。 マツリと同じ位置に座るなど考えられない事だった。 すぐに両手をつき頭を下げた。
「改まらずともよい。 伏していては話が出来ん」
更に杠にも声をかけられ、おずおずと飛於伊が顔を上げる。
「享沙の弟、飛於伊だな」
「はい・・・」
いったい何なのだろう。 わけが分からず伏目にしている睫毛が揺れる。
「急な話ではあるが、飛於伊にはこの六都の都司になってもらいたく来てもらった」
「と・・・都司?」
思わず声がひっくり返り目を見開いた。
「都司になってもらうにあたり、身辺に疑いのある者では困る。 飛於伊にはこの兄一人しか居らんということで間違いないな」
そういうことか。 それで兄が呼ばれたのか。 「はい」と言いながら頷く。
「兄であるこの者も飛於伊と同じように真っ当に生きておるようだ。 何の疑いもない。 この六都は他の都と違って、都司は代々が継いでいるものではない。 読み書きが出来れば良いのだが、どうだ、今すぐにということではないが都司になってみんか」
すぐに返事が出来るものでないことは分かっている。
「マツリ様が変えようとされている六都の最初の都司になってみてはくれないか。 悪いが、飛於伊のことはこの私が調べました。 何の淀みもない。 都司としてやっていけると思うのですが?」
飛於伊が戸惑ったような顔をしている。 こうして見ると本当についさっき大人になったような顔だ。
「簡単には決められないでしょう。 ですが私がマツリ様に飛於伊のことをお知らせし、マツリ様がご納得をされました。 それを念頭に置き、兄に相談して決めてはくれませんか?」
飛於伊が享沙を見る。
享沙に杠のやりようが分かった。 享沙からも勧めろということだ。
享沙が弟に頷いてみせた。
「我が身に有り余るお話しでは御座いますが、兄とよくよく相談しお返事をさせていただきたいと存じます」
「良い返事を待っております。 私は杠と申します。 決められましたらいつでも私の方まで」
享沙と飛於伊が部屋を出て行った。
「あの物言いが出来るのなら、文官に舐められることもなかろう」
「はい、単に読み書きが出来るわけではなく、頭の回転もよさそうですので」
「兄弟でよく似ておる」
ぴょこ、さえなければだが、いや、飛於伊にも何か秘められたものがあるのだろうか。
「紫、どうしても明日戻るのか?」
ずっと黙って隅に居た紫揺。
「あ・・・うん」
今のマツリを見せられて、自分の知らないマツリをもっと見てみたいなどと思っていたが、今の自分は東の領土のことを考えなければいけない。
いくら秋我が呼びに来なくとも、あまり領土を空けるのは考えもの。
「マツリ様、明日は武官ではなく、マツリ様がお送りされれば如何で御座いましょう。 宮に戻られて、柴咲と呉甚のことがどこまで進んでいるかということも御座いますし」
まだ進展が無いのだろうか、それとも何かあるのだろうか、宮から早馬が走って来ていない。
「・・・そうだな」
「紫揺、宮で一日でも泊まるか?」
「うううん、宮に戻ったらすぐに領土に帰る」
そんな無駄な時間は取りたくない。
「では明日一番に出るということで宜しいでしょうか」
紫揺ではなくマツリに向かって言う。
「致し方ないか」
朝一番に出て夕刻前には宮に着くだろう。 それから岩山まで馬で走り、東の領土に入って山を降りねばならない。 強行突破だが、朝一番を逃すとそれが出来なくなる。
宮都の一角で「もう熱は下がりました。 明日には目が覚めるでしょう」と言い残し、医者が帰って行った。
見知らぬ、まだあどけない女人だったが、驚くほどの高熱を出していた。 放っておくわけにはいかなかった。 医者の言葉にホッと胸を撫で下ろした夫婦だった。
翌早朝、杠が厩から一頭の馬を曳いてきた。 紫揺がこの六都に乗ってきていた馬である。
『紫揺が乗ってきた馬だけで御座いますか?』
杠は当たり前にマツリの乗る馬も曳こうと思っていたが、マツリが紫揺の乗ってきた馬だけを曳いてくるようにと言った。
一方で、文官所と武官所では紫揺が帰るということを聞いて、しっちゃかめっちゃかになっていた。
文官所では早朝から誰かが出仕しているものではない。 だが武官所では二十四時間体制。 武官が早朝に杠から聞いたことがまだ出仕していない文官の耳に入り、文官たちが出仕時となっていないのに詰め寄せていた。 まだ交代の刻限にもなっていない武官も然りであった。