『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第176回
刑部舎では呉甚の取り調べがまだ続いていた。
「いい加減、諦めたらどうだ」
呉甚の前には刑部長が座っている。
未然に防げたと言っても事は大きかった。 行部長自らである。
「なんのことだか」
証人が証言したと聞いた。 だがそれがなんだ、証拠はどこにもない。 高姫もどこかに行ってしまった。
部屋の戸が外から開けられた。 三人いた刑部文官の一人が立ち上がり、外から入ってきた文官と小声で話している。 聞こえたのは「承知した」それだけだった。
呉甚に相対していた刑部長に小声で告げる。 しっかりと呉甚に聞こえるように。
「女が吐きました」
呉甚の目が大きく見開かれた。
「柴咲のことも」
“の” とはどういうことだ、という目をしているのは、白々しい刑部長だけではない。
「高妃のことも」
グッと呉甚の喉の奥で音がした。
『高妃様を、どうか高妃様をお探しください!』
とうとう女が泣きながら叫んだ。
『高妃様とは?』
『早くお探しください! もう・・・もう丸一日、一人でおられ・・・。 お願い致します、どうか・・・お探しください・・・、衣を見れば、分かります、どうか、どうか・・・』
女は夕べそれ以上言わなかった。
だがこの日夕刻まで待って呉甚が吐かなかった時には、まるで女が吐いたように話を進めようということになっていた。 女の言いようを聞いて “高妃” の名を上げれば呉甚が諦めるだろうと推測してのことだった。
女は高妃に “様” を付けていた、呉甚にとってもそれなりの者だろう。 いや、それが本領領主の直系であり、後ろ盾と言われていた者のことだろう。
それに女についていた武官から誰かを探しているようだったと報告を受けている。 それがその高妃だったのだろう。
「その高妃は?」
「武官に探させるよう、伝令が走っている頃かと」
刑部長が呉甚を見る。
と、また外から戸が開けられた。 先程と同じようにひそひそと話している。 刑部長が呉甚の顔を見ると明らかに引きつっている。
「承知した」先ほどと同じ声しか聞こえない。 呉甚が今も刑部文官を引きつった顔で見ている。
刑部文官が先程と同じように小声で、しかしまたもやしっかりと呉甚に聞こえるように伝える。
「柴咲が吐きました」
これもやけのやんぱち、嘘のやんぱち。 使いたくない手ではあったが、あまり長引かせては面子にかかわる。
刑部長が呉甚を睨み据える。 さっきのどういうことだ、という目にしてもなかなかの役者である。
日本に浅香亨と曹司(ぞうし)という二人が居るが、この二人に演技指導をしてほしいほどである。 <国津道 より>
「な・・・何が悪い!! 直系だ! 直系が領主になることの何が悪い!!」
文官所を出て屋舎の様子を見てから屋舎に立つ依庚(えこう)と話をした。 順調に売り上げが伸びているということである。
「杉山の杉はどんな具合でしょうか?」
「ええ、まだまだ大丈夫です」
「この調子で行けば、宮都への借財も思いのほか早く返せるかもしれません」
「それは何よりです」
この依庚は六都文官が咎にかけられた代わりに入って来た文官である。 以前の六都を知ることはないが、それでも噂には聞いていただろう。
「六都が変わっていきますな」
「ええ、そうなってもらわなければ困ります」
「時に」
「はい」
「御内儀様のことをお聞きしましたが、いつごろ婚姻の儀をお考えなのでしょうか?」
「マツリ様は六都のことを終わらせて、とお考えなのではないでしょうか」
依庚が顔を歪める。
「なにか?」
「マツリ様はたしか・・・二十八の歳におなりかと」
「はい」
「悠長に構えておられますとすぐに三十路になりましょう。 お子のことを考えられなければなりませんでしょう、進言できるのは杠殿だけと思いますが」
紫揺は男の子を生まなければならない。 そして東の領土に残す為の女の子も。
「・・・たしかに」
依庚との話を終わらせると文官所に戻った。 文官所長の部屋の戸を開けると、出て行った時のままの図が目に入ってきた。
「ゆずりはぁぁ・・・。 たすけてぇぇ・・・」
抱え上げられたままの紫揺が振り返り、力尽きたように半泣きの目で杠を見ているではないか。
「いつまでやってるんですか」
戸を閉めようとした時に文官たちの顔が並んでいるのが見えた。
紫揺のあの力尽きた様子、きっと暴れるだけでなく怒鳴っていたのだろう。 それが文官たちの耳に届いて・・・。
杠がにこりと微笑んでそっと戸を閉める。
「ずっと・・・」
紫揺のトンデモは武官に。 マツリのこのザマは文官に。
考えただけで頭がイタイ。
「何を言ってるんです、ほら、手を離して下さい。 なにが手首瀕死寸前ですか」
紫揺をマツリからもぎ取ると、降ろされた紫揺がへなへなとその場にうずくまった。
「紫が本領に居るというのに何日も会えなかったのだからな、これくらい良いであろうが」
ううう・・・血が巡るぅ。 などと、うずくまっている紫揺が独り言を零している。
「硯職人の手配はどうされました?」
しゃがんで紫揺の背をさすってやりながら問うと、文官所長の椅子に座りながら「・・・今から」 と答える。
「・・・とっととお願い致します」
“致します” と言うわりに “とっとと” とは。
夜になり、武官の仮眠室の戸が開けられた。
「柴咲、謀反の罪で捕縛する」
宮都からの応援のなくなった武官の様子と自警の群の夜の巡回の様子を見に、ひとしきり歩き回ったマツリが杠の前に座っている。
殴られる自信があるのでな、と、前回とは言い方は違うが、同じことを言って杠の部屋に入ってきていた。 手には酒と酒杯の載った盆を持っていた。
「杠から見てどうだ」
応援の武官はいなくなったが六十人の武官は帰って来ている。 今の武官の人数が本来の六都の武官の人数。 六十人の武官が戻ってきたことで、自警の群の応援は引いてもらった。
「うーん、厳しいところがありますでしょうか・・・。 ですがいつまでも甘えているわけにはいきませんし、今回のような事を考えますと宮都を手薄にさせるわけにもいきません」
今回の事、それは決起の事。
「ああ、今回のことは宮都が手薄になったことも一因だろうな」
「三十人ほど・・・ではどうでしょうか」
いや、それでも厳しいか、などと口の中で言っている。
「応援を頼むということか」
杠が頷く。
「少しでも早く安定に近いものを作りたいので」
そこで杠が依庚から聞かされた話をした。
「三十路か・・・」
クイっと酒杯の中の酒を口に入れる。
「今回、これほど六都を空けられました。 自警の群が頑張ってくれたこともありますが、すぐにとは申しません。 ですが六都のことが終わるまで、という前でもよろしいのではないでしょうか」
「まぁ、な」
「あまり乗り気でないご様子ですか。 なにか?」
「いや、杠もすぐにとは言っていないのだから同じなのだろうが、まだ自警の群に確信を得られたわけではない。 自警の群には悪いがな。 それに六都の民をもう少し動かしたい」
あれだけ長い間、紫揺を抱きしめておいて何を尤もなことを言っているのか、とは思うが、マツリの言いたいことは分かる。 まだまだ安心できない六都だ。 それにこれから百二十七人の咎のこともある。 咎を言い渡して終わりではない。
「お心に留めて置いて下さればそれで宜しいかと」
「・・・ああ、分かった。 依庚からうるさく言われそうだ。 そうだな、では三十人程応援を頼もうか」
はい、と答えながら、マツリは東の領主には何と言っているのだろうか。 そう思った時に気になったことが頭をかすめた。
「東の領土とはかなり言葉が違うのでしょうか?」
「ん? どういうことだ?」
酒杯を口にしたマツリがゴクリと嚥下する。
「今回、紫揺と長く一緒に居りまして聞き慣れない言葉が幾つかありました。 全く聞いたことの無い言葉ですが・・・それ程に言葉が違うものなのでしょうか」
どうしたものか。 マツリが酒を口に含む。
その様子を見ながら杠も酒杯を傾ける。 マツリの様子がおかしい。 何かあるのだろうか。
「紫には・・・言葉を教えんといかんな」
「宮の言葉のことでしょうか? それとも本領の?」
宮の言葉は民の言葉とはちょいちょい違う。 マツリ付の官吏となって宮に入った時には何度か訊き返したりしたものだった。
「・・・紫に」
そう言っただけでマツリの口が止まった。
聞こえるのは、もうそろそろ終わるであろう蛙の鳴き声。 隣りの部屋にいる紫揺はもう寝たのであろう、物音ひとつ聞こえてこない。
マツリが一度置いた酒杯に再び手を伸ばす。 だがそのまま止まっている。
暫く経ってようやく口を開いた。
「紫に・・・ずっと付いてくれるか」
どういう意味だ。
「紫の兄として、いてくれるか」
「はい」
己が投げかけた疑問に対してどうしてそんな話になるのだろうか。
「我は杠の弟にはならんが」
「当たり前です」
杠が少し減っているマツリの酒杯に酒を継ぎ足し己の酒杯にも注ぐ。
ふぅーっと大きく息を吐いたマツリが酒杯を口にする。
「紫は・・・どこの領土にも・・・どこの領土でも産まれておらん」
マツリが驚くことも出来ないような話をしだした。
出来ることなら雨がしんしんと降っていて欲しかった。 雨の音を聞けば少しは心が落ち着けたかもしれない。
先代紫? 襲われた? 洞? にほん? いったいなんだ。
蛙の鳴き声が棘のように頭に刺さる。 頭の中で鐘楼が鳴り響いている。 さかむけが引っ張られるような、意味が分からない言葉の羅列。
長い長い時が過ぎたようだった。
「納得出来まいがな」
「・・・では、その、にほんという所の言葉だと・・・」
「ああ。 一度開き直ってにほんの言葉で話された。 全てというわけではないが、分からなかったわ」
「その東の領土の、にほんという所を知っている者たちは分かるのですか?」
「通事をしてもらっておるようだ。 紫自身、まだこちらの言葉が分からないところがあるようでな」
そう言われれば、明時や払暁といった言葉を知らなかったか。 と思う杠だが、その言葉は紫揺が知らないだけで、現代の日本にもある言葉である。
そして紫揺が父御、母御、祖父御、祖母御を連れてきたかったという言葉の意味がようやく分かった。
「あれは・・・紫は、人知れず寂しい思いをしておる」
ある日突然、純粋な日本人では無いと聞かされた。 知らない所に来た。 そして言葉の壁。
「・・・己が知ったことを、紫揺にはいかがいたしましょうか」
「言うも言わぬも杠の判断に任せる。 我からは言わん」
「承知いたしました」
己と紫揺の間のことは己に任せてくれたということ。 その想い、大切にしたい。
朝餉の席でマツリにとって驚くことを目の前に座る紫揺が言った。
はっ!? と言ったのはマツリ。
何故だか、マツリと杠が対面の椅子に座ると紫揺が杠の隣に座った。
「だから、夕べよくよく考えたから。 もう長く居たから東の領土に帰る」
「き、昨日、我が戻ってきたところではないか!」
「今日で・・・八日でしょ、たしかそれくらい。 あんまり東の領土を空けたくない」
「わ! 我を置いていくというのかぁ!」
まるで三下り半を渡された男ではないか。 マツリ曰くのイタイ兄の杠が眉をピクつかせる。
「マツリ様・・・民の目が御座います」
誰もがマツリの声にギョッとしてこちらを見ている。
「落ち着かれませ」
「杠はずっと紫と一緒に居ったから、そういうことを言えるのだ!」
「声をお下げください」
そう言うと隣に座る紫揺を見る。
「まだ傷が治っていないだろう。 そんな手で宮に戻ると六都武官長の面子を潰すことになる」
左の掌を見るがそこにはまだ晒が巻かれている。 でも紫揺にすれば面子より東の領土の方が心配である。
「でも何かあったら」
「秋我殿に頼んできたのだろう?」
何かあったらすぐに秋我が宮にやってくると話していた。
「早馬もなにも来ていない。 な? 傷が治るまであと少し、マツリ様とご一緒に居ればどうだ? ああ、そうだ。 紫揺は知らないが紫揺に夜襲があった」
「へ?」
「杠!」
一度マツリの顔を見ると紫揺に戻す。
「それを押さえて下さった好々爺がいらっしゃる」
「好々爺?」
ゆっくりと杠が頷く。
「ほら、学び舎で会った」
「雲海師?」
「そうだ。 地下の報告の時、百足の話があっただろう?」
地下と百足という所は殆ど口パクである。
紫揺が頷く。
「あ・・・もしかして」
「そう、今は動いておられんがな」
マツリの知らない話を二人でしてくれている。 それも目の前で。 杠が穏やかに話し、なんだか従順に・・・いや、小動物のように目をクリクリさせながら紫揺がそれに応えている。 ましてや互いに見つめ合って。 ・・・隣り合って。
(杠めっ)
白飯を口にかっこんだ。
「マツリ様が礼に行かれるが、一緒に行かないか?」
「うん、行く」
自分が迷惑をかけたのだから。
(どっちを向いておる。 こちらを向いて言わんか)
思った途端、茶碗を落としそうになって慌てた。 焼いた川魚に箸を伸ばす。
「だが一つ」
杠が人差し指をたてる。
「なに?」
「百足のことは紫揺も己も知らん。 分かるな?」
(分かるわけがなかろう。 あ、ぐふ)
川魚の骨がのどに引っかかった。
今回も百足という所は口パクだ。
杠が何を言おうとしているのか分かった。
「分かった」
(わ・・・分かったのか?)
涙目でおえおえとしながら茶で骨を流している。
何やら一人で遊んでいるマツリを杠が一瞥(いちべつ)し紫揺に言葉を継ぐ。 それを聞いた紫揺の返事。
「え? ・・・嫌なんだけど?」
「マツリ様が戻って来られた。 そういうわけにはいかない」
朝餉を済ませ武官所で薬草を塗り直してもらうと、まだまだ紫揺と話したそうにしていた武官を完全にスルーして紫揺を拾い上げ、マツリと共に六都の市に放り投げた。
紫揺がブツブツ言う中、なんとか一着が決まりその後、杠が用意していた酒を片手にマツリと紫揺が宿を出た。 殆ど杠に蹴り飛ばされながら。
慣れない衣を触りながら紫揺が口を開く。
「杠がね、大丈夫だって」
唐突に耳に入ってきた声。 何のことだか分からない。
「何のことだ」
「杠のお父さんとお母さんの事」
そんな話をしたのか。
お父さん、お母さん、そんな言葉は本領にない。 だが意味は分かる。 民の言うおっ父や、おっ母、幼子の言うおととや、おかかと同じであろうと。
「有難う」
どういう意味だ。
「何が」
「杠に言ってくれたんだってね、私は乗り越えたって。 だから、杠も乗り越えてくれって。 マツリからの頼みだって」
「・・・杠が言ったか」
この二人は・・・。
「うん。 杠が大丈夫って言ってくれて・・・。 嬉しかった」
「そうか」
「・・・私は、私には・・・」
紫揺の口が閉じられた。
紫揺の口が開くまで待つ。 歩は進めるが。
「私は・・・マツリが聞いてくれた。 分かってくれた」
思いもしなかったことを言われた。 紫揺は・・・分かっていたのか。 泣いて泣いて泣き疲れて寝てしまったのに。
「ずっと一人で泣いてた。 でも、マツリが聞いてくれた」
・・・ずっと一人で。
「もっと早く紫の心に添えばよかった」
紫揺が首を振る。
「充分」
「悪かった」
「そんなことない。 絶対ないから」
「・・・そうか」
マツリの顔をチラッと見ると前だけを向いていた。 杠ならきっとこっちを向いていただろう。 そして頭を撫でてくれただろう。
「杠がね、まだ苦しんでいるんだったら、マツリが私にしてくれたみたいにしようと思ってた」
「は!?」
マツリの足が止まる。
「同じことは出来ないけど、それでも私なりにしようと思ってた」
紫揺が顔を上げてマツリを見る。 マツリも紫揺を見ている。
「あれ、すごく安心できた。 何もかも流せた。 マツリみたいに抱き上げることは出来ないけど、杠に低くなてもらったら、杠の頭を抱きしめることは出来るから」
「はぁー!?」
「そしたら一人じゃないって思えるから」
「・・・そんな事をっ! そんな事をしたなら!! ・・・」
「ん? なに?」
許さん! と言いたかった。
だが・・・。
「・・・必要であれば我がする」
「は・・・?」
マツリが杠の頭を抱く・・・。
紫揺がドン引いた。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第176回
刑部舎では呉甚の取り調べがまだ続いていた。
「いい加減、諦めたらどうだ」
呉甚の前には刑部長が座っている。
未然に防げたと言っても事は大きかった。 行部長自らである。
「なんのことだか」
証人が証言したと聞いた。 だがそれがなんだ、証拠はどこにもない。 高姫もどこかに行ってしまった。
部屋の戸が外から開けられた。 三人いた刑部文官の一人が立ち上がり、外から入ってきた文官と小声で話している。 聞こえたのは「承知した」それだけだった。
呉甚に相対していた刑部長に小声で告げる。 しっかりと呉甚に聞こえるように。
「女が吐きました」
呉甚の目が大きく見開かれた。
「柴咲のことも」
“の” とはどういうことだ、という目をしているのは、白々しい刑部長だけではない。
「高妃のことも」
グッと呉甚の喉の奥で音がした。
『高妃様を、どうか高妃様をお探しください!』
とうとう女が泣きながら叫んだ。
『高妃様とは?』
『早くお探しください! もう・・・もう丸一日、一人でおられ・・・。 お願い致します、どうか・・・お探しください・・・、衣を見れば、分かります、どうか、どうか・・・』
女は夕べそれ以上言わなかった。
だがこの日夕刻まで待って呉甚が吐かなかった時には、まるで女が吐いたように話を進めようということになっていた。 女の言いようを聞いて “高妃” の名を上げれば呉甚が諦めるだろうと推測してのことだった。
女は高妃に “様” を付けていた、呉甚にとってもそれなりの者だろう。 いや、それが本領領主の直系であり、後ろ盾と言われていた者のことだろう。
それに女についていた武官から誰かを探しているようだったと報告を受けている。 それがその高妃だったのだろう。
「その高妃は?」
「武官に探させるよう、伝令が走っている頃かと」
刑部長が呉甚を見る。
と、また外から戸が開けられた。 先程と同じようにひそひそと話している。 刑部長が呉甚の顔を見ると明らかに引きつっている。
「承知した」先ほどと同じ声しか聞こえない。 呉甚が今も刑部文官を引きつった顔で見ている。
刑部文官が先程と同じように小声で、しかしまたもやしっかりと呉甚に聞こえるように伝える。
「柴咲が吐きました」
これもやけのやんぱち、嘘のやんぱち。 使いたくない手ではあったが、あまり長引かせては面子にかかわる。
刑部長が呉甚を睨み据える。 さっきのどういうことだ、という目にしてもなかなかの役者である。
日本に浅香亨と曹司(ぞうし)という二人が居るが、この二人に演技指導をしてほしいほどである。 <国津道 より>
「な・・・何が悪い!! 直系だ! 直系が領主になることの何が悪い!!」
文官所を出て屋舎の様子を見てから屋舎に立つ依庚(えこう)と話をした。 順調に売り上げが伸びているということである。
「杉山の杉はどんな具合でしょうか?」
「ええ、まだまだ大丈夫です」
「この調子で行けば、宮都への借財も思いのほか早く返せるかもしれません」
「それは何よりです」
この依庚は六都文官が咎にかけられた代わりに入って来た文官である。 以前の六都を知ることはないが、それでも噂には聞いていただろう。
「六都が変わっていきますな」
「ええ、そうなってもらわなければ困ります」
「時に」
「はい」
「御内儀様のことをお聞きしましたが、いつごろ婚姻の儀をお考えなのでしょうか?」
「マツリ様は六都のことを終わらせて、とお考えなのではないでしょうか」
依庚が顔を歪める。
「なにか?」
「マツリ様はたしか・・・二十八の歳におなりかと」
「はい」
「悠長に構えておられますとすぐに三十路になりましょう。 お子のことを考えられなければなりませんでしょう、進言できるのは杠殿だけと思いますが」
紫揺は男の子を生まなければならない。 そして東の領土に残す為の女の子も。
「・・・たしかに」
依庚との話を終わらせると文官所に戻った。 文官所長の部屋の戸を開けると、出て行った時のままの図が目に入ってきた。
「ゆずりはぁぁ・・・。 たすけてぇぇ・・・」
抱え上げられたままの紫揺が振り返り、力尽きたように半泣きの目で杠を見ているではないか。
「いつまでやってるんですか」
戸を閉めようとした時に文官たちの顔が並んでいるのが見えた。
紫揺のあの力尽きた様子、きっと暴れるだけでなく怒鳴っていたのだろう。 それが文官たちの耳に届いて・・・。
杠がにこりと微笑んでそっと戸を閉める。
「ずっと・・・」
紫揺のトンデモは武官に。 マツリのこのザマは文官に。
考えただけで頭がイタイ。
「何を言ってるんです、ほら、手を離して下さい。 なにが手首瀕死寸前ですか」
紫揺をマツリからもぎ取ると、降ろされた紫揺がへなへなとその場にうずくまった。
「紫が本領に居るというのに何日も会えなかったのだからな、これくらい良いであろうが」
ううう・・・血が巡るぅ。 などと、うずくまっている紫揺が独り言を零している。
「硯職人の手配はどうされました?」
しゃがんで紫揺の背をさすってやりながら問うと、文官所長の椅子に座りながら「・・・今から」 と答える。
「・・・とっととお願い致します」
“致します” と言うわりに “とっとと” とは。
夜になり、武官の仮眠室の戸が開けられた。
「柴咲、謀反の罪で捕縛する」
宮都からの応援のなくなった武官の様子と自警の群の夜の巡回の様子を見に、ひとしきり歩き回ったマツリが杠の前に座っている。
殴られる自信があるのでな、と、前回とは言い方は違うが、同じことを言って杠の部屋に入ってきていた。 手には酒と酒杯の載った盆を持っていた。
「杠から見てどうだ」
応援の武官はいなくなったが六十人の武官は帰って来ている。 今の武官の人数が本来の六都の武官の人数。 六十人の武官が戻ってきたことで、自警の群の応援は引いてもらった。
「うーん、厳しいところがありますでしょうか・・・。 ですがいつまでも甘えているわけにはいきませんし、今回のような事を考えますと宮都を手薄にさせるわけにもいきません」
今回の事、それは決起の事。
「ああ、今回のことは宮都が手薄になったことも一因だろうな」
「三十人ほど・・・ではどうでしょうか」
いや、それでも厳しいか、などと口の中で言っている。
「応援を頼むということか」
杠が頷く。
「少しでも早く安定に近いものを作りたいので」
そこで杠が依庚から聞かされた話をした。
「三十路か・・・」
クイっと酒杯の中の酒を口に入れる。
「今回、これほど六都を空けられました。 自警の群が頑張ってくれたこともありますが、すぐにとは申しません。 ですが六都のことが終わるまで、という前でもよろしいのではないでしょうか」
「まぁ、な」
「あまり乗り気でないご様子ですか。 なにか?」
「いや、杠もすぐにとは言っていないのだから同じなのだろうが、まだ自警の群に確信を得られたわけではない。 自警の群には悪いがな。 それに六都の民をもう少し動かしたい」
あれだけ長い間、紫揺を抱きしめておいて何を尤もなことを言っているのか、とは思うが、マツリの言いたいことは分かる。 まだまだ安心できない六都だ。 それにこれから百二十七人の咎のこともある。 咎を言い渡して終わりではない。
「お心に留めて置いて下さればそれで宜しいかと」
「・・・ああ、分かった。 依庚からうるさく言われそうだ。 そうだな、では三十人程応援を頼もうか」
はい、と答えながら、マツリは東の領主には何と言っているのだろうか。 そう思った時に気になったことが頭をかすめた。
「東の領土とはかなり言葉が違うのでしょうか?」
「ん? どういうことだ?」
酒杯を口にしたマツリがゴクリと嚥下する。
「今回、紫揺と長く一緒に居りまして聞き慣れない言葉が幾つかありました。 全く聞いたことの無い言葉ですが・・・それ程に言葉が違うものなのでしょうか」
どうしたものか。 マツリが酒を口に含む。
その様子を見ながら杠も酒杯を傾ける。 マツリの様子がおかしい。 何かあるのだろうか。
「紫には・・・言葉を教えんといかんな」
「宮の言葉のことでしょうか? それとも本領の?」
宮の言葉は民の言葉とはちょいちょい違う。 マツリ付の官吏となって宮に入った時には何度か訊き返したりしたものだった。
「・・・紫に」
そう言っただけでマツリの口が止まった。
聞こえるのは、もうそろそろ終わるであろう蛙の鳴き声。 隣りの部屋にいる紫揺はもう寝たのであろう、物音ひとつ聞こえてこない。
マツリが一度置いた酒杯に再び手を伸ばす。 だがそのまま止まっている。
暫く経ってようやく口を開いた。
「紫に・・・ずっと付いてくれるか」
どういう意味だ。
「紫の兄として、いてくれるか」
「はい」
己が投げかけた疑問に対してどうしてそんな話になるのだろうか。
「我は杠の弟にはならんが」
「当たり前です」
杠が少し減っているマツリの酒杯に酒を継ぎ足し己の酒杯にも注ぐ。
ふぅーっと大きく息を吐いたマツリが酒杯を口にする。
「紫は・・・どこの領土にも・・・どこの領土でも産まれておらん」
マツリが驚くことも出来ないような話をしだした。
出来ることなら雨がしんしんと降っていて欲しかった。 雨の音を聞けば少しは心が落ち着けたかもしれない。
先代紫? 襲われた? 洞? にほん? いったいなんだ。
蛙の鳴き声が棘のように頭に刺さる。 頭の中で鐘楼が鳴り響いている。 さかむけが引っ張られるような、意味が分からない言葉の羅列。
長い長い時が過ぎたようだった。
「納得出来まいがな」
「・・・では、その、にほんという所の言葉だと・・・」
「ああ。 一度開き直ってにほんの言葉で話された。 全てというわけではないが、分からなかったわ」
「その東の領土の、にほんという所を知っている者たちは分かるのですか?」
「通事をしてもらっておるようだ。 紫自身、まだこちらの言葉が分からないところがあるようでな」
そう言われれば、明時や払暁といった言葉を知らなかったか。 と思う杠だが、その言葉は紫揺が知らないだけで、現代の日本にもある言葉である。
そして紫揺が父御、母御、祖父御、祖母御を連れてきたかったという言葉の意味がようやく分かった。
「あれは・・・紫は、人知れず寂しい思いをしておる」
ある日突然、純粋な日本人では無いと聞かされた。 知らない所に来た。 そして言葉の壁。
「・・・己が知ったことを、紫揺にはいかがいたしましょうか」
「言うも言わぬも杠の判断に任せる。 我からは言わん」
「承知いたしました」
己と紫揺の間のことは己に任せてくれたということ。 その想い、大切にしたい。
朝餉の席でマツリにとって驚くことを目の前に座る紫揺が言った。
はっ!? と言ったのはマツリ。
何故だか、マツリと杠が対面の椅子に座ると紫揺が杠の隣に座った。
「だから、夕べよくよく考えたから。 もう長く居たから東の領土に帰る」
「き、昨日、我が戻ってきたところではないか!」
「今日で・・・八日でしょ、たしかそれくらい。 あんまり東の領土を空けたくない」
「わ! 我を置いていくというのかぁ!」
まるで三下り半を渡された男ではないか。 マツリ曰くのイタイ兄の杠が眉をピクつかせる。
「マツリ様・・・民の目が御座います」
誰もがマツリの声にギョッとしてこちらを見ている。
「落ち着かれませ」
「杠はずっと紫と一緒に居ったから、そういうことを言えるのだ!」
「声をお下げください」
そう言うと隣に座る紫揺を見る。
「まだ傷が治っていないだろう。 そんな手で宮に戻ると六都武官長の面子を潰すことになる」
左の掌を見るがそこにはまだ晒が巻かれている。 でも紫揺にすれば面子より東の領土の方が心配である。
「でも何かあったら」
「秋我殿に頼んできたのだろう?」
何かあったらすぐに秋我が宮にやってくると話していた。
「早馬もなにも来ていない。 な? 傷が治るまであと少し、マツリ様とご一緒に居ればどうだ? ああ、そうだ。 紫揺は知らないが紫揺に夜襲があった」
「へ?」
「杠!」
一度マツリの顔を見ると紫揺に戻す。
「それを押さえて下さった好々爺がいらっしゃる」
「好々爺?」
ゆっくりと杠が頷く。
「ほら、学び舎で会った」
「雲海師?」
「そうだ。 地下の報告の時、百足の話があっただろう?」
地下と百足という所は殆ど口パクである。
紫揺が頷く。
「あ・・・もしかして」
「そう、今は動いておられんがな」
マツリの知らない話を二人でしてくれている。 それも目の前で。 杠が穏やかに話し、なんだか従順に・・・いや、小動物のように目をクリクリさせながら紫揺がそれに応えている。 ましてや互いに見つめ合って。 ・・・隣り合って。
(杠めっ)
白飯を口にかっこんだ。
「マツリ様が礼に行かれるが、一緒に行かないか?」
「うん、行く」
自分が迷惑をかけたのだから。
(どっちを向いておる。 こちらを向いて言わんか)
思った途端、茶碗を落としそうになって慌てた。 焼いた川魚に箸を伸ばす。
「だが一つ」
杠が人差し指をたてる。
「なに?」
「百足のことは紫揺も己も知らん。 分かるな?」
(分かるわけがなかろう。 あ、ぐふ)
川魚の骨がのどに引っかかった。
今回も百足という所は口パクだ。
杠が何を言おうとしているのか分かった。
「分かった」
(わ・・・分かったのか?)
涙目でおえおえとしながら茶で骨を流している。
何やら一人で遊んでいるマツリを杠が一瞥(いちべつ)し紫揺に言葉を継ぐ。 それを聞いた紫揺の返事。
「え? ・・・嫌なんだけど?」
「マツリ様が戻って来られた。 そういうわけにはいかない」
朝餉を済ませ武官所で薬草を塗り直してもらうと、まだまだ紫揺と話したそうにしていた武官を完全にスルーして紫揺を拾い上げ、マツリと共に六都の市に放り投げた。
紫揺がブツブツ言う中、なんとか一着が決まりその後、杠が用意していた酒を片手にマツリと紫揺が宿を出た。 殆ど杠に蹴り飛ばされながら。
慣れない衣を触りながら紫揺が口を開く。
「杠がね、大丈夫だって」
唐突に耳に入ってきた声。 何のことだか分からない。
「何のことだ」
「杠のお父さんとお母さんの事」
そんな話をしたのか。
お父さん、お母さん、そんな言葉は本領にない。 だが意味は分かる。 民の言うおっ父や、おっ母、幼子の言うおととや、おかかと同じであろうと。
「有難う」
どういう意味だ。
「何が」
「杠に言ってくれたんだってね、私は乗り越えたって。 だから、杠も乗り越えてくれって。 マツリからの頼みだって」
「・・・杠が言ったか」
この二人は・・・。
「うん。 杠が大丈夫って言ってくれて・・・。 嬉しかった」
「そうか」
「・・・私は、私には・・・」
紫揺の口が閉じられた。
紫揺の口が開くまで待つ。 歩は進めるが。
「私は・・・マツリが聞いてくれた。 分かってくれた」
思いもしなかったことを言われた。 紫揺は・・・分かっていたのか。 泣いて泣いて泣き疲れて寝てしまったのに。
「ずっと一人で泣いてた。 でも、マツリが聞いてくれた」
・・・ずっと一人で。
「もっと早く紫の心に添えばよかった」
紫揺が首を振る。
「充分」
「悪かった」
「そんなことない。 絶対ないから」
「・・・そうか」
マツリの顔をチラッと見ると前だけを向いていた。 杠ならきっとこっちを向いていただろう。 そして頭を撫でてくれただろう。
「杠がね、まだ苦しんでいるんだったら、マツリが私にしてくれたみたいにしようと思ってた」
「は!?」
マツリの足が止まる。
「同じことは出来ないけど、それでも私なりにしようと思ってた」
紫揺が顔を上げてマツリを見る。 マツリも紫揺を見ている。
「あれ、すごく安心できた。 何もかも流せた。 マツリみたいに抱き上げることは出来ないけど、杠に低くなてもらったら、杠の頭を抱きしめることは出来るから」
「はぁー!?」
「そしたら一人じゃないって思えるから」
「・・・そんな事をっ! そんな事をしたなら!! ・・・」
「ん? なに?」
許さん! と言いたかった。
だが・・・。
「・・・必要であれば我がする」
「は・・・?」
マツリが杠の頭を抱く・・・。
紫揺がドン引いた。