- 国津道(くにつみち)- 第2回
気を失ったまま救急車で病院まで運ばれた詩甫だったが、どこにも異常がみられず家に帰された。
「ほら祐樹、何でもないって言ったでしょ?」
「・・・」
「祐樹?」
祐樹は見ていた。 どこか詩甫ではない声で、詩甫の知らないはずの救急隊員と話していたところを。
「・・・姉、ちゃん?」
「ん? なに?」
「あ、うん・・・何でもない」
祐樹の態度に何かあるとは思ったが、実家に帰さなくてはならない。 今日は休みの前日ではない。 そんな時にどうして祐樹が来たのか疑問が残るが、きっと心配して来てくれたのだろう。
「遅くなっちゃったね、今からじゃ夕飯も作れないわ。 ね、久しぶりに外食しようか。 お母さんには遅くなるって連絡入れてるから」
今日は母親にここに来るとは言っていなかったと聞いた。 それに明日も学校がある。
「うん・・・」
駅近くのカレー屋に入って遅くなった夕飯を終わらせると、詩甫に見送られ電車に乗り、家に帰ると母親に迎えられた。
「お帰り、遅かったわね。 宿題はどうするの?」
母親の小言がないということは、電車に乗っている間に詩甫がもう一度電話を入れてくれたのだろう。
自分が聞かなければならなかった小言をきっと詩甫が代わりに聞いてくれたのだろう。
「これからする」
詩甫は自分が救急車で運ばれたなどとは母親に言っていないはず。 だからと言って何かおかしいとは思わないのか。 姉の心配をしないのか、姉が、詩甫が咳で苦しんでいるのを知らないのか、知ろうとしないのか。
憤りを感じながらそれを抑える。
きっとそれが詩甫の望むところなのだから。
「お風呂は?」
母親の問いかけに応えず父親のことを問いかけた。
「お父さんは?」
「まだ帰っていないわ」
こんな時間になっても父親は帰っていないのか。 残業とやらなのだろうか。 詩甫も時々言っている。
「じゃ、お風呂に入ってから宿題を済ませる」
「そう、あとでちゃんと宿題をするのよ」
ちゃぷんと風呂に浸かる。 数刻前に耳にしたこと、目にしたことを思い出す。
「あれは・・・姉ちゃんじゃなかった」
だが姉の姿だった。 でも仕草も言葉も・・・声もどこか違っていた。
「あかは姫・・・」
それにあの救急隊員は誰なんだろう。 救急隊員は朱葉姫のことを知っていた。 それに・・・瀞謝とも言っていた。 宿る、とも。 何のことなのだろう。
だが小学校四年生には、あの状況ではあったことを記憶していることしか出来ない。 分からないことだらけなのだから、先をどう考えるかなど出来ない。
「・・・姉ちゃん」
ただただ、詩甫の心配しかなかった。
「オレに出来ること・・・」
それはなんだろうか。
自分に出来ること、自分が小学生で大人でないことは分かっている。 だから大人ほど何も出来ないことも分かっている。 大人ほどにお金も持っていない。 でも姉のことは誰よりも想っている。 姉の母である自分の母親以上に。
ザバンと湯船から立ち上がると風呂から上がり、パジャマを身に付けるとリビングに居た母親の前に立った。
「どうしたの? 早く宿題をしなきゃ」
「オレ、明日から姉ちゃんの所に泊まる」
「なに? どういうこと? 明日泊まるっていうの?」
「明日だけじゃなくて、明日からずっと姉ちゃんのところから学校に行って、姉ちゃんの所に帰る」
「・・・な! 何を言うの?!」
「ちゃんと宿題もするから心配しないで」
「そんなことはお父さんにちゃんと訊かなくちゃ!」
「うん、言う。 これから宿題するから、お父さんが帰ったらオレから言う」
父親が了解すればいいのか。 母親は姉のこともオレのことも二の次か。 何となく詩甫の気持ちが分かるような気がする。
(姉ちゃんはこの家でずっと悲しい顔をしてた。 オレが居るのに・・・)
夜遅く帰って来た父親は簡単に了解をした。 妻の連れ子と我が子が仲良くしてくれることに賛成だと言って。 その上、詩甫の住むコーポからの電車の定期を明日買ってきてくれるとまで言ってくれた。
そこは計算外だった。 いや、切符代の計算さえしていなかった。
父親に感謝をして、翌日行くことは叶わなかったが、翌々日、学校から帰ると教科書から体操服から何もかもをランドセルと両手の鞄に入れて、定期を手に詩甫の住むコーポに足を運んだ。
「祐樹が来てくれたおかげかな?」
最初は祐樹が荷物をまとめて来たのには驚いた詩甫だったが、咳が止まっていた。
「え? なに?」
「うんとね、今更なんだけどずっと夜になると咳が出てたの。 祐樹には何でもないって言ってたけど、結構苦しくってね。 でも祐樹が来てくれてから咳が出なくなったの。 きっと祐樹のお蔭よ、ありがと」
『瀞謝は簡単にわたくしを宿らせないような。 このままではまたすぐに気を取り戻して咳でわたくしを拒もう。 その前にわたくしは去ぬる』
あの時、姉の顔をしてどこか違う声で言っていた。
詩甫の咳は “わたくし” という誰かを追い出そうと・・・宿らせないようにしていたということ。
そしてその “わたくし” が諦めたということ。 決して祐樹のお蔭ではない。 その事を祐樹は知っている。
「何言ってんの、姉ちゃんも言ってたじゃん、季節のものだって」
「う、ん・・・。 そうなんだけどね・・・」
祐樹には目の前で見た聞いたことがある。 でも詩甫は何も分かっていない。 だが何かが・・・何かが違うと無意識に感じていた。
(姉ちゃんの様子がおかしい・・・)
「ん? なに? 姉ちゃん、どうしたの?」
(今何を考えてるの・・・)
こうして祐樹と話していると思い出したことがある。
(あの時・・・何か懐かしい香りを感じたような・・・)
だがきっと気のせいだろう。 いつもの自分の部屋なのだし、あれほど苦しい中で香りなどとあったものではない。
「あ、何でもない。 今日の宿題ちゃんとした?」
母親から預かっている義弟だ。 ちゃんと宿題管理をしなくては。
「姉ちゃんが帰って来る前に終わらせた」
(気のせいだったのかな・・・、それともオレには言ってもらえないのかな・・・)
「授業で分からない所はない? あったら教えるよ?」
まだ小学校の世界だ。 高卒であっても充分に教えられる。
「全然ないよ、授業さえ聞いてれば全部わかるし」
(姉ちゃん・・・もしかしてあの救急車の人のことを考えてるの?)
どうしてだろう、急にあの救急隊員が、いつ詩甫の前に現れるかもしれないという不安にかられる。
「そっか、祐樹、頭良いのね」
「姉ちゃんの弟だもん」
救急隊員としてではなく、もし一個人として来るのであれば、それは祐樹が学校に行っている間かもしれない、詩甫の会社を訪ねるかもしれない。
「姉ちゃん・・・救急車の時のこと覚えてる?」
「あ、うん。 祐樹に迷惑かけちゃったね」
「迷惑なんてないよ。 そうじゃなくて、ここに来た救急車の人のこと・・・三人いたけど誰か知ってる人が居た?」
「え? 三人もいたんだ。 結構しんどかったからなぁ・・・、顔なんて覚えてないよ。 どうしたの?」
「うん、そっか、何でもない」
詩甫は何も知らないということなのだろうか。
それとも、あの時のことは夢だったのだろうか、詩甫を心配するあまりに、思い込んで自分で話を作ってしまったのだろうか。
いや、そんなことは無い。 あの時の詩甫は詩甫ではなかった。 あの救急隊員もおかしかった。
(そうだ、あの後の救急車の人の様子が違ってた。 “ぞうし” って呼ばれてたっけ)
『承知』 と言ったその後は別人のようだった。 まるで詩甫のように。
(姉ちゃん・・・)
姉の身に何が降りかかっているのだろうか・・・。
取り敢えず分かっているのは “ぞうし” という救急隊員のことと “あかは姫”。 自分にやれることをするしかない。 探しやすいワードは “あかは姫”。 “姫様” とも言っていた。 お姫様であればネットで調べればわかるだろう。 “ぞうし” については足を使って探す。
翌日、早めに学校に行くと、すぐさまパソコンルームに入った。 授業でなければ勝手に起動させては怒られるが今はまだ誰も居ない。
パソコンを起動させ “あかは姫” と入力しサーチする。
画面に出てきたのは、ワードに引っかかった数少ない情報だけであった。 ましてやヒット違いばかりのようだ。
「これだけかよ」
全てがヒット違いのようだったが、それでも『姫伝説』というタイトルが書かれたマシな情報をクリックしようとした時
「おーい、何してるぅ?」
ドアを開けて楽しそうな顔をした先生の声が聞こえた。 その楽しそうな顔の裏にこっぴどく怒られるのが透けて見えた。
祐樹と過ごす日々が続いた。 遅くなると言われていた梅雨も終わり、これから猛暑に向かって行くだろう。
「野崎さん?」
会社の帰り、駅に向かう途中で後ろから声をかけられた。
振り向くと知らない男性が立っている。 その目が詩甫を見ている。
「あ・・・えっと、どなたでしょうか?」
「覚えておられませんか? まぁ、そうですよね、あの状態でしたから」
「あの・・・」
あの状態とはどういうことだろうか。
引っ掛けられているのだろうか、もしそうなら今すぐに此処から立ち去りたい。
「あ、失礼いたしました。 数か月前に救急車で運ばれたでしょう? その時の救急隊員です。 その後お身体は大丈夫ですか?」
「え?」
「あ、すみません。 こういうことは控えなければいけないんですけど、弟さんがかなり心配をされていたようなので」
弟・・・祐樹のことを言っている。 それに救急車に運ばれた記憶もちゃんとある。
「あの時の救急隊員の方ですか? その・・・」
「ええ、咳は治まりましたか?」
間違いない。 あの時の救急隊員だろう。 祐樹は三人いたと言っていた。 その内の一人なのだろう。
「はい、あれからはありません。 お騒がせしちゃって」
「あはは、お騒がせなんてことはありません。 ですが自分で何ともないと思っていても、大変な影があることもありますので。 あ、失礼しました、野崎さんに何があると言っているのではありませんので、ご心配なく」
詩甫は検査結果を聞いている。 何も無いということだった。
「はい、なんとも無いと帰してもらいました」
「それは良かった。 弟さん・・・えっと祐樹君って言ってましたか、かなり心配していたようでしたので、こちらも他の隊員と気にしていたんです。 それにしてもこんな時間までお仕事ですか?」
詩甫は見るからにビジネススタイルをしている。
「あ、はい。 残業で遅くなっちゃって」
「たしか駅からあのコーポまでは暗い道がありますよね」
「ええ、でも慣れていますから」
「そんなことを言っていては可愛い弟さんが心配しますよ? 自分も今から出勤なんです。 ご一緒しても宜しいですか?」
出勤という名目をだして送ってくれようとしているのだろうか。 それとも本当にこんな時間から出勤なのだろうか。 救急隊員の出勤状況など詩甫には分からない。
だがどちらにしても断る理由が見当たらない。 コーポに近い救急車のある所から出動して来たのだろうから、少なくとも降りる駅は同じはず。 それにきっとコーポからそんなに離れている所ではないようだ。 救急隊員だけあって近場の道を熟知しているのだろう、暗い道があるのも知っているのだから。
「ご迷惑ですか?」
「あ、いいえ、そんな・・・」
「警戒されてるかな?」
ラフな格好をしている自分の姿を見るようにして「こんな格好だからかな」などと呟いている。
「そんなことは無いです。 あの、ではご一緒に」
「有難うございます」
「あ、いえ、こちらこそ」
「じゃ、行きましょうか。 ああ、自分・・・僕は浅香亨(あさがとおる)と言います。 お見知りおきを」
お見知りおきを、その言葉が何故か可笑しくてクスッと笑ってしまった。
浅香の話では、大学時代の友達の家からの帰りだということであった。 その友達は高校時代から付き合っていた彼女とようやく長い春に終止符を打ち結婚することとなったらしく、仲間内の祝いに駆け付けていたということであった。
浅香は気さくな性格のようで話していても気が楽だった。 駅までの道程の間も、電車の中でも色んな話を聞かせてくれた。 こちらのことを詮索されれば怪しんでしまっただろうが、そんなことは一切なかった。
「じゃ、あまりこんな時間まで残業なんてしない方がいいですよ」
結局コーポの前まで送ってもらった。
「お気遣いありがとうございました。 お休みなさ・・・あ、今からお仕事でしたね。 行ってらっしゃい」
「ははは、嬉しいな。 そんな言葉いつから聞いてないだろ。 じゃ、行ってきます。 お休みなさい」
そう言うと浅香が踵を返した。
少しの間だけ背中を見送り階段を上がる。 祐樹のように軽快ではないが。
鍵を開ける音を聞いて祐樹がすっ飛んできた。
「お帰り」
「起きてたの? 寝ててって言ったのに。 ご飯は?」
祐樹はまだスマホを持たせてもらっていない。 残業が決まった時に家電に連絡を入れていた。 そろそろ残業になるだろうと、おかずは冷蔵し炊飯ジャーにはタイマーをかけておいた。 おかずを温めて先に食べて寝ているようにと言っていたのに。
「ちゃんと食べたよ」
祐樹の生活時間を考えると、この時間には寝ていなくてはならない。 寝かせなくてはならない。 それなのに家に帰って来るとお帰りと言ってくれる声がある。 さっきの浅香の言葉ではないが、それが嬉しい。
「そっか。 ただいま。 遅くなってごめんね」
「え?」
祐樹はそんな言葉を父親から聞いたことはない。 父親が帰って来る時間には自分の部屋に居た。 父親を迎えるのは母親。 ただそれだけだった。
「ん? なに?」
「あ、何でもない」
ジワリと祐樹の心が温かくなってくる。
「眠たくない?」
「ないよ。 それより姉ちゃん、お腹が空いてるだろ? 着替えてきて。 おかず温めておくから」
キッチンに走り出した祐樹。 冷蔵庫にはもう食べてしまった祐樹のおかずと、まだ待機状態の詩甫のおかずがあった。
気を失ったまま救急車で病院まで運ばれた詩甫だったが、どこにも異常がみられず家に帰された。
「ほら祐樹、何でもないって言ったでしょ?」
「・・・」
「祐樹?」
祐樹は見ていた。 どこか詩甫ではない声で、詩甫の知らないはずの救急隊員と話していたところを。
「・・・姉、ちゃん?」
「ん? なに?」
「あ、うん・・・何でもない」
祐樹の態度に何かあるとは思ったが、実家に帰さなくてはならない。 今日は休みの前日ではない。 そんな時にどうして祐樹が来たのか疑問が残るが、きっと心配して来てくれたのだろう。
「遅くなっちゃったね、今からじゃ夕飯も作れないわ。 ね、久しぶりに外食しようか。 お母さんには遅くなるって連絡入れてるから」
今日は母親にここに来るとは言っていなかったと聞いた。 それに明日も学校がある。
「うん・・・」
駅近くのカレー屋に入って遅くなった夕飯を終わらせると、詩甫に見送られ電車に乗り、家に帰ると母親に迎えられた。
「お帰り、遅かったわね。 宿題はどうするの?」
母親の小言がないということは、電車に乗っている間に詩甫がもう一度電話を入れてくれたのだろう。
自分が聞かなければならなかった小言をきっと詩甫が代わりに聞いてくれたのだろう。
「これからする」
詩甫は自分が救急車で運ばれたなどとは母親に言っていないはず。 だからと言って何かおかしいとは思わないのか。 姉の心配をしないのか、姉が、詩甫が咳で苦しんでいるのを知らないのか、知ろうとしないのか。
憤りを感じながらそれを抑える。
きっとそれが詩甫の望むところなのだから。
「お風呂は?」
母親の問いかけに応えず父親のことを問いかけた。
「お父さんは?」
「まだ帰っていないわ」
こんな時間になっても父親は帰っていないのか。 残業とやらなのだろうか。 詩甫も時々言っている。
「じゃ、お風呂に入ってから宿題を済ませる」
「そう、あとでちゃんと宿題をするのよ」
ちゃぷんと風呂に浸かる。 数刻前に耳にしたこと、目にしたことを思い出す。
「あれは・・・姉ちゃんじゃなかった」
だが姉の姿だった。 でも仕草も言葉も・・・声もどこか違っていた。
「あかは姫・・・」
それにあの救急隊員は誰なんだろう。 救急隊員は朱葉姫のことを知っていた。 それに・・・瀞謝とも言っていた。 宿る、とも。 何のことなのだろう。
だが小学校四年生には、あの状況ではあったことを記憶していることしか出来ない。 分からないことだらけなのだから、先をどう考えるかなど出来ない。
「・・・姉ちゃん」
ただただ、詩甫の心配しかなかった。
「オレに出来ること・・・」
それはなんだろうか。
自分に出来ること、自分が小学生で大人でないことは分かっている。 だから大人ほど何も出来ないことも分かっている。 大人ほどにお金も持っていない。 でも姉のことは誰よりも想っている。 姉の母である自分の母親以上に。
ザバンと湯船から立ち上がると風呂から上がり、パジャマを身に付けるとリビングに居た母親の前に立った。
「どうしたの? 早く宿題をしなきゃ」
「オレ、明日から姉ちゃんの所に泊まる」
「なに? どういうこと? 明日泊まるっていうの?」
「明日だけじゃなくて、明日からずっと姉ちゃんのところから学校に行って、姉ちゃんの所に帰る」
「・・・な! 何を言うの?!」
「ちゃんと宿題もするから心配しないで」
「そんなことはお父さんにちゃんと訊かなくちゃ!」
「うん、言う。 これから宿題するから、お父さんが帰ったらオレから言う」
父親が了解すればいいのか。 母親は姉のこともオレのことも二の次か。 何となく詩甫の気持ちが分かるような気がする。
(姉ちゃんはこの家でずっと悲しい顔をしてた。 オレが居るのに・・・)
夜遅く帰って来た父親は簡単に了解をした。 妻の連れ子と我が子が仲良くしてくれることに賛成だと言って。 その上、詩甫の住むコーポからの電車の定期を明日買ってきてくれるとまで言ってくれた。
そこは計算外だった。 いや、切符代の計算さえしていなかった。
父親に感謝をして、翌日行くことは叶わなかったが、翌々日、学校から帰ると教科書から体操服から何もかもをランドセルと両手の鞄に入れて、定期を手に詩甫の住むコーポに足を運んだ。
「祐樹が来てくれたおかげかな?」
最初は祐樹が荷物をまとめて来たのには驚いた詩甫だったが、咳が止まっていた。
「え? なに?」
「うんとね、今更なんだけどずっと夜になると咳が出てたの。 祐樹には何でもないって言ってたけど、結構苦しくってね。 でも祐樹が来てくれてから咳が出なくなったの。 きっと祐樹のお蔭よ、ありがと」
『瀞謝は簡単にわたくしを宿らせないような。 このままではまたすぐに気を取り戻して咳でわたくしを拒もう。 その前にわたくしは去ぬる』
あの時、姉の顔をしてどこか違う声で言っていた。
詩甫の咳は “わたくし” という誰かを追い出そうと・・・宿らせないようにしていたということ。
そしてその “わたくし” が諦めたということ。 決して祐樹のお蔭ではない。 その事を祐樹は知っている。
「何言ってんの、姉ちゃんも言ってたじゃん、季節のものだって」
「う、ん・・・。 そうなんだけどね・・・」
祐樹には目の前で見た聞いたことがある。 でも詩甫は何も分かっていない。 だが何かが・・・何かが違うと無意識に感じていた。
(姉ちゃんの様子がおかしい・・・)
「ん? なに? 姉ちゃん、どうしたの?」
(今何を考えてるの・・・)
こうして祐樹と話していると思い出したことがある。
(あの時・・・何か懐かしい香りを感じたような・・・)
だがきっと気のせいだろう。 いつもの自分の部屋なのだし、あれほど苦しい中で香りなどとあったものではない。
「あ、何でもない。 今日の宿題ちゃんとした?」
母親から預かっている義弟だ。 ちゃんと宿題管理をしなくては。
「姉ちゃんが帰って来る前に終わらせた」
(気のせいだったのかな・・・、それともオレには言ってもらえないのかな・・・)
「授業で分からない所はない? あったら教えるよ?」
まだ小学校の世界だ。 高卒であっても充分に教えられる。
「全然ないよ、授業さえ聞いてれば全部わかるし」
(姉ちゃん・・・もしかしてあの救急車の人のことを考えてるの?)
どうしてだろう、急にあの救急隊員が、いつ詩甫の前に現れるかもしれないという不安にかられる。
「そっか、祐樹、頭良いのね」
「姉ちゃんの弟だもん」
救急隊員としてではなく、もし一個人として来るのであれば、それは祐樹が学校に行っている間かもしれない、詩甫の会社を訪ねるかもしれない。
「姉ちゃん・・・救急車の時のこと覚えてる?」
「あ、うん。 祐樹に迷惑かけちゃったね」
「迷惑なんてないよ。 そうじゃなくて、ここに来た救急車の人のこと・・・三人いたけど誰か知ってる人が居た?」
「え? 三人もいたんだ。 結構しんどかったからなぁ・・・、顔なんて覚えてないよ。 どうしたの?」
「うん、そっか、何でもない」
詩甫は何も知らないということなのだろうか。
それとも、あの時のことは夢だったのだろうか、詩甫を心配するあまりに、思い込んで自分で話を作ってしまったのだろうか。
いや、そんなことは無い。 あの時の詩甫は詩甫ではなかった。 あの救急隊員もおかしかった。
(そうだ、あの後の救急車の人の様子が違ってた。 “ぞうし” って呼ばれてたっけ)
『承知』 と言ったその後は別人のようだった。 まるで詩甫のように。
(姉ちゃん・・・)
姉の身に何が降りかかっているのだろうか・・・。
取り敢えず分かっているのは “ぞうし” という救急隊員のことと “あかは姫”。 自分にやれることをするしかない。 探しやすいワードは “あかは姫”。 “姫様” とも言っていた。 お姫様であればネットで調べればわかるだろう。 “ぞうし” については足を使って探す。
翌日、早めに学校に行くと、すぐさまパソコンルームに入った。 授業でなければ勝手に起動させては怒られるが今はまだ誰も居ない。
パソコンを起動させ “あかは姫” と入力しサーチする。
画面に出てきたのは、ワードに引っかかった数少ない情報だけであった。 ましてやヒット違いばかりのようだ。
「これだけかよ」
全てがヒット違いのようだったが、それでも『姫伝説』というタイトルが書かれたマシな情報をクリックしようとした時
「おーい、何してるぅ?」
ドアを開けて楽しそうな顔をした先生の声が聞こえた。 その楽しそうな顔の裏にこっぴどく怒られるのが透けて見えた。
祐樹と過ごす日々が続いた。 遅くなると言われていた梅雨も終わり、これから猛暑に向かって行くだろう。
「野崎さん?」
会社の帰り、駅に向かう途中で後ろから声をかけられた。
振り向くと知らない男性が立っている。 その目が詩甫を見ている。
「あ・・・えっと、どなたでしょうか?」
「覚えておられませんか? まぁ、そうですよね、あの状態でしたから」
「あの・・・」
あの状態とはどういうことだろうか。
引っ掛けられているのだろうか、もしそうなら今すぐに此処から立ち去りたい。
「あ、失礼いたしました。 数か月前に救急車で運ばれたでしょう? その時の救急隊員です。 その後お身体は大丈夫ですか?」
「え?」
「あ、すみません。 こういうことは控えなければいけないんですけど、弟さんがかなり心配をされていたようなので」
弟・・・祐樹のことを言っている。 それに救急車に運ばれた記憶もちゃんとある。
「あの時の救急隊員の方ですか? その・・・」
「ええ、咳は治まりましたか?」
間違いない。 あの時の救急隊員だろう。 祐樹は三人いたと言っていた。 その内の一人なのだろう。
「はい、あれからはありません。 お騒がせしちゃって」
「あはは、お騒がせなんてことはありません。 ですが自分で何ともないと思っていても、大変な影があることもありますので。 あ、失礼しました、野崎さんに何があると言っているのではありませんので、ご心配なく」
詩甫は検査結果を聞いている。 何も無いということだった。
「はい、なんとも無いと帰してもらいました」
「それは良かった。 弟さん・・・えっと祐樹君って言ってましたか、かなり心配していたようでしたので、こちらも他の隊員と気にしていたんです。 それにしてもこんな時間までお仕事ですか?」
詩甫は見るからにビジネススタイルをしている。
「あ、はい。 残業で遅くなっちゃって」
「たしか駅からあのコーポまでは暗い道がありますよね」
「ええ、でも慣れていますから」
「そんなことを言っていては可愛い弟さんが心配しますよ? 自分も今から出勤なんです。 ご一緒しても宜しいですか?」
出勤という名目をだして送ってくれようとしているのだろうか。 それとも本当にこんな時間から出勤なのだろうか。 救急隊員の出勤状況など詩甫には分からない。
だがどちらにしても断る理由が見当たらない。 コーポに近い救急車のある所から出動して来たのだろうから、少なくとも降りる駅は同じはず。 それにきっとコーポからそんなに離れている所ではないようだ。 救急隊員だけあって近場の道を熟知しているのだろう、暗い道があるのも知っているのだから。
「ご迷惑ですか?」
「あ、いいえ、そんな・・・」
「警戒されてるかな?」
ラフな格好をしている自分の姿を見るようにして「こんな格好だからかな」などと呟いている。
「そんなことは無いです。 あの、ではご一緒に」
「有難うございます」
「あ、いえ、こちらこそ」
「じゃ、行きましょうか。 ああ、自分・・・僕は浅香亨(あさがとおる)と言います。 お見知りおきを」
お見知りおきを、その言葉が何故か可笑しくてクスッと笑ってしまった。
浅香の話では、大学時代の友達の家からの帰りだということであった。 その友達は高校時代から付き合っていた彼女とようやく長い春に終止符を打ち結婚することとなったらしく、仲間内の祝いに駆け付けていたということであった。
浅香は気さくな性格のようで話していても気が楽だった。 駅までの道程の間も、電車の中でも色んな話を聞かせてくれた。 こちらのことを詮索されれば怪しんでしまっただろうが、そんなことは一切なかった。
「じゃ、あまりこんな時間まで残業なんてしない方がいいですよ」
結局コーポの前まで送ってもらった。
「お気遣いありがとうございました。 お休みなさ・・・あ、今からお仕事でしたね。 行ってらっしゃい」
「ははは、嬉しいな。 そんな言葉いつから聞いてないだろ。 じゃ、行ってきます。 お休みなさい」
そう言うと浅香が踵を返した。
少しの間だけ背中を見送り階段を上がる。 祐樹のように軽快ではないが。
鍵を開ける音を聞いて祐樹がすっ飛んできた。
「お帰り」
「起きてたの? 寝ててって言ったのに。 ご飯は?」
祐樹はまだスマホを持たせてもらっていない。 残業が決まった時に家電に連絡を入れていた。 そろそろ残業になるだろうと、おかずは冷蔵し炊飯ジャーにはタイマーをかけておいた。 おかずを温めて先に食べて寝ているようにと言っていたのに。
「ちゃんと食べたよ」
祐樹の生活時間を考えると、この時間には寝ていなくてはならない。 寝かせなくてはならない。 それなのに家に帰って来るとお帰りと言ってくれる声がある。 さっきの浅香の言葉ではないが、それが嬉しい。
「そっか。 ただいま。 遅くなってごめんね」
「え?」
祐樹はそんな言葉を父親から聞いたことはない。 父親が帰って来る時間には自分の部屋に居た。 父親を迎えるのは母親。 ただそれだけだった。
「ん? なに?」
「あ、何でもない」
ジワリと祐樹の心が温かくなってくる。
「眠たくない?」
「ないよ。 それより姉ちゃん、お腹が空いてるだろ? 着替えてきて。 おかず温めておくから」
キッチンに走り出した祐樹。 冷蔵庫にはもう食べてしまった祐樹のおかずと、まだ待機状態の詩甫のおかずがあった。