孤火の森(こびのもり) 第3回
「ブブが堪(こら)えたんだ、短気を起こすんじゃない、応えてやりな」
「・・・分かってるよ」
不貞腐れた顔でポポが答える。
この時のことはここで終わりにすればいいのだろうが、市に座ってまだ間がない。 まだまだここに座って薬草を売らなければいけない。 そうなると再び州兵に問われるかもしれない。
「兵が森って言ってたけど? 何か心当たりがあるかい?」
「・・・無くは、ない」
でもそれは一年も前の事。 最初に顔を見られたかもしれない。 それにブブが何度か振り返ってはいた。 その時に顔を見られたのだろうか。 でも、それでも一年以上前だ。 未だにそのことを根に持っているというのだろうか。
それにしても・・・ヤマネコがこうして訊いてくるということは、お頭も若頭もあの時のことを仲間たちに言っていなかったのか。
ポポが一年前のことをポツポツと話しだすと、ヤマネコが腕を組んでポポを見下ろした。
「お頭から散々言われていたのに森に行ったのかい」
口を歪めたポポがゆっくりと頷く。
どうして一年も経ってからまた同じことを言われなくてはならないのか。
「最後に行ったのは一年も前だ。 お頭にも若頭にも怒られた。 だからもう行ってない」
「当たり前だ」
ポポの言いようにヤマネコがすぐに答えた。
ポポが顔を上げる。 お頭にも若頭にも何度も訊いたが答えてもらえなかったことを、ヤマネコなら教えてくれるかもしれない。
「ね、どうして森に行っちゃいけないんだ?」
ヤマネコが眉根を寄せながらも答える。
「森の民は森に住む、山の民は山に住む、海の民は海に住む、川の民は川に住む、街の民は街に住む」
「・・・そんなこと分かってるよ。 でも森は山の中にあるじゃないか、だったら見に行くくらいいじゃないか」
ヤマネコが組んでいた腕を解いてポポの背に合わせるようにして腰を折った。
「民は混ざり合っちゃあいけないんだ」
混ざり合う。 それは他の民と徒党を組んではいけないということ。
「それは知ってるよ、でも見に行くだけだろ? それくらいいいだろ?」
混ざり合ってはいけない、だからお頭も山の民以外の子供を拾わないし仲間にも入れない。 山の民は他の民と違って黒い髪の毛をしている。 それが目印だが、州を跨いであちこちから寄せ集まっている街の民は色んな髪の色をしている。 その中には黒い髪をしている街の民もいる。 そこはお頭の鼻で利き分けているが、まず街の民が山の中をウロウロしていることなどない。
ヤマネコが首を振りながら頭を垂れた。
「ポポ」
「なんだよ」
一つ二つ呼吸をしてからヤマネコが顔を上げる。
「森の民だけはいけない」
「だけ?」
「ああ、海の民でも川の民でも、この街の民でもいい。 ポポが一緒に居たいと思ったのならお頭も許してくれるだろう。 だが森の民だけは駄目だ」
連れ合いが出来ればどちらかの連れ合いの群れに入ればいい。 その時には他の民だからと言って入れてもらえないことは無い。 そこのところには大きく口が開かれている。 そうしたところも暗黙の決まり事であるが、自分の居た群れとの縁が切られてしまうのは痛いところである。
「一緒に居たいって?」
ブブ以外の誰と一緒に居たいと思うのかと言いたいのだろう。
「ああそうか、まだポポには早いか」
「なんだよ。 それにどうして森の民だけは駄目なんだ?」
答えるには話しが複雑になる。 山に帰ってから話してやる、今はそう言ってしまえばいいのだろうがポポは納得をしないだろう。 癇癪(かんしゃく)を起してしまうかもしれない。 そうなれば州兵に目を付けられてしまう。
「森の民は・・・特別って言っていいのかねぇ、あたしらには分からないことが多すぎるんだよ。 簡単に言っちまうとあたしらとは違う。 州兵じゃないけどね、関わってしまうと・・・なんて言ったらいいのかね、不思議世界って言えばいいのかね」
「不思議世界?」
「あたしもよくは知らないんだけどね、そんな風に言われてるよ。 考えてみな、州兵が何を考えてこれだけ市を歩きまわっているか、あたしらはそんなことを知らない。 でも州兵の姿を見ることは出来るし話すこともできる。 あくどいことを考えてるんだろうと想像さえ出来る。 だけどね、森の民はその姿を見ることも何を考えているのかも森の民以外は分からないらしい」
「え? 姿を見るのも出来ない?」
そんな筈はない、ポポもブブも遠目ではあったが森の民を見た。
「普通にしている分には見えるらしいがね」
「どういうこと?」
「姿を消せるらしい」
「え・・・」
「だから下手に関わると何が起きるか分からないってことだよ。 森の中に入っちまっちゃあ右も左も分からなくなる」
「方向が分からなくなるってことか?」
子供だと言ってもポポとて山の民である。 方向の大切さはよくよく分かっている。
「方向が分からなくなる以前の話だ、森の民に幻覚を見せられるらしい。 森から出られなくなってそこでこと切れる。 森の民がどうしてそんなことをするのかは分からない。 何を考えているかは森の民しか知らないってことだ」
「・・・」
「分ったかい、もう森になんか行くんじゃないよ」
ポポとブブの居る部屋の中で松明に照らされた二つの影が揺れている。 いつもならその影はくっついて一つに見えるのに今日は二つに分かれている。
「・・・ポポ、その、今日は悪かった」
膝を抱え顔を埋めていたブブが口を開いた。
市からの帰りにヤマネコに色々聞かされたことがあったのもあるが、自分が悪いことをしたという自覚もあった。
「謝ることなんてない。 ブブはよく我慢した。 それなのにオレがブブの気持ちを考えないで声かけたから・・・オレの方こそ悪かった」
ポポの返事にブブが首を振る。
「悔しくて八つ当たりをしただけだ・・・。 ポポの方こそ謝ることなんてない」
「・・・そっか」
これ以上言っても終わることは無いだろう。 目先を変えよう。
「じゃ、オレもブブも謝らない。 な、今日ヤマネコから聞いたんだ」
「なにを?」
ポポの考えを理解したブブが膝頭から顔を上げる。
「森の民のこと」
「森の民のこと?」
「え? それじゃあ、森の民のことをポポに言ったのか?」
「ああ。 あの二人、森に行ったんだってね、聞いてたんだろ?」
「まぁ、そうだが・・・」
「あれ? 森の民のことを話しちゃいけなかったかね」
今日の市であった騒ぎの報告に、ヤマネコがお頭の部屋で事の顛末を話し終えようとしていた時だった。
「いや、いけねーってわけじゃあ・・・」
お頭が腕を組む。
「なにかい? お頭は何か理由があって、あの二人に森の民のことを話さないでいたのかい?」
「・・・まぁ、な」
「なんだい、はっきりしないね。 だけどあの二人は森に行ったんだろう? どんな理由があろうと二度と森に行かすわけにはいかないだろう」
「それはそうなんだけどな」
「だったら、聞かしておく方が良いと思うがね」
「まぁ、そうさな・・・。 で? ブブの方はどうだ?」
聞いてしまったのなら仕方がない、今更聞かなかったことになど出来ない。 それより二人のことだ。
「今頃ポポと謝り合いでもしてるんじゃないかね」
「そうかい」
お頭が腕を解くと、乾燥させ粉末にした葉を煙管に詰めながら州兵の様子を訊いた。
「ああ、いったい何を考えているんだか、帰りにもあちこちで見かけたよ」
だがあの一件以外にポポもブブも目を付けられることは無かったと続けて話した。
「州兵がどうしてあれだけウロウロしてるのか、お頭は知ってるのかい?」
手元の小さな火から煙管に火を移すと肺の奥まで煙を吸い、次に口からも鼻からも白い煙を勢いよく吐き出す。
「・・・見当はついてる」
だがそれをヤマネコに話すことは無かった。
「え? 森の民ってそんな?」
ポポから森の民の話を聞いたブブが大きく目を見開いた。
ブブから大きな目で見られたポポが神妙な顔をして頷く。
「じゃ・・・今まで森の民に会わなかったことが・・・」
もう一度ポポが頷く。
「森を見ただけで、森の民に会わずに帰ったことが良かったってことだろうな」
もし森に行った時、森の民と目が合っていればどうなっていたか分からない。
「でもどうして森の民はそんなことをするんだろう」
「ヤマネコが知らないって言ってたんだから、誰も知らないんじゃないか?」
ブブが顔を俯けて考える様子を見せる。
元の元気なブブに戻って欲しい。 ポポが悪戯な目をしてブブを見ながら言う。
「探りに行くか?」
森の民の元に。
すぐに返事はなかった。
「ブブ?」
二呼吸ほどおいてブブが首を振る。
「いや、やめておこう」
「え? なんで?」
「市の行きもそうだったけど、市の中にも帰りにも州兵を見ただろ」
尋常ではない人数を。
「そりゃそうだけど森は山の中だろう。 州兵は関係ないだろ? な、行こうぜ」
一年前のように目を輝かせて前屈みになってブブを見る。
一年前のブブなら同じ目をしてポポの話に乗っただろう。 だがもう一度ブブが首を振る。
「万が一があるよ。 あの森、州兵が居た森があるだろ、あの森みたいに次にどこかの森を州兵が狙ってたら、遠巻きに森を見てるはずだ」
森に行った時にはそんなこととは知らなかった。
「その時はまた石灰弾を投げるさ」
その時に孤火が居てくれると楽だな、そう言いながら頭の後ろで手を組んだが、その姿を見てもブブがまた首を振る。
「お頭やヤマネコ・・・それに他の山の民に迷惑がかかるような事をしちゃいけない」
「え? なに言ってんだよ、オレとブブがそんなドジを踏むわけないじゃないか」
「ドジは踏まないよ、でも駄目だ」
「ブブ・・・」
ポポの頭の後ろで組まれていた手が下がる。
「一人で行くなんてことはしないでくれよな」
ポポが何を考えているか、それは誰よりブブが分かっている。
唇を噛んだポポ。 だがそれ以上ブブに何かを言うことは無かった。 市であったこと、それは初めての喧嘩だった。 だからせっかく仲直りできた、元に戻ったのだからそれを無駄にはしたくなかった。
分ったよ、ポポが言おうとした時、ブブが腹に手を添え顔を俯かせた。 眉間に皺を寄せている。
「え? ブブ? どうした?」
「ん・・・何でもない」
「何でもなくないだろ、どうしたんだよ。 腹が痛いのか? それなら薬草を貰ってくる」
立ち上がりかけたポポをブブが止める。
「大丈夫、ちょっと・・・気持ちが悪いだけだ」
「気持ちって・・・。 腹だろう? 腹に気持ちも何もあるもんか、下痢か?」
「・・・それっぽい」
「なにそのへんのもの拾って食ってんだよ! おら! 立って! 出すもん出しに行くぞ!」
ポポが腕を取って立たせようとしてくれるが、出るものはないような気がする。 ただ今までにない感覚で腹の具合が悪いだけだった。
月が森とバルコニーを照らしている。
バルコニーには夜風が冷たく肌寒い風が吹いているというのに、窓は一年前と同じように全開にされている。 そしてそのバルコニーには一年前と同じように女州主が座っていた。 いや、一年前に限らず、この女州王は毎夜このバルコニーに出ている。
女州王。 州王であった両親の一粒種として生まれこの州を治めている。 伴侶はいるが我が州の森のことと州兵のことだけには口出しを許していなく、州交に重きを置かせている。
「セイナカル様、そろそろお身体がお冷えになるかと」
女州王、セイナカルにはまだ御子が居ない。 暑い時にも寒い時にもこうして毎夜バルコニーに出る。 暑い時にはまだしも、寒い時にバルコニーに出て身体を冷やしては御子に恵まれる可能性が薄くなっていくだろう。 ましてやもうすぐ三十七の歳になるのだから。
セイナカルが進言をした側仕えの女を一度斜に見て視線を戻した。
「呪師はどうしておる」
この側仕えは長くセイナカルについている。 セイナカルの気持ちの限界が近づいていることには気付いている。
「ジャジャム殿と髪を辿ってはおられますが・・・」
「まだ、ということか」
側仕えが口を開くことなく深く一礼をする。
呪師を変えて一年が経った。 いや、もう一年以上を過ぎた。
あれから二十年以上が過ぎた。
―――もう追えないのだろうか。
初動の己の失態は認めている。 だが。
―――追えないなどということは認めない。
(この州にはもっと力の有る呪師は居ないのか。 それなら他州から調達してきてもいいが・・・)
そうなると他州との間で軋轢が生まれる可能性がなくもない。
伴侶がもっと上手く他州と州交を取っていればいいものを、伴侶はそれを是としない。
セイナカルと伴侶との考え方の違いである。 セイナカルの言う州交とは抑え込めばいい、ただそれだけだが、それに対して伴侶はそれを是としない。 調和を持って、などと甘いことを言っている。
テーブルに置かれた金杯を手に取り、中にある赤い葡萄酒を金杯の中で回す。
あの時、追えなかったこともあるが、まず第一に奇襲が失敗だった。
森の女王であるあの女が御子を生む前にあの森を襲う予定だった。 あの女に御子など産ませる気など毛頭なかった。
何年もかかってやっと森の中、あの女の住まう域に入ることが出来た。 その時にあの女が身籠っていることを知った。 この手で腹を割いてでも産ませるつもりなど無かった。
それなのに、やっと奇襲にまでこぎつけたというのに、寸前で森の民に幻覚を見せられ奇襲に遅れを取ってしまった。
その遅れが追わなければならない結果に繋がってしまった。
(どうしてあの時、追えなかった)
あの女の髪の毛に頼らずとも残っていた気で追えるはずだった。 気は充分に残っていたのだから。 それに気だけではない、生まれ落ちた時の胎盤もまだ暖かく残っていた。 あの胎盤の中で育っていたのだからすぐに追えるはずだった。 あの女、森の女王、その腹から生まれたばかりの御子を。
(何がいけなかった、何かを見落としていたのか)
もう片方の指で金杯の縁をなぞる。
その指がふと止まった。
(・・・まさか呪(じゅ)をかけたか?)
今までその思いに気付かなかった。 いや、正確に言えば頭の片隅に無くはなかった。 だが生まれたての我が子に呪をかけるなどということを、森の女王が許すわけなどないと考えていた。
(呪・・・森の民にしか知り得ない呪があったのだろうか・・・)
広い意味で言えば街の民であるセイナカルには、特に呪に優れている森の民の呪など知り得ない。 それに呪は主に呪(のろ)うことの為に使い、守るための呪などない、頭っからそう思い込んでいた。 事実、街の民の呪はそういうものだ。
(いや、あったのだろうかではない。 あった。 それ以外ありえない)
口を歪め金杯を持つ手が震える。
どうして今ごろになってそんなことに気付いたのか、どうしてあの時気付かなかったのか。
金杯をバルコニーに投げつける。 大きな音がして赤い葡萄酒が辺りにまき散る。
側仕えが咄嗟に首をすくませ、瞳だけを動かしセイナカルを見ると、歯を軋ませ目を怒りに燃え立たせている。 だが息を殺しじっと見ていると徐々にその表情が変わってきたのが見て取れた。
徐々に口角が上がっていき、目を細めていったのだった。
側仕えの背筋に嫌なものが走った。
「ジャジャムを」
「はい・・・」
側仕えが控えていた従者たちに、投げられた物の片づけをするようにと目顔を送ると部屋を出て行った。