『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第159回
『あ、ちがうちがう。 彩(いろどり)って書いて “さい” って読むの』
そのことがあってから、偶然会った中学時代の友達にクラス名を聞かれた時には 『彩って書いて “さい” って読んで “彩組” 』 と説明したものだ。
ちなみに、歴代彩組は心のなかで “サイ組” とカタカナで呼ぶ輩には食って掛かっていた。 サイさんゾウさんキリンさん、と言われようがクラスの誰もが “彩組” の漢字が気に入っていたからだ。
金翅組も心の中で “禁止組” と呼ぶ輩には足蹴りを食わせていたし、黎明組も “命令組” と揶揄する輩には肘鉄をくらわし、玲瓏組は老齢組と言われ、新緑組は何故か虫さん組と言われ、この二クラスには柔道部が多かったせいか寝技にものを言わせていた。
どれもスポーツ科が実行犯だが、芸術科はスポーツ科の後ろに隠れて 「やれやれ」 と後方援軍だった。
玲瓏組は画数が多すぎると不服を言いながらも、そのクラス名を気に入っていたし、他のクラスにしてもそうだった。 進学科は気に入るもいらないも、クラス名などどうでもいいと思っていたようだったが。
「懐かしいな・・・」
もう戻ってはこない。 だがそれは紫揺だけのことではない。
「体力が余り過ぎてるのかなぁ。 ストレスが溜まってるのかなぁ」
だからゴロゴロしているのだろうか。 自分で自分が分からない。
もう一度時計を見た。 午後九時五十分。
「もう誰もいないよね。 行ってみようか」
玄関の灯りが点き、すぐに玄関の戸が開いた。 紫揺の手には鍵が持たれている。
「若冲を呼びます」
阿秀が頷く。
紫揺が自転車に跨り道路に出た。 駆け付けた若冲が梁湶を見ると、梁湶が紫揺の出た方向を指さした。 その先に紫揺を追う阿秀の背中が見えた。 手を上げて応えると、先に紫揺を追っている阿秀を追って走り出した。
紫揺の向かった先は、近くの児童公園から離れた大きな公園だった。 そこは児童公園より遊具が揃っているし、かなり広い。
自転車を降りた紫揺。
「やっぱ、誰もいない」
こんな時間にこの公園に居るとすれば、ちょっと困ったお人か若者か、ラブを語り合う恋人同士だろう。
公園の中まで自転車で入りスタンドを立てる。 すると、
「あ“あ”あ“―――」
と大声を出した。
ここは住宅街の中ではない。 誰に聞きとがめられはしないだろう。
「ストレスが溜まっておられるようですね」
既に追いついていた若冲が口に拳を当てながら、笑いを堪えて横に立つ阿秀に言った。
「あれで発散して下さればいいんだがな」
鉄棒の前まで歩くと鉄棒に足をかけ、ストレッチを始めた。 最後に肩入れ。
紫揺が鉄棒を握った。 スウィングを出して蹴上がりで上がる。 そのまま撥ねて倒立をする。 いったん止まって背中方向に倒しながら手を持ち替える。 そのまままたスウィングを出して次に続けたいところだが、段違い平行棒とは握りと揺れが違う。
平行棒は鉄芯の周りに木があり、しなりがある。 プロテクターもしていない。 そのままの勢いで手が離れて尻もちを着きたくない。 ゆっくりと着地をした。
「腹打ちしたいなぁ」
腹打ちとは段違い平行棒の上段を持って、足の付け根付近で下段を巻き、そのまま撥ね上げるといったものだ。 体操選手の試合を見ていると、太腿に炭酸マグネシウムが付いているが、それは下段を巻いたり当てたりした時に付いたものである。
腹打ちなど出来るところもなく、諦めて閉脚の飛行機飛びで鉄棒の前に降りると今度は地面の上で、ハンドスプリングや屈伸の抱え込み前方宙返り(前宙)、側転からの後方転回(バク転)や後方伸身宙返り(伸身バク宙)などをしだした。 もともと後方系は抱え込みは好きではなかったから、屈伸か伸身で後方宙返りをしていた。
高度なものは地面の上でする勇気はない。 地面はあまりにもマットや床と違いすぎる。 せいぜい、伸身の一回ひねりくらいだが、広い敷地、床からはみ出ることなど考えなくてもいい。 連続技で遊べることこの上なく楽しい。
時折、高く宙に頭を下に足を上にしている。 その姿が下弦の月をすぎた猫の目のような月に影を現す。
「・・・梁湶たちの言ってたことが何となく分かりました」
梁湶一人ではない、梁湶たちだ。
「なんて言ってたんだ?」
「小さくていらっしゃるからちょこまかと、ネズミみたいとか、サルとか、ナマケモノではないのは確かとか、コロコロ転がる仔パンダでもないと」
「誰が何を言ったか、メモったか?」
「いえ、ですが仔パンダのことは醍十でしたが」
「仔パンダは転がってばかり、紫さまはちゃんと着地をしておられる。 醍十が言ったことは誉め言葉だろう。 そうか、メモを取らなかったのは残念だ」
「阿秀・・・」
「冗談だ」
声に抑揚もなく、前にいる紫揺を見つめながら言われても冗談には聞こえない。
今度は小さな平均台に上がった。 ターンやバランス、ジャンプ。 倒立をし、手を移動させてゆっくりと片足ずつ下ろす。 ここまでは梁湶も遠目に見られていたが、紫揺が側宙をしだした。
「阿秀、万が一のことがあります。 お怪我をされては。 お止めしますか?」
次にハンドスプリング。
「ア”ア”―――」
「あんなものではなかったからな。 それより、声は抑えろ」
阿秀が言っているのは、紫揺が船を下りて醍十を先頭に追いかけられた時のことを言っている。
だがその姿を若冲は見ていない。 何と言われようが一度は見て慣れた阿秀と違って紫揺のすること為すことに声が出る。
側転から片足で着地をするバク転。
「ダァ―――」
つい出る声を手で抑えながらも、今にも目が飛び出そうになっている。
伸身の前宙。
「ガァ―――」
阿秀が一瞬、若冲に視線を流した。
そんな二人の、と言うか、若冲のことなど意とせず、前方抱え込み後方宙返りで平均台を下りた。
若冲が今にも泡を吹きそうになっている。
紫揺が一瞬、躊躇した。
滑り台や、ジャングルジムに行こうかと思ったからだ。 だが、そんな時には友達がいて欲しいと思った。 一緒に滑り台を滑って、ジャングルジムの中を追いかけっこして・・・。
その友達が今は居ない。
「・・・当たり前だ」
居るはずない。 それもこんな時間に。
だから。
先ほどと違う所にあった一番高い鉄棒に向かった。 三段階の高さのある鉄棒。 一番低いものは紫揺がジャンプすれば届くが、あとの二段階の高さはジャンプをしても届かない。
一番高い鉄棒の支柱を、登り棒のように上がっていく。 手を伸ばして鉄棒を掴む。 握りを移動させ、中央まで移動すると、身体をあふり蹴上がりから中抜きをして、鉄棒の上に座った。
「あ・・・阿秀」
さすがの阿秀も、あの高さから落ちられてはと、身体に緊張が走る。
真上ではなく、傾いた月を目に映す。
「三日月かなぁ」
違います。
「お月さんの真ん中には空洞があるって聞いたことがあるけど、それって現実的じゃない。 やっぱりウサギのお餅つきだよね」
認識が逆だ。
「でもウサギのお餅つきは満月の時に見えるって言うし・・・。 三日月の時は・・・三日月に誰かが座ってる?」
どこかでそんな絵を見た覚えがある。
もう一度言います。 三日月ではありません。 三日月はもっと細い形である。
「どうして座るのかなぁ。 座らなくていいんじゃないの? 立っててもいいんじゃない?」
紫揺の独り言をこの後の紫揺の行動を目にしながら若冲が聞いたら、泡を吹いて卒倒するだろう。
紫揺が両腕に力を籠め尻を浮かした。 足を揃えて前に出す。 そのまま屈伸状態で後ろに倒れると両腕の間から足を鉄棒から抜いて、スウィングなしでもう一度蹴上がりをした。 身体が上がった途端に、太腿で鉄棒を撥ね腰を上げた。 鉄棒の上に足の裏を乗せる。 両手を離すと鉄棒の上に立ち上がった。
「あああああ、ああ、あ、あ、阿秀・・・」
紫揺が鉄棒の上を歩き出した。
「お月さんを歩けてるかな?」
紫揺の今の友達は月。 一方的な片思いだが。
ここで身体に緊張を走らせていても、何かあった時に紫揺を受けとめることなど出来ない。 阿秀が地を蹴ろうとした時だった。
紫揺がバランスを崩した。
それはそうだろう。 紫揺は綱渡りなどしたことがなければ、サーカス団にも入門したことなどないのだから。
「おっと・・・」
紫揺が上半身を折ると鉄棒を掴み、そのまま飛行機飛びで鉄棒を下りた。
数歩出ていた阿秀の足が止まった。
若冲は今にも倒れそうになって座り込んでいる。
「お疲れ様です」
「異常は?」
「ありません。 そっちは?」
「あった」
「え!?」
阿秀が親指で後ろを指した。 梁湶が見てみると、ヨロヨロになり今にも倒れそうな若冲がトボトボと歩いている影が見える。
「何があったんですか!」
「紫さまにではないから安心しろ。 ここは俺が見ておく。 若冲に茶でも買ってきてやってくれ」
自転車を止め、家に入ると和室に入った紫揺。 どこかスッキリとした顔をしている。
「あー、気持ちよかった」
両方の指を絡ませて伸びをする。
若冲に聞かせてやりたい、見せてやりたい。
「お風呂はいろ」
寒さ限界になるまで風呂に湯は張らない。 水道代もガス代も倹約したい。 でも、今日は湯に浸かりたかった。
湯の用意をした。
ちゃぷん。
手は伸ばせるが、足を伸ばせるほどに大きくはない湯舟。
正方形深型のステンレス製の湯船である。 ホテルにしろ屋敷にしろ手足が伸ばせて大きな湯舟だった。 もちろんステンレス製ではない。
北の領土に行った時、初めて入った時には風呂屋のように大きかったし、ましてや天然の温泉だった。 その後にも変わった風呂に入ったが、深型で足を伸ばせないにしても、全てが天然温泉だった。
「ここに居てもどこに居ても・・・一人」
高校時代、中学や小学校時代の友達。 その友達も今の紫揺の状態を知ってくれたら心配をしてくれるだろう。
だが言う気はない。
今の状態で新しく友達を作る気も、昔の友達と会う気もない。
杢木の父親が言っていた
『紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ』 と。
佐川も心配していてくれた。 何故かあの坂谷という警察の人間も。
「心配ばっかりかけてるのかなぁ・・・」
昔の友達ではなくあの時に知り合った人達に。
春樹にしてもニョゼにしてもそうだ。 ガザンなど身体を張って協力してくれた。
「中途半端ばっかりしてるからかなぁ」
学校時代は母親に心配をかけていたが、それでも自分のやりたいことを貫いていた。 だから父親の協力を得ていたが、母親も笑ってくれていた。
「シノ機械の人たちが私の身を案じてくれてるって言ってた」
此之葉が言っていた。
あの時は、両親のことを悲しんでばかりいた。 なにも楽しいことなど無かった。 多分、暗かった。
だから今も気にかけてくれているのかもしれない。
「やりたいことをするのが一番ってことかな・・・」
今やりたいことは、反して言ういいかたになるが、今一番されたくない事。
湯船に鼻の下まで浸かる。 口から息を吐く。 ブクブクブクと音をたてて泡が躍り出てくる。
(今やりたいことは・・・)
――― されたくないからする。
「東の人っていう人いますか?」
湯気があがった身体で玄関に出ると、相変わらず回りくどい言い方で呼ぶ。
「御用でしょうか」
闇の中から出てきたのは阿秀であった。
「あ・・・」
セノギモドキ。
「えっと、先日は失礼しました」
「こちらの方こそ礼を欠いてしまい、申し訳ありませんでした」
目を合わすことなく頭を軽く下げている。
「えっと・・・」
前の人だったら言いやすそうだったのに、と思う相手は悠蓮だ。 だが、ここまできて言いやすいもへったくれもない。 呼ぶだけ呼んで引っ込むわけにもいかない。
「急に明日、東ってとこに行くって言っても行けますか?」
梁湶が一人で表を固めている。 阿秀がホテルに戻ったからだ。
ホテルに戻った阿秀は事の次第を急ぎ領主に伝え、阿秀の代わりに野夜を紫揺の家に走らせた。 その後もちろん領主の了解を得た阿秀がパソコンを操作した。 飛行機の予約が取れたが、ギリギリ四名の席だけだった。
紫揺、領主、此之葉と阿秀になる。 他の者は置いておけない船で領主の屋敷に帰ってもらうしかない。 空港から島にある領主の家まで、阿秀一人で紫揺を護衛しなくてはならなくなった。
野夜に連絡を入れた。
「明日の朝、八時にお迎えに上がると伝えてくれ」
阿秀が紫揺から 『急に明日・・・』 と言われた後に
『有難うございます。 交通の確認が御座いますので、少々お時間を頂けますでしょうか』
そう言って紫揺を留めておいた。
野夜が引き戸をノックする。 その後ろ姿を陰から梁湶が見守っている。
戸を開けた紫揺の前に野夜がいた。
「へっ?」
てっきりセノギモドキがノックをしたと思っていた。
「明日の朝、八時にお迎えにあがります」
元々下げていた頭を更に深々と下げた。
「あ・・・分かりました」
後ろ手に戸を閉める。 八時の迎え、では遅くとも七時には起きなくてはならないな、と思った。 その時間は不規則な生活時間となっている今はちょっと悲しい。 早朝過ぎるだろう。 そう思ったが、この何日、何か月、アラームに起こされることもなく、惰眠をむさぼっていたことか。
アマフウに『いい加減になさい』 と怒られた日もあったが、それは例外だ。 あの馬車に揺られていたし、夜な夜な狼たちを待ち構えていたのだから。
「目覚ましセットしとこ」
家の電気が消え梁湶、若冲、野夜が上がっていた肩を下ろした。 醍十は相変わらずゆっくりと構えている。
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『あ、ちがうちがう。 彩(いろどり)って書いて “さい” って読むの』
そのことがあってから、偶然会った中学時代の友達にクラス名を聞かれた時には 『彩って書いて “さい” って読んで “彩組” 』 と説明したものだ。
ちなみに、歴代彩組は心のなかで “サイ組” とカタカナで呼ぶ輩には食って掛かっていた。 サイさんゾウさんキリンさん、と言われようがクラスの誰もが “彩組” の漢字が気に入っていたからだ。
金翅組も心の中で “禁止組” と呼ぶ輩には足蹴りを食わせていたし、黎明組も “命令組” と揶揄する輩には肘鉄をくらわし、玲瓏組は老齢組と言われ、新緑組は何故か虫さん組と言われ、この二クラスには柔道部が多かったせいか寝技にものを言わせていた。
どれもスポーツ科が実行犯だが、芸術科はスポーツ科の後ろに隠れて 「やれやれ」 と後方援軍だった。
玲瓏組は画数が多すぎると不服を言いながらも、そのクラス名を気に入っていたし、他のクラスにしてもそうだった。 進学科は気に入るもいらないも、クラス名などどうでもいいと思っていたようだったが。
「懐かしいな・・・」
もう戻ってはこない。 だがそれは紫揺だけのことではない。
「体力が余り過ぎてるのかなぁ。 ストレスが溜まってるのかなぁ」
だからゴロゴロしているのだろうか。 自分で自分が分からない。
もう一度時計を見た。 午後九時五十分。
「もう誰もいないよね。 行ってみようか」
玄関の灯りが点き、すぐに玄関の戸が開いた。 紫揺の手には鍵が持たれている。
「若冲を呼びます」
阿秀が頷く。
紫揺が自転車に跨り道路に出た。 駆け付けた若冲が梁湶を見ると、梁湶が紫揺の出た方向を指さした。 その先に紫揺を追う阿秀の背中が見えた。 手を上げて応えると、先に紫揺を追っている阿秀を追って走り出した。
紫揺の向かった先は、近くの児童公園から離れた大きな公園だった。 そこは児童公園より遊具が揃っているし、かなり広い。
自転車を降りた紫揺。
「やっぱ、誰もいない」
こんな時間にこの公園に居るとすれば、ちょっと困ったお人か若者か、ラブを語り合う恋人同士だろう。
公園の中まで自転車で入りスタンドを立てる。 すると、
「あ“あ”あ“―――」
と大声を出した。
ここは住宅街の中ではない。 誰に聞きとがめられはしないだろう。
「ストレスが溜まっておられるようですね」
既に追いついていた若冲が口に拳を当てながら、笑いを堪えて横に立つ阿秀に言った。
「あれで発散して下さればいいんだがな」
鉄棒の前まで歩くと鉄棒に足をかけ、ストレッチを始めた。 最後に肩入れ。
紫揺が鉄棒を握った。 スウィングを出して蹴上がりで上がる。 そのまま撥ねて倒立をする。 いったん止まって背中方向に倒しながら手を持ち替える。 そのまままたスウィングを出して次に続けたいところだが、段違い平行棒とは握りと揺れが違う。
平行棒は鉄芯の周りに木があり、しなりがある。 プロテクターもしていない。 そのままの勢いで手が離れて尻もちを着きたくない。 ゆっくりと着地をした。
「腹打ちしたいなぁ」
腹打ちとは段違い平行棒の上段を持って、足の付け根付近で下段を巻き、そのまま撥ね上げるといったものだ。 体操選手の試合を見ていると、太腿に炭酸マグネシウムが付いているが、それは下段を巻いたり当てたりした時に付いたものである。
腹打ちなど出来るところもなく、諦めて閉脚の飛行機飛びで鉄棒の前に降りると今度は地面の上で、ハンドスプリングや屈伸の抱え込み前方宙返り(前宙)、側転からの後方転回(バク転)や後方伸身宙返り(伸身バク宙)などをしだした。 もともと後方系は抱え込みは好きではなかったから、屈伸か伸身で後方宙返りをしていた。
高度なものは地面の上でする勇気はない。 地面はあまりにもマットや床と違いすぎる。 せいぜい、伸身の一回ひねりくらいだが、広い敷地、床からはみ出ることなど考えなくてもいい。 連続技で遊べることこの上なく楽しい。
時折、高く宙に頭を下に足を上にしている。 その姿が下弦の月をすぎた猫の目のような月に影を現す。
「・・・梁湶たちの言ってたことが何となく分かりました」
梁湶一人ではない、梁湶たちだ。
「なんて言ってたんだ?」
「小さくていらっしゃるからちょこまかと、ネズミみたいとか、サルとか、ナマケモノではないのは確かとか、コロコロ転がる仔パンダでもないと」
「誰が何を言ったか、メモったか?」
「いえ、ですが仔パンダのことは醍十でしたが」
「仔パンダは転がってばかり、紫さまはちゃんと着地をしておられる。 醍十が言ったことは誉め言葉だろう。 そうか、メモを取らなかったのは残念だ」
「阿秀・・・」
「冗談だ」
声に抑揚もなく、前にいる紫揺を見つめながら言われても冗談には聞こえない。
今度は小さな平均台に上がった。 ターンやバランス、ジャンプ。 倒立をし、手を移動させてゆっくりと片足ずつ下ろす。 ここまでは梁湶も遠目に見られていたが、紫揺が側宙をしだした。
「阿秀、万が一のことがあります。 お怪我をされては。 お止めしますか?」
次にハンドスプリング。
「ア”ア”―――」
「あんなものではなかったからな。 それより、声は抑えろ」
阿秀が言っているのは、紫揺が船を下りて醍十を先頭に追いかけられた時のことを言っている。
だがその姿を若冲は見ていない。 何と言われようが一度は見て慣れた阿秀と違って紫揺のすること為すことに声が出る。
側転から片足で着地をするバク転。
「ダァ―――」
つい出る声を手で抑えながらも、今にも目が飛び出そうになっている。
伸身の前宙。
「ガァ―――」
阿秀が一瞬、若冲に視線を流した。
そんな二人の、と言うか、若冲のことなど意とせず、前方抱え込み後方宙返りで平均台を下りた。
若冲が今にも泡を吹きそうになっている。
紫揺が一瞬、躊躇した。
滑り台や、ジャングルジムに行こうかと思ったからだ。 だが、そんな時には友達がいて欲しいと思った。 一緒に滑り台を滑って、ジャングルジムの中を追いかけっこして・・・。
その友達が今は居ない。
「・・・当たり前だ」
居るはずない。 それもこんな時間に。
だから。
先ほどと違う所にあった一番高い鉄棒に向かった。 三段階の高さのある鉄棒。 一番低いものは紫揺がジャンプすれば届くが、あとの二段階の高さはジャンプをしても届かない。
一番高い鉄棒の支柱を、登り棒のように上がっていく。 手を伸ばして鉄棒を掴む。 握りを移動させ、中央まで移動すると、身体をあふり蹴上がりから中抜きをして、鉄棒の上に座った。
「あ・・・阿秀」
さすがの阿秀も、あの高さから落ちられてはと、身体に緊張が走る。
真上ではなく、傾いた月を目に映す。
「三日月かなぁ」
違います。
「お月さんの真ん中には空洞があるって聞いたことがあるけど、それって現実的じゃない。 やっぱりウサギのお餅つきだよね」
認識が逆だ。
「でもウサギのお餅つきは満月の時に見えるって言うし・・・。 三日月の時は・・・三日月に誰かが座ってる?」
どこかでそんな絵を見た覚えがある。
もう一度言います。 三日月ではありません。 三日月はもっと細い形である。
「どうして座るのかなぁ。 座らなくていいんじゃないの? 立っててもいいんじゃない?」
紫揺の独り言をこの後の紫揺の行動を目にしながら若冲が聞いたら、泡を吹いて卒倒するだろう。
紫揺が両腕に力を籠め尻を浮かした。 足を揃えて前に出す。 そのまま屈伸状態で後ろに倒れると両腕の間から足を鉄棒から抜いて、スウィングなしでもう一度蹴上がりをした。 身体が上がった途端に、太腿で鉄棒を撥ね腰を上げた。 鉄棒の上に足の裏を乗せる。 両手を離すと鉄棒の上に立ち上がった。
「あああああ、ああ、あ、あ、阿秀・・・」
紫揺が鉄棒の上を歩き出した。
「お月さんを歩けてるかな?」
紫揺の今の友達は月。 一方的な片思いだが。
ここで身体に緊張を走らせていても、何かあった時に紫揺を受けとめることなど出来ない。 阿秀が地を蹴ろうとした時だった。
紫揺がバランスを崩した。
それはそうだろう。 紫揺は綱渡りなどしたことがなければ、サーカス団にも入門したことなどないのだから。
「おっと・・・」
紫揺が上半身を折ると鉄棒を掴み、そのまま飛行機飛びで鉄棒を下りた。
数歩出ていた阿秀の足が止まった。
若冲は今にも倒れそうになって座り込んでいる。
「お疲れ様です」
「異常は?」
「ありません。 そっちは?」
「あった」
「え!?」
阿秀が親指で後ろを指した。 梁湶が見てみると、ヨロヨロになり今にも倒れそうな若冲がトボトボと歩いている影が見える。
「何があったんですか!」
「紫さまにではないから安心しろ。 ここは俺が見ておく。 若冲に茶でも買ってきてやってくれ」
自転車を止め、家に入ると和室に入った紫揺。 どこかスッキリとした顔をしている。
「あー、気持ちよかった」
両方の指を絡ませて伸びをする。
若冲に聞かせてやりたい、見せてやりたい。
「お風呂はいろ」
寒さ限界になるまで風呂に湯は張らない。 水道代もガス代も倹約したい。 でも、今日は湯に浸かりたかった。
湯の用意をした。
ちゃぷん。
手は伸ばせるが、足を伸ばせるほどに大きくはない湯舟。
正方形深型のステンレス製の湯船である。 ホテルにしろ屋敷にしろ手足が伸ばせて大きな湯舟だった。 もちろんステンレス製ではない。
北の領土に行った時、初めて入った時には風呂屋のように大きかったし、ましてや天然の温泉だった。 その後にも変わった風呂に入ったが、深型で足を伸ばせないにしても、全てが天然温泉だった。
「ここに居てもどこに居ても・・・一人」
高校時代、中学や小学校時代の友達。 その友達も今の紫揺の状態を知ってくれたら心配をしてくれるだろう。
だが言う気はない。
今の状態で新しく友達を作る気も、昔の友達と会う気もない。
杢木の父親が言っていた
『紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ』 と。
佐川も心配していてくれた。 何故かあの坂谷という警察の人間も。
「心配ばっかりかけてるのかなぁ・・・」
昔の友達ではなくあの時に知り合った人達に。
春樹にしてもニョゼにしてもそうだ。 ガザンなど身体を張って協力してくれた。
「中途半端ばっかりしてるからかなぁ」
学校時代は母親に心配をかけていたが、それでも自分のやりたいことを貫いていた。 だから父親の協力を得ていたが、母親も笑ってくれていた。
「シノ機械の人たちが私の身を案じてくれてるって言ってた」
此之葉が言っていた。
あの時は、両親のことを悲しんでばかりいた。 なにも楽しいことなど無かった。 多分、暗かった。
だから今も気にかけてくれているのかもしれない。
「やりたいことをするのが一番ってことかな・・・」
今やりたいことは、反して言ういいかたになるが、今一番されたくない事。
湯船に鼻の下まで浸かる。 口から息を吐く。 ブクブクブクと音をたてて泡が躍り出てくる。
(今やりたいことは・・・)
――― されたくないからする。
「東の人っていう人いますか?」
湯気があがった身体で玄関に出ると、相変わらず回りくどい言い方で呼ぶ。
「御用でしょうか」
闇の中から出てきたのは阿秀であった。
「あ・・・」
セノギモドキ。
「えっと、先日は失礼しました」
「こちらの方こそ礼を欠いてしまい、申し訳ありませんでした」
目を合わすことなく頭を軽く下げている。
「えっと・・・」
前の人だったら言いやすそうだったのに、と思う相手は悠蓮だ。 だが、ここまできて言いやすいもへったくれもない。 呼ぶだけ呼んで引っ込むわけにもいかない。
「急に明日、東ってとこに行くって言っても行けますか?」
梁湶が一人で表を固めている。 阿秀がホテルに戻ったからだ。
ホテルに戻った阿秀は事の次第を急ぎ領主に伝え、阿秀の代わりに野夜を紫揺の家に走らせた。 その後もちろん領主の了解を得た阿秀がパソコンを操作した。 飛行機の予約が取れたが、ギリギリ四名の席だけだった。
紫揺、領主、此之葉と阿秀になる。 他の者は置いておけない船で領主の屋敷に帰ってもらうしかない。 空港から島にある領主の家まで、阿秀一人で紫揺を護衛しなくてはならなくなった。
野夜に連絡を入れた。
「明日の朝、八時にお迎えに上がると伝えてくれ」
阿秀が紫揺から 『急に明日・・・』 と言われた後に
『有難うございます。 交通の確認が御座いますので、少々お時間を頂けますでしょうか』
そう言って紫揺を留めておいた。
野夜が引き戸をノックする。 その後ろ姿を陰から梁湶が見守っている。
戸を開けた紫揺の前に野夜がいた。
「へっ?」
てっきりセノギモドキがノックをしたと思っていた。
「明日の朝、八時にお迎えにあがります」
元々下げていた頭を更に深々と下げた。
「あ・・・分かりました」
後ろ手に戸を閉める。 八時の迎え、では遅くとも七時には起きなくてはならないな、と思った。 その時間は不規則な生活時間となっている今はちょっと悲しい。 早朝過ぎるだろう。 そう思ったが、この何日、何か月、アラームに起こされることもなく、惰眠をむさぼっていたことか。
アマフウに『いい加減になさい』 と怒られた日もあったが、それは例外だ。 あの馬車に揺られていたし、夜な夜な狼たちを待ち構えていたのだから。
「目覚ましセットしとこ」
家の電気が消え梁湶、若冲、野夜が上がっていた肩を下ろした。 醍十は相変わらずゆっくりと構えている。