辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第4回
領主が椅子から立ち上がる。 紫揺はマツリを見ることなく自分の目線の前を見ている。
領主と秋我に見送られたマツリ。 どこかの木に止まっていたキョウゲンが飛んできてマツリが地を蹴った。
「ふーん、自分が私の前に居るのは良くないって分かってんだ」
振り返りキョウゲンに跳び乗るところを見る。
「紫さま・・・」
「ね、マツリって言わなかったでしょ? 約束は守りますって」
「・・・紫さま」
紫揺の言いようにリツソの呼び方のことが頭から離れてしまった。
「でも・・・。 リツソ君も一緒に来ると思ってたのにな」
秋我が呼びに来た時にはてっきりリツソも一緒だと思った。
「え?」
「まだカルネラちゃんに乗れないってことか・・・」
北の領土であればヒオオカミのハクロやシグロの背に乗ってやって来ることが出来るが、この東の領土にはリツソにとってそんなに都合のいい獣は居ない。
「紫さま・・・」
リツソと会いたかったのだろうかと此之葉が思う。
だが当の紫揺はそういう考えで言ったのではない。
まだカルネラに乗れないということは、カルネラとの共鳴もしっかり出来ていないのだろう。 ということは、先程のマツリの言いように当てはめてもリツソの向上は見られないということだろう。 そう考えて言ったものであった。
領主と秋我が戻ってきた。
「うん? 此之葉どうした?」
此之葉が肩を落としている。
「あれ? 此之葉さんどうしたの?」
「いいえ、何でもありません。 茶を淹れて参ります」
領主に言われずとも秋我が此之葉の後につく。
「紫さま、お疲れになりましたでしょう。 どうぞお座りください」
ずっと櫓の下で民と踊っていたのだ。
領主に着座を促され先ほどまでマツリがかけていた椅子の隣に座る。
無難に会話をしていたが、やはり紫揺はマツリのことを敵対意識から外していないのかと、マツリも紫揺も互いに我慢をしているのだろうかと領主が思う。
「民との踊りはいかがでしたか?」
領主も椅子に掛けながら紫揺に訊いた。
「楽しかったです、 やっぱり身体を動かすのって楽しいです」
祭の間においては単に踊っていたことを指しているのだろうが、その言葉には色んな意味が含まれているとお付き達は理解している。
―――身体を動かす。
紫揺は単純に言ってくれるが紫揺のそれは普通ではない。
既に塔弥も何度も目にし、経験した紫揺のトンデモ。
塔弥と阿秀以下六人が聞くと、この程度で抑えてくれれば何の文句も心で唱えないと言うだろう。 いや、最近の塔弥は口に出している。
阿秀がなかなか苦言を呈さないので最初はお前が言え、という目を醍十以外の五人から送られてくるのだから。 まあ最近ではそんな目を送られてこられる前に塔弥が口に出してはいるが。 紫揺のトンデモは酷すぎるのだから。
五色はサルではないし、それに怪我の一つも困る。 民の目もある。
「紫さまにおかれては、こちらに帰って来て下さってからは並々ならぬ努力をして頂いて」
そこまで言うと領主が頭を下げた。
「え? 領主さん、やめてください」
「紫さまが民と話すのが不得手だと此之葉から聞いておりました。 それなのに毎日民とお話をして下さって」
まだ領主の頭は上がっていない。
「とにかく、頭を上げてください」
領主がゆっくりと頭を上げる。
「もう! 領主さん、頭は下げないでください。 たしかに私はまだここのことをよく分ってはいません」
領土史や歴代の “紫さまの書” を読んでもそれは民との触れ合いが書かれているものではなかった。
たしかに人見知りもあるし、自分のことを期待する民との接触を出来るだけ避けていた数か月だったが、徐々に話していくと段々と慣れてきた。
祖母と自分を区切った。 自分は祖母のようにはなり得ないのだから。 そして何代もの紫と名を残す者も名が同じと言っても自分ではないのだから。 自分は自分の道を模索するしかないのだから。
「皆さんに教えてもらっているんです」
この地の農業や工芸のことを。 そして家族の成り立ちやあり方を。
「彼の地とこの領土はあまりにも違いすぎますでしょう」
「領主さん、日本のことは言わないでください。 戻りたいと思っても、もう戻れないんですから」
「お戻りになられたいのですか?」
紫揺が笑みを向ける。
「そんなはずありません」
と、その時ガザンの遠吠えが響いた。
「あれ? どうしたのかな?」
土佐犬のガザンと共に入った東の領土。 ガザンは最初、外飼いではなく紫揺の家の中を闊歩していた。
最初は紫揺の家に出入りする誰もが恐がったが、その誰もがガザンは紫揺の為に居ると分かり皆が認めた。 そしてガザンも紫揺の為に皆が居ると分かり皆を認めた。
一人づつ臭いを嗅がれた時には全員が硬直状態にはなったが、この関門を通らなければ紫揺に付けないと知るとそれも我慢が出来た。
今では勝手に外に出て行って、領土の民が誰もガザンを認め、ガザンも領土の民を認めていたし、他の動物たちともガザンは上手くやっているようだ、と言おうか、自由に領土内を歩いている猫も犬もガザンに一目を置いているらしい。
「ちょっと見てきます」
紫揺が足早に家に戻ると玄関に座っていたガザンが紫揺の足元に絡みついた。
「なに? どうしたの?」
しゃがんでガザンの顔を撫でてやる。 途端、ガザンのベロンベロン攻撃が始まった。
「わっ、どうしたの!?」
久しいベロンベロン攻撃であった。
「キョウゲン」
「はい・・・」
まただ。 何故、マツリの心が読めなかった、伝わってこなかった。
「そろそろ地下の者が動くであろう」
「・・・然に」
キョウゲンが即答しないとはおかしい。
「どうした?」
「いえ」
「急いでくれ」
今までになく祭の座を早く辞してきた。 祭の場につく前にはある程度領土の中を飛んだが、それほど長くは宮を空けてはいない筈だが気になる。
「御意」
シキの長きにわたる婚姻の儀が終わった。 それから二ヵ月間、地下の者がいつリツソに手を出すかマツリが目を配っていたがその様子が見られなかった。
もう一度地下の様子を見て廻りたかったが、本領領主である四方から各領主に礼を言うようにと仰せつかり日を分けて飛んだ。 その時にも地下からの動きはなかった。
そして三月、東の領土においては祭がある時期であった。 だから前日の夕刻に南の領土に姿を現し領土を見て回り、北と西の領土にはその前日の夕刻に飛んでいた。 北では狼たちからの報告で不穏なものは無いということであった。
そして最後の東の領土だけは祭と合わせて飛ぶため、夕刻より早めに出て先に領土を回っていた。 領土は落ち着いており辺境からも民が祭に集まっていた。
すでに月明かりは出ている。
宮に戻ったマツリが回廊を歩きながらリツソを呼ぶ。
「リツソ様で御座いますか? 今日はとんとお見掛け致しませんが」
こんなに遅くまで仕事をしていたのだろうか、偶然前を歩いてきた文官が言う。
「リツソを見なかったか」
渡殿の下を歩いていた職人に訊くが職人は首を横に振るだけであった。
そんな時、リツソに勉強を教えている初老の男がマツリに走り寄ってきた。
「夕刻よりリツソ様が見えません」
今日は夕刻前にやっと捕まえてそのまま勉学を進めるつもりだったのにまた逃げられ、その後にも見つけることが出来なかった、と付け足した。
「お爺様のところには?」
「四方様が馬を走らされましたが門の番が言うに、ご隠居様のところにも行っておられないようです」
「ハクロかシグロがここに来たか?」
「北のオオカミが来たとは聞いておりません」
リツソが紫揺に会いたくて一人宮を出たと考えられるが、リツソは東の領土を知らない。 それ故に迷子になっている可能性もあるが、地下の者が関係しているとも考えられる。
先にどこに動くか。 どちらに絞るか
「承知した」
足を一歩踏み出した時、思いつくことがあった。
「ああ、それと」
辞儀をしかけた初老の男が頭を止める。
「カルネラは?」
「はて、そう言われれば見当たりません」
「勉学の時にはいつもカルネラはどうしておる」
「午前ですと時折リツソ様のお房にいるようですが、午後には午睡を楽しんでいるようで見かけることは御座いません。 休憩を入れた夕刻にはお房に居たり居なかったりと」
「そうか。 承知した」
初老の男に答えると父親である四方の自室に向かう。 初老の男が辞儀でマツリを見送った。
「父上」
銀色の短髪、威風堂々とした四方が顔を上げる。
「マツリか。 入れ」
部屋に入るといつも居る側付きが居ない。 四方が硬い顔をしている。
「お側付きはどうされました?」
「ああ、最近顔色が悪いのでな、今日はもう戻らせた」
「そうですか」
あの側付きが顔色を悪くしているとは珍しいことだ。 小さな頃から知っているが今まで一度もそんなことは無かったというのに。
「リツソが見当たりませんが」
東の領土の報告の前に言うと固い顔をした四方が「うむ」 と一言いって先を続ける。
「宮の中は探したが見当たらん。 また宮を出たのかもしれんと今は宮の外を探しておるが未だに見当たらん」
リツソに勉学を教えている初老の男からリツソが居ないと聞いて今も探しているのだろう。
「地下の者が考えられるか?」
「充分に」
シキの婚姻の儀から地下の者がリツソを狙ってくるかもしれない、それはリツソが攫われるかもしれないということを四方に進言していた。
「宮の者にはこのままリツソを探させる」
地下ではないところを探させるということだ。 地下には簡単に入れない。 道に入って行けないということではない。 精神的にということである。
「カルネラは見当たりませんでしたか?」
「カルネラともども居なくなったようだ」
「そうですか。 では地下を探りに行って参ります」
「頼む」
一旦、部屋に戻り用意していた革袋を手にするとそれを懐に入れ、下足番がマツリの部屋の横に必ず用意している磨き上げられた長靴を履く。 勾欄を蹴り上げキョウゲンに跳び乗った。
薄い灰色の顔から始まって段々と羽先と尾にいくほどに黒い色をしたフクロウが本領の空を飛び、岩山の麓にある地下に続く洞を潜る。
洞の左右の入口は大きくなったキョウゲンの翼で少し余裕がある程度であるが、入ってしまえば段々と左右に広くなっていく。
暗い洞に入ると所々に置かれた小さな光石が岩の上で点灯しているが、小さな光石なだけに辺りを煌々と照らすほどではない。
充分に広い所になりキョウゲンの背からマツリが跳び下りた。 洞の天井ギリギリに大きく縦に輪を描いてその間に身体を小さくしたキョウゲンがマツリの肩に乗る。
首元で括られた平紐から数本のマツリの銀髪が零れ落ちている。
ここはまだ地下の者が行きかう場所ではない。 ずっと目の先を見ると光石の下で酒におぼれている者や禁止されている薬草を乾燥させ砕いて紙に巻いて吸っている者たちの影が朧(おぼろ)に揺れて見える。
キョウゲンを肩に乗せ、長く緩い下り坂に足を踏み入れた。
下り坂が終わる頃には左右に広くなっていて塀さえ見える。 地下の天となる岩の天井は見上げてもすぐそこにはなく高い所にある。 換気口のように空いている所々にある穴からは星さえ見える。 まるで一つの町のようである。
そのまま歩いて行くと、右に左に座り込んでいる男たちを見て回る。 賭け事をしている四人の男たちの一人が顔を上げた。
「これはこれは、マツリ様。 このような所に何をしに?」
「たまに回っておる。 それより新顔はおらんか?」
「さあて、見かけませんなぁ」
「そうか。 賭け事で身を滅ぼすのではないぞ」
そう言うとその場を立ち去った。
「滅んだからここに居るんだって話だってんだっ」
薄い木で出来た札(ふだ)を一枚投げつけるように出した。
「税で身を立てているヤツに言われたくないってもんだ」
出されていた札の上に自分の札を投げつけその二枚を手に取る。
「けっ、持ってたのかよ」
「負け逃げすんじゃねーぜ」
「まあ、オレたちゃ税なんて払ってないがな」
四人の男たちが顔を見合わせるとこ馬鹿にするように鼻で笑い、去って行ったマツリの姿を見ようとしたがその姿はもうどこにも見当たらなかった。
塀に囲まれた細い路地に身を入れ入って来た方に身を返したマツリ。 その奥から白い手が伸びてきて腕を掴まれた。
「マツリ様・・・」
同時に小声でマツリを呼ぶ。
「俤(おもかげ)か」
肩越しに後ろを見る。
「今日は奴らが頻繁に動き回っております。 もう少し奥に」
マツリが身体の向きを変え奥に進む。 マツリの後方には後退する俤が目を光らせている。 奥には光石がない。 マツリが向きを変えたことで奥の薄暗い中にはマツリたちには見えない者をキョウゲンが目を光らせることが出来る。
ある程度進むと後退をしていた俤が足を止めた。
「何かあったのか」
リツソのことを問う前に地下の者達が頻繁に動き回っているという理由を訊く。
「昼過ぎからバタバタと動きが活発になりました。 外とここを出たり入ったりしているようでした。 夕刻過ぎには一抱えの袋を担いで奴のところに入って行きました」
「城家主か」
この地下を仕切っている元締め。 手下(てか)の者に自分のことを城家主と呼べと言っている。
「はい。 それからというものは外との出入りは少なくなりましたが、その分地下のあちこちを歩き回っております」
「リツソが見当たらん」
「え?」
「その担いでいた袋にリツソが入っていたと考えられるか?」
まさかと思いながらも見たままをマツリに聞かせる。
「袋が動くことはありませんでした。 声も聞こえませんでしたが、気を失っておられたのなら考えられるかもしれません。 肩に担いで、まるで粉でも入っているように前後に垂れておりました」
「それがリツソであれば、多分カルネラも一緒だと思う」
「カルネラとは?」
「リツソの供であるリスだ。 赤茶色に腹が白、耳に黒い飾毛を持っておる。 まだ言葉を上手く話せないが、その様なリスを見かけたら捕まえてくれ」
「畏まりました。 それと随分前と最近に城家主の手下に褒美が渡されました。 その内容はまだ掴みきれていません」
「そうか」
リツソのこととは関係がなさそうだ。
「申し訳ありません」
随分と前だと言うのにまだ何も掴みきれていない。
「焦らずともよい。 よいか、絶対に踏み込み過ぎるな。 お前の身に危険が及んではどうにもならん。 今から城家主の元に向かう。 このままこの辺りを探っていてくれ」
「お一人で? それは危険です」
「リツソが攫われたと決まったわけではない。 武官も誰も寄こすわけにはいかん」
「では己だけでもついて参ります」
「万が一にもお前の面が割れてはこれからが困る」
マツリはお付きも配下も持たないが、この青年だけは自らマツリの手足になりたいと、手下として使ってほしいと言ってきた。
何度も断ったが引く様子を見せなく毎日通ってくる始末だった。
疑う相手ではない事は分かっていた。 だが念のため魔釣の目で見ると、瞳の中に禍(まが)つものなどなく、それどころかマツリや領土に対して陰の一つも視えなかった。
よって己の目と耳として使い色んなところを回らせた。 そして今は地下を見張らせている。
領主が椅子から立ち上がる。 紫揺はマツリを見ることなく自分の目線の前を見ている。
領主と秋我に見送られたマツリ。 どこかの木に止まっていたキョウゲンが飛んできてマツリが地を蹴った。
「ふーん、自分が私の前に居るのは良くないって分かってんだ」
振り返りキョウゲンに跳び乗るところを見る。
「紫さま・・・」
「ね、マツリって言わなかったでしょ? 約束は守りますって」
「・・・紫さま」
紫揺の言いようにリツソの呼び方のことが頭から離れてしまった。
「でも・・・。 リツソ君も一緒に来ると思ってたのにな」
秋我が呼びに来た時にはてっきりリツソも一緒だと思った。
「え?」
「まだカルネラちゃんに乗れないってことか・・・」
北の領土であればヒオオカミのハクロやシグロの背に乗ってやって来ることが出来るが、この東の領土にはリツソにとってそんなに都合のいい獣は居ない。
「紫さま・・・」
リツソと会いたかったのだろうかと此之葉が思う。
だが当の紫揺はそういう考えで言ったのではない。
まだカルネラに乗れないということは、カルネラとの共鳴もしっかり出来ていないのだろう。 ということは、先程のマツリの言いように当てはめてもリツソの向上は見られないということだろう。 そう考えて言ったものであった。
領主と秋我が戻ってきた。
「うん? 此之葉どうした?」
此之葉が肩を落としている。
「あれ? 此之葉さんどうしたの?」
「いいえ、何でもありません。 茶を淹れて参ります」
領主に言われずとも秋我が此之葉の後につく。
「紫さま、お疲れになりましたでしょう。 どうぞお座りください」
ずっと櫓の下で民と踊っていたのだ。
領主に着座を促され先ほどまでマツリがかけていた椅子の隣に座る。
無難に会話をしていたが、やはり紫揺はマツリのことを敵対意識から外していないのかと、マツリも紫揺も互いに我慢をしているのだろうかと領主が思う。
「民との踊りはいかがでしたか?」
領主も椅子に掛けながら紫揺に訊いた。
「楽しかったです、 やっぱり身体を動かすのって楽しいです」
祭の間においては単に踊っていたことを指しているのだろうが、その言葉には色んな意味が含まれているとお付き達は理解している。
―――身体を動かす。
紫揺は単純に言ってくれるが紫揺のそれは普通ではない。
既に塔弥も何度も目にし、経験した紫揺のトンデモ。
塔弥と阿秀以下六人が聞くと、この程度で抑えてくれれば何の文句も心で唱えないと言うだろう。 いや、最近の塔弥は口に出している。
阿秀がなかなか苦言を呈さないので最初はお前が言え、という目を醍十以外の五人から送られてくるのだから。 まあ最近ではそんな目を送られてこられる前に塔弥が口に出してはいるが。 紫揺のトンデモは酷すぎるのだから。
五色はサルではないし、それに怪我の一つも困る。 民の目もある。
「紫さまにおかれては、こちらに帰って来て下さってからは並々ならぬ努力をして頂いて」
そこまで言うと領主が頭を下げた。
「え? 領主さん、やめてください」
「紫さまが民と話すのが不得手だと此之葉から聞いておりました。 それなのに毎日民とお話をして下さって」
まだ領主の頭は上がっていない。
「とにかく、頭を上げてください」
領主がゆっくりと頭を上げる。
「もう! 領主さん、頭は下げないでください。 たしかに私はまだここのことをよく分ってはいません」
領土史や歴代の “紫さまの書” を読んでもそれは民との触れ合いが書かれているものではなかった。
たしかに人見知りもあるし、自分のことを期待する民との接触を出来るだけ避けていた数か月だったが、徐々に話していくと段々と慣れてきた。
祖母と自分を区切った。 自分は祖母のようにはなり得ないのだから。 そして何代もの紫と名を残す者も名が同じと言っても自分ではないのだから。 自分は自分の道を模索するしかないのだから。
「皆さんに教えてもらっているんです」
この地の農業や工芸のことを。 そして家族の成り立ちやあり方を。
「彼の地とこの領土はあまりにも違いすぎますでしょう」
「領主さん、日本のことは言わないでください。 戻りたいと思っても、もう戻れないんですから」
「お戻りになられたいのですか?」
紫揺が笑みを向ける。
「そんなはずありません」
と、その時ガザンの遠吠えが響いた。
「あれ? どうしたのかな?」
土佐犬のガザンと共に入った東の領土。 ガザンは最初、外飼いではなく紫揺の家の中を闊歩していた。
最初は紫揺の家に出入りする誰もが恐がったが、その誰もがガザンは紫揺の為に居ると分かり皆が認めた。 そしてガザンも紫揺の為に皆が居ると分かり皆を認めた。
一人づつ臭いを嗅がれた時には全員が硬直状態にはなったが、この関門を通らなければ紫揺に付けないと知るとそれも我慢が出来た。
今では勝手に外に出て行って、領土の民が誰もガザンを認め、ガザンも領土の民を認めていたし、他の動物たちともガザンは上手くやっているようだ、と言おうか、自由に領土内を歩いている猫も犬もガザンに一目を置いているらしい。
「ちょっと見てきます」
紫揺が足早に家に戻ると玄関に座っていたガザンが紫揺の足元に絡みついた。
「なに? どうしたの?」
しゃがんでガザンの顔を撫でてやる。 途端、ガザンのベロンベロン攻撃が始まった。
「わっ、どうしたの!?」
久しいベロンベロン攻撃であった。
「キョウゲン」
「はい・・・」
まただ。 何故、マツリの心が読めなかった、伝わってこなかった。
「そろそろ地下の者が動くであろう」
「・・・然に」
キョウゲンが即答しないとはおかしい。
「どうした?」
「いえ」
「急いでくれ」
今までになく祭の座を早く辞してきた。 祭の場につく前にはある程度領土の中を飛んだが、それほど長くは宮を空けてはいない筈だが気になる。
「御意」
シキの長きにわたる婚姻の儀が終わった。 それから二ヵ月間、地下の者がいつリツソに手を出すかマツリが目を配っていたがその様子が見られなかった。
もう一度地下の様子を見て廻りたかったが、本領領主である四方から各領主に礼を言うようにと仰せつかり日を分けて飛んだ。 その時にも地下からの動きはなかった。
そして三月、東の領土においては祭がある時期であった。 だから前日の夕刻に南の領土に姿を現し領土を見て回り、北と西の領土にはその前日の夕刻に飛んでいた。 北では狼たちからの報告で不穏なものは無いということであった。
そして最後の東の領土だけは祭と合わせて飛ぶため、夕刻より早めに出て先に領土を回っていた。 領土は落ち着いており辺境からも民が祭に集まっていた。
すでに月明かりは出ている。
宮に戻ったマツリが回廊を歩きながらリツソを呼ぶ。
「リツソ様で御座いますか? 今日はとんとお見掛け致しませんが」
こんなに遅くまで仕事をしていたのだろうか、偶然前を歩いてきた文官が言う。
「リツソを見なかったか」
渡殿の下を歩いていた職人に訊くが職人は首を横に振るだけであった。
そんな時、リツソに勉強を教えている初老の男がマツリに走り寄ってきた。
「夕刻よりリツソ様が見えません」
今日は夕刻前にやっと捕まえてそのまま勉学を進めるつもりだったのにまた逃げられ、その後にも見つけることが出来なかった、と付け足した。
「お爺様のところには?」
「四方様が馬を走らされましたが門の番が言うに、ご隠居様のところにも行っておられないようです」
「ハクロかシグロがここに来たか?」
「北のオオカミが来たとは聞いておりません」
リツソが紫揺に会いたくて一人宮を出たと考えられるが、リツソは東の領土を知らない。 それ故に迷子になっている可能性もあるが、地下の者が関係しているとも考えられる。
先にどこに動くか。 どちらに絞るか
「承知した」
足を一歩踏み出した時、思いつくことがあった。
「ああ、それと」
辞儀をしかけた初老の男が頭を止める。
「カルネラは?」
「はて、そう言われれば見当たりません」
「勉学の時にはいつもカルネラはどうしておる」
「午前ですと時折リツソ様のお房にいるようですが、午後には午睡を楽しんでいるようで見かけることは御座いません。 休憩を入れた夕刻にはお房に居たり居なかったりと」
「そうか。 承知した」
初老の男に答えると父親である四方の自室に向かう。 初老の男が辞儀でマツリを見送った。
「父上」
銀色の短髪、威風堂々とした四方が顔を上げる。
「マツリか。 入れ」
部屋に入るといつも居る側付きが居ない。 四方が硬い顔をしている。
「お側付きはどうされました?」
「ああ、最近顔色が悪いのでな、今日はもう戻らせた」
「そうですか」
あの側付きが顔色を悪くしているとは珍しいことだ。 小さな頃から知っているが今まで一度もそんなことは無かったというのに。
「リツソが見当たりませんが」
東の領土の報告の前に言うと固い顔をした四方が「うむ」 と一言いって先を続ける。
「宮の中は探したが見当たらん。 また宮を出たのかもしれんと今は宮の外を探しておるが未だに見当たらん」
リツソに勉学を教えている初老の男からリツソが居ないと聞いて今も探しているのだろう。
「地下の者が考えられるか?」
「充分に」
シキの婚姻の儀から地下の者がリツソを狙ってくるかもしれない、それはリツソが攫われるかもしれないということを四方に進言していた。
「宮の者にはこのままリツソを探させる」
地下ではないところを探させるということだ。 地下には簡単に入れない。 道に入って行けないということではない。 精神的にということである。
「カルネラは見当たりませんでしたか?」
「カルネラともども居なくなったようだ」
「そうですか。 では地下を探りに行って参ります」
「頼む」
一旦、部屋に戻り用意していた革袋を手にするとそれを懐に入れ、下足番がマツリの部屋の横に必ず用意している磨き上げられた長靴を履く。 勾欄を蹴り上げキョウゲンに跳び乗った。
薄い灰色の顔から始まって段々と羽先と尾にいくほどに黒い色をしたフクロウが本領の空を飛び、岩山の麓にある地下に続く洞を潜る。
洞の左右の入口は大きくなったキョウゲンの翼で少し余裕がある程度であるが、入ってしまえば段々と左右に広くなっていく。
暗い洞に入ると所々に置かれた小さな光石が岩の上で点灯しているが、小さな光石なだけに辺りを煌々と照らすほどではない。
充分に広い所になりキョウゲンの背からマツリが跳び下りた。 洞の天井ギリギリに大きく縦に輪を描いてその間に身体を小さくしたキョウゲンがマツリの肩に乗る。
首元で括られた平紐から数本のマツリの銀髪が零れ落ちている。
ここはまだ地下の者が行きかう場所ではない。 ずっと目の先を見ると光石の下で酒におぼれている者や禁止されている薬草を乾燥させ砕いて紙に巻いて吸っている者たちの影が朧(おぼろ)に揺れて見える。
キョウゲンを肩に乗せ、長く緩い下り坂に足を踏み入れた。
下り坂が終わる頃には左右に広くなっていて塀さえ見える。 地下の天となる岩の天井は見上げてもすぐそこにはなく高い所にある。 換気口のように空いている所々にある穴からは星さえ見える。 まるで一つの町のようである。
そのまま歩いて行くと、右に左に座り込んでいる男たちを見て回る。 賭け事をしている四人の男たちの一人が顔を上げた。
「これはこれは、マツリ様。 このような所に何をしに?」
「たまに回っておる。 それより新顔はおらんか?」
「さあて、見かけませんなぁ」
「そうか。 賭け事で身を滅ぼすのではないぞ」
そう言うとその場を立ち去った。
「滅んだからここに居るんだって話だってんだっ」
薄い木で出来た札(ふだ)を一枚投げつけるように出した。
「税で身を立てているヤツに言われたくないってもんだ」
出されていた札の上に自分の札を投げつけその二枚を手に取る。
「けっ、持ってたのかよ」
「負け逃げすんじゃねーぜ」
「まあ、オレたちゃ税なんて払ってないがな」
四人の男たちが顔を見合わせるとこ馬鹿にするように鼻で笑い、去って行ったマツリの姿を見ようとしたがその姿はもうどこにも見当たらなかった。
塀に囲まれた細い路地に身を入れ入って来た方に身を返したマツリ。 その奥から白い手が伸びてきて腕を掴まれた。
「マツリ様・・・」
同時に小声でマツリを呼ぶ。
「俤(おもかげ)か」
肩越しに後ろを見る。
「今日は奴らが頻繁に動き回っております。 もう少し奥に」
マツリが身体の向きを変え奥に進む。 マツリの後方には後退する俤が目を光らせている。 奥には光石がない。 マツリが向きを変えたことで奥の薄暗い中にはマツリたちには見えない者をキョウゲンが目を光らせることが出来る。
ある程度進むと後退をしていた俤が足を止めた。
「何かあったのか」
リツソのことを問う前に地下の者達が頻繁に動き回っているという理由を訊く。
「昼過ぎからバタバタと動きが活発になりました。 外とここを出たり入ったりしているようでした。 夕刻過ぎには一抱えの袋を担いで奴のところに入って行きました」
「城家主か」
この地下を仕切っている元締め。 手下(てか)の者に自分のことを城家主と呼べと言っている。
「はい。 それからというものは外との出入りは少なくなりましたが、その分地下のあちこちを歩き回っております」
「リツソが見当たらん」
「え?」
「その担いでいた袋にリツソが入っていたと考えられるか?」
まさかと思いながらも見たままをマツリに聞かせる。
「袋が動くことはありませんでした。 声も聞こえませんでしたが、気を失っておられたのなら考えられるかもしれません。 肩に担いで、まるで粉でも入っているように前後に垂れておりました」
「それがリツソであれば、多分カルネラも一緒だと思う」
「カルネラとは?」
「リツソの供であるリスだ。 赤茶色に腹が白、耳に黒い飾毛を持っておる。 まだ言葉を上手く話せないが、その様なリスを見かけたら捕まえてくれ」
「畏まりました。 それと随分前と最近に城家主の手下に褒美が渡されました。 その内容はまだ掴みきれていません」
「そうか」
リツソのこととは関係がなさそうだ。
「申し訳ありません」
随分と前だと言うのにまだ何も掴みきれていない。
「焦らずともよい。 よいか、絶対に踏み込み過ぎるな。 お前の身に危険が及んではどうにもならん。 今から城家主の元に向かう。 このままこの辺りを探っていてくれ」
「お一人で? それは危険です」
「リツソが攫われたと決まったわけではない。 武官も誰も寄こすわけにはいかん」
「では己だけでもついて参ります」
「万が一にもお前の面が割れてはこれからが困る」
マツリはお付きも配下も持たないが、この青年だけは自らマツリの手足になりたいと、手下として使ってほしいと言ってきた。
何度も断ったが引く様子を見せなく毎日通ってくる始末だった。
疑う相手ではない事は分かっていた。 だが念のため魔釣の目で見ると、瞳の中に禍(まが)つものなどなく、それどころかマツリや領土に対して陰の一つも視えなかった。
よって己の目と耳として使い色んなところを回らせた。 そして今は地下を見張らせている。