辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第3回
この一年で紫揺はお付きたちの指導の下、馬に乗れるようになっていた。
最初は阿秀が教えていた。 何故なら怪我をさせてはどうするのか、と全員がソッポを向いたからであったが、五色である紫揺の頼みごとを断るわけにはいかない。 しぶしぶ阿秀が教えていたが、余りの上達ぶりに全員が指導に乗り出していた。
シキの婚礼の儀を見終え本領から東の領土に戻る。 騎乗用に着替えを終えた紫揺と領主はそれぞれが馬に乗り、此之葉は前回と同じく後ろに見張番の男が乗って二人乗りの状態で宮を出ると本領と領土を結ぶ岩山を上り、馬を見張番に返した。
前後を固めていた見張番が、領主に荷物を渡すとそのままさらに徒歩で岩山を上って洞まで戻る。
その洞に入ると本領と各領土を繋ぐ四つの洞に分かれているが、それは不思議な空間を通ることになる。 本領と各領土は洞を歩いて着けるほど距離は短くはないのに、各領土に戻ることが出来るのだから。
洞を抜けるとまた徒歩で東の領土の山を下り、その後は待っていた二台の馬車の一台に紫揺と此之葉が乗り込み、もう一台には領主とそれぞれが渡された祝いの品を乗せ家に戻った。
品と言っても各領土は徒歩で山を下りねばならないことは分かっている。 重い物を持たせるわけにはいかない。 本領でのみ採れる数種類の茶葉であったり、衣に香り付けするための香であったりと、とにかく軽いものであったがどれも一級品である。 唯一重い物があったがそれは上質な絹の反物であった。
「盛大でしたね」
「まだあと三日も続くんですよねー、シキ様も大変だぁ」
夕飯の席である。 紫揺の家でいつものように、此之葉と二人で食事をとっている。
「最後の二日は馬車行列と聞きました・・・。 その、紫さまはその様なことは・・・」
「え? もしかしてまだリツソ君のことを疑ってるんですか?」
「・・・もし本領から言い切られてしまいますと、領主は断ることが出来ません」
「リツソ君だってこれから色んな人と知り合っていくんですから、そのうち歳のあった女の子と恋をしますよ」
あっさりという紫揺。 よくよくリツソのことを知っているようだ。
今まで訊くことはなかったし、紫揺は東の領土を選んだのだ、訊く必要もないと思っていたが、紫揺は知る筈のないマツリとリツソのことを知っている。 それはどうしてなのだろうか。
「紫さまは本領に行かれる前からマツリ様とリツソ様のことをご存知でした。 それはどうしてですか?」
始めて此之葉が紫揺からマツリの名を聞いたのは、日本の紫揺の家でやっと紫揺が領主と会うことに諾と言った日、領主と話していた時だった。
「北の領土にいる時に、領土の者以外が居るってことで、リツソ君が見に来たの。 その何日か後にマツリも来たんだけど。 その時のマツリの態度が気に喰わない事ったらなかったです。 あー、思い出しただけでも腹が立ってくる」
本領の宮であった時のことも思い出してきたのか声に怒りがこもってくる。
「あ、それ以上思い出されなくて宜しいですので。 それでリツソ様とは?」
本領でマツリと紫揺の罵倒の仕合は実際に聞いていたし、見てもいた。 あの時のことを思い出されてはやっかいである。
サラリと紫揺の感情を流した此之葉はこの一年で随分と紫揺をかわすことが出来る様になっていた。
「うん。 あれから何度会ったかなぁ? けっこう頻繁に北の領土に来てました。 で、一度昼間に来たから学校をサボっちゃいけないって言ったほどです。 あの時は本領も北の領土も何も分かっていませんでしたから」
てっきりあまりの寒さから、北海道かどこかかと思っていたくらいなのだから。
此之葉が難しい顔をする。
「どうしました?」
「それがどうして紫さまがリツソ様の許嫁などというお話になるのでしょうか」
「うーん、シキ様が仰るには『マツリに言わせるとリツソの初恋のようですから』 ってことらしいですし、シキ様は私のことを義妹にしたいと仰るし、澪引様は義娘として歓迎って仰るし」
「え? では澪引様だけが考えておられるのではなくて、リツソ様が紫さまのことを想っておられるのですか?」
「らしいです。 でも今日も澪引様についてこなかったから、そろそろ熱も冷めてきてるんじゃないかな」
「少なくとも今日リツソ様が抜けられるということは出来なかったと思います。 澪引様ですら、あの短い時しか抜けられなかったのですから」
そう言い終え溜息を洩らした此之葉をちらりと見る紫揺。
「大丈夫ですって。 リツソ君はまだまだ小さな男の子なんですから」
「ですがもう十五の歳におなりになりました。 十五になれば許嫁ももらえますし、婚姻も出来なくはありません。 十七にでもなれば十分に婚姻が出来ます」
そう言われれば南の領土の五色も早い歳に結婚をしていたのだった。 ここは日本と結婚の年齢感覚が違うのか。
「大丈夫ですって。 それより此之葉さんは?」
「はい?」
「結婚・・・婚姻しないんですか?」
此之葉が顔を赤くして下を向いてしまった。
此之葉の想い人は分かっている。 そして相思相愛だろう。 だがその相手がけっこうな堅物だ。 なかなかプロポーズをしそうにない。 もういい歳だというのに。
この領土では料理が出来なくては嫁に出ることは出来ないらしい。
昨年までずっと紫揺を探すためだけに、洞に座り続けた師匠について教えを乞うていた此之葉だ。 料理など出来るはずはない。
だが、半年前くらいから、女たちについて料理を教えてもらっている。 此之葉は結婚をしたいのだろうか。 それとも女のたしなみと考えているだけなのだろうか。
「よう」
振り向くと随分と前に二人がかりでヨイショし持ち上げた城家主の手下の者がいた。
「よう、あんときは、ごっそさん」
「嘘って分かってても、あれだけ煽(おだ)てられりゃーな」
「嘘じゃないって言っただろーが」
「もうその手にゃ乗らないぜ」
「それは残念」
「諦めの早い奴だな」
「城家主んところに居ないでこんな所をブラブラしてていいのかよ、誰かに見つかったらチクられんじゃないのか?」
「城家主は今上機嫌だからな、少々のことで難癖付けてこねーわな」
「城家主が上機嫌っちゃー、気味が悪いな」
「じゃ、別の奴を誘うか」
「なんだよ、それ」
「おこぼれを貰った」
革袋をチラつかせる。
「おっ、それを早く言ってくれよ。 いくらでも付き合うぜ」
本領でのことが落ち着いたのだろうか、二か月ほどした夕刻にマツリがやって来た。
基本マツリは夜に飛ぶ。 供のキョウゲンがフクロウだからである。 だからといって夜に見回っていると民の様子が見られない。 それに北の領土と違ってこの東の領土にはヒオオカミのように日々、民を見ているものがいない。 従って領土の様子を見るに夕刻前に飛んできて、ある程度領土を一回りし終えたのだろう。
「マツリ様」
キョウゲンから跳び降りたマツリに秋我が駆け寄る。
「久しいな」
「此度はシキ様のご婚姻、御目出とう御座います」
マツリが頷いて応える。
「ある程度飛んできたが、領土は落ち着いているようだな」
「はい。 中心では日々紫さまが民に声を掛けて下さり、領土に慣れられた頃には辺境まで行かれて民にお顔を見せて下さっておりますので」
マツリと紫揺の仲の悪さはこの目で見てこの耳で聞いていたが、報告をしないわけにはいかない。
「本領の方ももう落ち着かれたのですか?」
シキの婚姻の儀の後の落ち着きと訊いている。
「ああ、落ち着いた。 領主に足労をかけた。 礼を言いたいが領主は?」
「家に居ります。 どうぞこちらに」
二人の様子を偶然見ていた塔弥が領主の家に走り、ほぼ紫揺が東の領土に来たと同じ頃から同居している秋我の嫁である耶緒(やお)に言いに行き、その足で紫揺の家に向かった。
「は? マツリが?」
「本領も落ち着かれたのでしょう。 そろそろ領土廻りを始められたようです」
「あの、紫さま、マツリ様とお呼び下さいませ」
お願い致します、と此之葉が頭を下げる。
「会いに行かなければいいんですよね? 領主さんとの間で用は終わるんでしょう?」
本領にいた時のあのマツリの気の抜ける対応を思い出す。 別にケンカをしたいわけではないが、あれ程ケンカ腰にしていたのに、太鼓橋に腰かけている時に気の抜けるような態度であった。 その後、リツソの部屋にいた時も。
「そういう訳には・・・」
だが紫揺の言った通り、マツリは領主に礼を言うと早々に立ち去ったということであった。
十二月も半ばを過ぎると、温暖な東の領土といえど外に出ると寒さを感じる。
ベンチコートが恋しいとまでにはいかないが、ジャージが恋しい。 寒い季節には足首まであると言えどスカートであるが為、足元がスースーして堪らない。
馬に乗る時にはズボンを穿くが、今日は領土の中を歩き回り、女や子供たちに声を掛ける。
「歩いてる内に暖かくなってくるだろな」
身体を温める為にも目いっぱい歩き回ろうと心に誓う。
一月二月と過ぎ、東の領土の短い冬が終わった。 それでも雪が降るほどには寒くないし、寒風など数えるほどであった。
三月に入り暖かいとまでは言えないが、過ごしやすい季節になった。
朝の食事のおり、此之葉からこの月の満月の日に祭があると聞かされた。 領土史を読んでいて祭のことは知っていたし、昨年経験しているがついうっかり忘れていた。
「あ、春のお祭ですね」
東西南北の各領土には春夏秋冬を合わせ考え、それぞれ自分たちの領土の季節に祭を行う。
東の領土は春にあたるので三月に祭を行う。 そしてその時に本領を招く。 今まではシキとマツリを招いていたが、シキが本領の仕事を退いたので、今年からはマツリだけを招くということになる。
「今年はどんな風にするんですか?」
「毎年同じです。 特に変わったことなどありません。 民が喜んでいる姿をマツリ様に見て頂くだけです」
櫓(やぐら)を立ててその上で音楽を奏で、民が櫓の周りで踊るということである。
「じゃ、去年と同じようにしていればいいんですね」
とは言っても去年はシキが居たし、基本この東の領土を見ていたのはシキだ。 マツリと話すことなど無かった。 だが今年はそうはいくまい。
「お願い致しますから、そのおりにはマツリ様とお呼び下さい」
またもや頭を下げられてしまった。
「話しませんから安心してください」
決して “マツリ様” と呼ぶことに同意しない。
「紫さま・・・」
「せいぜい、領主さんの横で頷いておきます」
この月、紫揺は23歳になるが、強情さは丸くなっていないようだ。
先(せん)の紫もそうだったが、紫揺も春の祭りのある三月生まれであるから、紫の誕生祝は翌月の満月の日とされていた。
二カ月続けての祭である。
そしてとうとう今晩が満月という日がやって来た。
前日には櫓が立てられていて楽器の練習が始まっている。
領主の家では秋我の嫁である耶緒がマツリにどんな茶を用意しようかと迷っている。
「本領の茶は上手かったからなぁ。 あれに勝る茶はこの領土には無いわなぁ」
「昨年もそんなことを仰っていただけで・・・うっ」
「大丈夫か?」
「え・・・ええ。 病気ではありませんもの」
茶葉の香りが胃をついたようだ。 初めての妊娠で今は悪阻(つわり)に襲われている。
「無理をしなくていい。 此之葉を呼んでこよう」
「年に一度のことですから、すべきことは・・・」
別の茶葉の香りがまたもや胃に充満してきたようだ。 鼻と口を押えて座り込む。
「ほら、無理をするんじゃない。 少しゆっくり寝ておいで」
耶緒の腕を取ると立ち上がらせ、寝室に向かった。
夜になり祭が始まった。 東の領土では月明かりの下で踊ることを何よりも好んだ。 よって来月の紫揺の誕生の祝いも満月の下で行われる。
櫓に上がった者達が音楽を奏で櫓の下で民たちが踊る。 辺境から来ている者もいる。 かなりの人数となっている。 その民たちは本領から誰が来ているかなど気にもしていない。
「昨年に続いて賑わっておるな」
独り言のように言うと、櫓から離れた所で卓が用意されている椅子に腰かける。
その姿は一センチ程の幅に鞣した皮の紐を黒に染め、丸襟のベストのような形に編んであり、その下には横にスリットの入った膝丈より少し上の絹の黒い上衣、下は上衣と同じ絹の筒ズボンでその下に長靴(ちょうか)を履いている。
「やはり紫さまが帰って来て下さったのが大きいかと」
領主が同じように椅子に腰をかけ、それに続いて秋我も腰かけた。
「一昨年まではこんな風に民が喜んではおらなかったし、これ程の民もいなかったか・・・」
「はい、辺境からも集まってきておりますので」
「それほどに紫の存在が大きいということか」
領主に話しかけるでもなくまるで独り言のように言っているが、それを聞いた領主が両方の眉毛を上げた。
領主も此之葉や秋我と同じく、マツリと紫揺の仲の悪さを知っている。 よって紫揺のことを言うのを憚(はばか)りながらであったが、存外マツリが平気な顔をして紫揺の話をしている。
その紫揺は領主の隣に居ない。 民と一緒に櫓の下で踊っている。 五色としてマツリを迎えねばならないというのに。
だが、ここでまた二人にケンカをされては困ると、領主が櫓の下で民と一緒に踊っているという紫揺を止めなかった。
領主が秋我に目顔を向けた。 秋我が頷き席を立つ。
すれ違いに此之葉が茶を持ってきた。
「うん? 秋我の奥・・・耶緒といったか、どうした?」
昨年は耶緒を紹介され、此之葉に代わって耶緒が茶を淹れていた。
「申し訳ありません。 耶緒は今、悪阻でして、どうも特に茶の臭いに敏感になっているようで、茶葉を選んでいる時に具合を悪くしまして・・・」
此之葉に代わって返事をしたのは領主である。
「おお、それは目出度い。 領主も楽しみであろう」
秋我には弟が居るとは聞いているが、秋我は領主の長男である。 生まれてくれば領主の初孫にあたるはずだ。
「ええ。 ですが長いあいだ子に恵まれませんでしたから、生まれてくれば私以上に秋我が喜ぶでしょう」
「長い間とは? たしか秋我は我より十の歳上だったか。 十の年の間くらい出来なかったということに?」
今年36になるはずだ。 今のマツリの歳で結婚していれば十年も出来なかったということになる。 マツリが心の中で考えていると領主の声がした。
「16の年の間、恵まれませんでした」
「え?」
思いもしない年数だ。
「秋我は二十の歳で、耶緒は十五の歳で婚姻しました」
「じゅう・・・ご」
決して早すぎるわけではないが、己を考えると十五の歳で身を固めるとは考えられない。 男と女では違うのかもしれないが、それにしても秋我の二十の歳というのも考えられない。
「では身体を大事にしてもらわなければならんな」
「ええ、ここに秋我の母親か弟の連れ合いでもいればよかったのですが」
秋我の母親、言い変えれば領主の嫁が亡くなっていることは知っていたが、どうしてここに秋我の弟の嫁の話が出てくるのか?
「もしや?」
「ええ、弟の方にはもうおりまして。 三度の出産を経験しておりますから、頼りになったことと思います」
先ほどまではてっきり初孫が生まれてくると思っていたが、そうでは無かったようだ。
「シキ様は早々にご懐妊されると良いですな」
「そうなれば我は叔父になるというわけか」
下を向いてクスリと笑う。
「シキ様だけではなくマツリ様もそろそろ?」
「その様なことは遠いであろうな」
そう言うと前に置かれた茶を一口飲んだ。
「リツソ様の許嫁を考えておられるのに?」
「え?」
「先日シキ様の祝いのおり、お方様から紫さまをリツソ様の許嫁にと申されまして」
ご存じなかったのですか? と付け足して問う。
「ああ、そういうことか。 母上が言ったのは知らぬが、紫がリツソの想い人であることは知っておる。 母上はリツソのことを可愛がっておられるゆえ、リツソのことを想って仰ったのであろう。 軽く受け流してよいのではないか?」
「リツソ様が紫さまに?」
「領主さん、その話は・・・」
秋我に付き添われて紫揺がやって来た。 領主が振り返る。
「紫か。 姉上の婚礼の儀には足労であった」
背中を見せたままマツリが言う。
「こちらこそ、手厚い接待を有難うございました」
背中のマツリにほぼ棒読みで返す。
「リツソのことはどうするつもりだ」
「どう、とは?」
「母上の申し出を受けるのか」
「澪引様にはちゃんと返事をしました。 本領に帰って澪引様に訊いて下さい。 それにさっき、領主さんに受け流して下さいって言ってましたよね」
此之葉がハラハラして会話を聞いているが、どうにか “言ってたわよね” ではなく “言ってましたよね” と、ギリギリアウトではあるが、それでも完全アウトでないことに胸を撫で下ろす。
「言った。 だが今は紫の気持ちを訊いただけだが。 そうか、母上に返事をしているのならそれで良い」
「澪引様はリツソ君がこの一年・・・一の年で変わったって仰ってたけど、そうなんですか」
リツソのことをリツソ君と呼ばないように、リツソ様と呼ぶようにというのを言い漏らしていた、と此之葉が額に手をやる。
「母上が?」
領主を見ると領主が頷いてみせている。
「母上がそう仰ったのであれば、母上にはそう見えるのであろう」
その返事で十分に内容がわかる。
「領主さん、もういいですか?」
「ああ、紫はまだここに居るとよい。 我が去ろう。 領主、祭を楽しませてもらった。 秋我、耶緒を大切にな」
そう言い残すと椅子から立ち上がり、紫揺の横を過ぎて歩き出した。
この一年で紫揺はお付きたちの指導の下、馬に乗れるようになっていた。
最初は阿秀が教えていた。 何故なら怪我をさせてはどうするのか、と全員がソッポを向いたからであったが、五色である紫揺の頼みごとを断るわけにはいかない。 しぶしぶ阿秀が教えていたが、余りの上達ぶりに全員が指導に乗り出していた。
シキの婚礼の儀を見終え本領から東の領土に戻る。 騎乗用に着替えを終えた紫揺と領主はそれぞれが馬に乗り、此之葉は前回と同じく後ろに見張番の男が乗って二人乗りの状態で宮を出ると本領と領土を結ぶ岩山を上り、馬を見張番に返した。
前後を固めていた見張番が、領主に荷物を渡すとそのままさらに徒歩で岩山を上って洞まで戻る。
その洞に入ると本領と各領土を繋ぐ四つの洞に分かれているが、それは不思議な空間を通ることになる。 本領と各領土は洞を歩いて着けるほど距離は短くはないのに、各領土に戻ることが出来るのだから。
洞を抜けるとまた徒歩で東の領土の山を下り、その後は待っていた二台の馬車の一台に紫揺と此之葉が乗り込み、もう一台には領主とそれぞれが渡された祝いの品を乗せ家に戻った。
品と言っても各領土は徒歩で山を下りねばならないことは分かっている。 重い物を持たせるわけにはいかない。 本領でのみ採れる数種類の茶葉であったり、衣に香り付けするための香であったりと、とにかく軽いものであったがどれも一級品である。 唯一重い物があったがそれは上質な絹の反物であった。
「盛大でしたね」
「まだあと三日も続くんですよねー、シキ様も大変だぁ」
夕飯の席である。 紫揺の家でいつものように、此之葉と二人で食事をとっている。
「最後の二日は馬車行列と聞きました・・・。 その、紫さまはその様なことは・・・」
「え? もしかしてまだリツソ君のことを疑ってるんですか?」
「・・・もし本領から言い切られてしまいますと、領主は断ることが出来ません」
「リツソ君だってこれから色んな人と知り合っていくんですから、そのうち歳のあった女の子と恋をしますよ」
あっさりという紫揺。 よくよくリツソのことを知っているようだ。
今まで訊くことはなかったし、紫揺は東の領土を選んだのだ、訊く必要もないと思っていたが、紫揺は知る筈のないマツリとリツソのことを知っている。 それはどうしてなのだろうか。
「紫さまは本領に行かれる前からマツリ様とリツソ様のことをご存知でした。 それはどうしてですか?」
始めて此之葉が紫揺からマツリの名を聞いたのは、日本の紫揺の家でやっと紫揺が領主と会うことに諾と言った日、領主と話していた時だった。
「北の領土にいる時に、領土の者以外が居るってことで、リツソ君が見に来たの。 その何日か後にマツリも来たんだけど。 その時のマツリの態度が気に喰わない事ったらなかったです。 あー、思い出しただけでも腹が立ってくる」
本領の宮であった時のことも思い出してきたのか声に怒りがこもってくる。
「あ、それ以上思い出されなくて宜しいですので。 それでリツソ様とは?」
本領でマツリと紫揺の罵倒の仕合は実際に聞いていたし、見てもいた。 あの時のことを思い出されてはやっかいである。
サラリと紫揺の感情を流した此之葉はこの一年で随分と紫揺をかわすことが出来る様になっていた。
「うん。 あれから何度会ったかなぁ? けっこう頻繁に北の領土に来てました。 で、一度昼間に来たから学校をサボっちゃいけないって言ったほどです。 あの時は本領も北の領土も何も分かっていませんでしたから」
てっきりあまりの寒さから、北海道かどこかかと思っていたくらいなのだから。
此之葉が難しい顔をする。
「どうしました?」
「それがどうして紫さまがリツソ様の許嫁などというお話になるのでしょうか」
「うーん、シキ様が仰るには『マツリに言わせるとリツソの初恋のようですから』 ってことらしいですし、シキ様は私のことを義妹にしたいと仰るし、澪引様は義娘として歓迎って仰るし」
「え? では澪引様だけが考えておられるのではなくて、リツソ様が紫さまのことを想っておられるのですか?」
「らしいです。 でも今日も澪引様についてこなかったから、そろそろ熱も冷めてきてるんじゃないかな」
「少なくとも今日リツソ様が抜けられるということは出来なかったと思います。 澪引様ですら、あの短い時しか抜けられなかったのですから」
そう言い終え溜息を洩らした此之葉をちらりと見る紫揺。
「大丈夫ですって。 リツソ君はまだまだ小さな男の子なんですから」
「ですがもう十五の歳におなりになりました。 十五になれば許嫁ももらえますし、婚姻も出来なくはありません。 十七にでもなれば十分に婚姻が出来ます」
そう言われれば南の領土の五色も早い歳に結婚をしていたのだった。 ここは日本と結婚の年齢感覚が違うのか。
「大丈夫ですって。 それより此之葉さんは?」
「はい?」
「結婚・・・婚姻しないんですか?」
此之葉が顔を赤くして下を向いてしまった。
此之葉の想い人は分かっている。 そして相思相愛だろう。 だがその相手がけっこうな堅物だ。 なかなかプロポーズをしそうにない。 もういい歳だというのに。
この領土では料理が出来なくては嫁に出ることは出来ないらしい。
昨年までずっと紫揺を探すためだけに、洞に座り続けた師匠について教えを乞うていた此之葉だ。 料理など出来るはずはない。
だが、半年前くらいから、女たちについて料理を教えてもらっている。 此之葉は結婚をしたいのだろうか。 それとも女のたしなみと考えているだけなのだろうか。
「よう」
振り向くと随分と前に二人がかりでヨイショし持ち上げた城家主の手下の者がいた。
「よう、あんときは、ごっそさん」
「嘘って分かってても、あれだけ煽(おだ)てられりゃーな」
「嘘じゃないって言っただろーが」
「もうその手にゃ乗らないぜ」
「それは残念」
「諦めの早い奴だな」
「城家主んところに居ないでこんな所をブラブラしてていいのかよ、誰かに見つかったらチクられんじゃないのか?」
「城家主は今上機嫌だからな、少々のことで難癖付けてこねーわな」
「城家主が上機嫌っちゃー、気味が悪いな」
「じゃ、別の奴を誘うか」
「なんだよ、それ」
「おこぼれを貰った」
革袋をチラつかせる。
「おっ、それを早く言ってくれよ。 いくらでも付き合うぜ」
本領でのことが落ち着いたのだろうか、二か月ほどした夕刻にマツリがやって来た。
基本マツリは夜に飛ぶ。 供のキョウゲンがフクロウだからである。 だからといって夜に見回っていると民の様子が見られない。 それに北の領土と違ってこの東の領土にはヒオオカミのように日々、民を見ているものがいない。 従って領土の様子を見るに夕刻前に飛んできて、ある程度領土を一回りし終えたのだろう。
「マツリ様」
キョウゲンから跳び降りたマツリに秋我が駆け寄る。
「久しいな」
「此度はシキ様のご婚姻、御目出とう御座います」
マツリが頷いて応える。
「ある程度飛んできたが、領土は落ち着いているようだな」
「はい。 中心では日々紫さまが民に声を掛けて下さり、領土に慣れられた頃には辺境まで行かれて民にお顔を見せて下さっておりますので」
マツリと紫揺の仲の悪さはこの目で見てこの耳で聞いていたが、報告をしないわけにはいかない。
「本領の方ももう落ち着かれたのですか?」
シキの婚姻の儀の後の落ち着きと訊いている。
「ああ、落ち着いた。 領主に足労をかけた。 礼を言いたいが領主は?」
「家に居ります。 どうぞこちらに」
二人の様子を偶然見ていた塔弥が領主の家に走り、ほぼ紫揺が東の領土に来たと同じ頃から同居している秋我の嫁である耶緒(やお)に言いに行き、その足で紫揺の家に向かった。
「は? マツリが?」
「本領も落ち着かれたのでしょう。 そろそろ領土廻りを始められたようです」
「あの、紫さま、マツリ様とお呼び下さいませ」
お願い致します、と此之葉が頭を下げる。
「会いに行かなければいいんですよね? 領主さんとの間で用は終わるんでしょう?」
本領にいた時のあのマツリの気の抜ける対応を思い出す。 別にケンカをしたいわけではないが、あれ程ケンカ腰にしていたのに、太鼓橋に腰かけている時に気の抜けるような態度であった。 その後、リツソの部屋にいた時も。
「そういう訳には・・・」
だが紫揺の言った通り、マツリは領主に礼を言うと早々に立ち去ったということであった。
十二月も半ばを過ぎると、温暖な東の領土といえど外に出ると寒さを感じる。
ベンチコートが恋しいとまでにはいかないが、ジャージが恋しい。 寒い季節には足首まであると言えどスカートであるが為、足元がスースーして堪らない。
馬に乗る時にはズボンを穿くが、今日は領土の中を歩き回り、女や子供たちに声を掛ける。
「歩いてる内に暖かくなってくるだろな」
身体を温める為にも目いっぱい歩き回ろうと心に誓う。
一月二月と過ぎ、東の領土の短い冬が終わった。 それでも雪が降るほどには寒くないし、寒風など数えるほどであった。
三月に入り暖かいとまでは言えないが、過ごしやすい季節になった。
朝の食事のおり、此之葉からこの月の満月の日に祭があると聞かされた。 領土史を読んでいて祭のことは知っていたし、昨年経験しているがついうっかり忘れていた。
「あ、春のお祭ですね」
東西南北の各領土には春夏秋冬を合わせ考え、それぞれ自分たちの領土の季節に祭を行う。
東の領土は春にあたるので三月に祭を行う。 そしてその時に本領を招く。 今まではシキとマツリを招いていたが、シキが本領の仕事を退いたので、今年からはマツリだけを招くということになる。
「今年はどんな風にするんですか?」
「毎年同じです。 特に変わったことなどありません。 民が喜んでいる姿をマツリ様に見て頂くだけです」
櫓(やぐら)を立ててその上で音楽を奏で、民が櫓の周りで踊るということである。
「じゃ、去年と同じようにしていればいいんですね」
とは言っても去年はシキが居たし、基本この東の領土を見ていたのはシキだ。 マツリと話すことなど無かった。 だが今年はそうはいくまい。
「お願い致しますから、そのおりにはマツリ様とお呼び下さい」
またもや頭を下げられてしまった。
「話しませんから安心してください」
決して “マツリ様” と呼ぶことに同意しない。
「紫さま・・・」
「せいぜい、領主さんの横で頷いておきます」
この月、紫揺は23歳になるが、強情さは丸くなっていないようだ。
先(せん)の紫もそうだったが、紫揺も春の祭りのある三月生まれであるから、紫の誕生祝は翌月の満月の日とされていた。
二カ月続けての祭である。
そしてとうとう今晩が満月という日がやって来た。
前日には櫓が立てられていて楽器の練習が始まっている。
領主の家では秋我の嫁である耶緒がマツリにどんな茶を用意しようかと迷っている。
「本領の茶は上手かったからなぁ。 あれに勝る茶はこの領土には無いわなぁ」
「昨年もそんなことを仰っていただけで・・・うっ」
「大丈夫か?」
「え・・・ええ。 病気ではありませんもの」
茶葉の香りが胃をついたようだ。 初めての妊娠で今は悪阻(つわり)に襲われている。
「無理をしなくていい。 此之葉を呼んでこよう」
「年に一度のことですから、すべきことは・・・」
別の茶葉の香りがまたもや胃に充満してきたようだ。 鼻と口を押えて座り込む。
「ほら、無理をするんじゃない。 少しゆっくり寝ておいで」
耶緒の腕を取ると立ち上がらせ、寝室に向かった。
夜になり祭が始まった。 東の領土では月明かりの下で踊ることを何よりも好んだ。 よって来月の紫揺の誕生の祝いも満月の下で行われる。
櫓に上がった者達が音楽を奏で櫓の下で民たちが踊る。 辺境から来ている者もいる。 かなりの人数となっている。 その民たちは本領から誰が来ているかなど気にもしていない。
「昨年に続いて賑わっておるな」
独り言のように言うと、櫓から離れた所で卓が用意されている椅子に腰かける。
その姿は一センチ程の幅に鞣した皮の紐を黒に染め、丸襟のベストのような形に編んであり、その下には横にスリットの入った膝丈より少し上の絹の黒い上衣、下は上衣と同じ絹の筒ズボンでその下に長靴(ちょうか)を履いている。
「やはり紫さまが帰って来て下さったのが大きいかと」
領主が同じように椅子に腰をかけ、それに続いて秋我も腰かけた。
「一昨年まではこんな風に民が喜んではおらなかったし、これ程の民もいなかったか・・・」
「はい、辺境からも集まってきておりますので」
「それほどに紫の存在が大きいということか」
領主に話しかけるでもなくまるで独り言のように言っているが、それを聞いた領主が両方の眉毛を上げた。
領主も此之葉や秋我と同じく、マツリと紫揺の仲の悪さを知っている。 よって紫揺のことを言うのを憚(はばか)りながらであったが、存外マツリが平気な顔をして紫揺の話をしている。
その紫揺は領主の隣に居ない。 民と一緒に櫓の下で踊っている。 五色としてマツリを迎えねばならないというのに。
だが、ここでまた二人にケンカをされては困ると、領主が櫓の下で民と一緒に踊っているという紫揺を止めなかった。
領主が秋我に目顔を向けた。 秋我が頷き席を立つ。
すれ違いに此之葉が茶を持ってきた。
「うん? 秋我の奥・・・耶緒といったか、どうした?」
昨年は耶緒を紹介され、此之葉に代わって耶緒が茶を淹れていた。
「申し訳ありません。 耶緒は今、悪阻でして、どうも特に茶の臭いに敏感になっているようで、茶葉を選んでいる時に具合を悪くしまして・・・」
此之葉に代わって返事をしたのは領主である。
「おお、それは目出度い。 領主も楽しみであろう」
秋我には弟が居るとは聞いているが、秋我は領主の長男である。 生まれてくれば領主の初孫にあたるはずだ。
「ええ。 ですが長いあいだ子に恵まれませんでしたから、生まれてくれば私以上に秋我が喜ぶでしょう」
「長い間とは? たしか秋我は我より十の歳上だったか。 十の年の間くらい出来なかったということに?」
今年36になるはずだ。 今のマツリの歳で結婚していれば十年も出来なかったということになる。 マツリが心の中で考えていると領主の声がした。
「16の年の間、恵まれませんでした」
「え?」
思いもしない年数だ。
「秋我は二十の歳で、耶緒は十五の歳で婚姻しました」
「じゅう・・・ご」
決して早すぎるわけではないが、己を考えると十五の歳で身を固めるとは考えられない。 男と女では違うのかもしれないが、それにしても秋我の二十の歳というのも考えられない。
「では身体を大事にしてもらわなければならんな」
「ええ、ここに秋我の母親か弟の連れ合いでもいればよかったのですが」
秋我の母親、言い変えれば領主の嫁が亡くなっていることは知っていたが、どうしてここに秋我の弟の嫁の話が出てくるのか?
「もしや?」
「ええ、弟の方にはもうおりまして。 三度の出産を経験しておりますから、頼りになったことと思います」
先ほどまではてっきり初孫が生まれてくると思っていたが、そうでは無かったようだ。
「シキ様は早々にご懐妊されると良いですな」
「そうなれば我は叔父になるというわけか」
下を向いてクスリと笑う。
「シキ様だけではなくマツリ様もそろそろ?」
「その様なことは遠いであろうな」
そう言うと前に置かれた茶を一口飲んだ。
「リツソ様の許嫁を考えておられるのに?」
「え?」
「先日シキ様の祝いのおり、お方様から紫さまをリツソ様の許嫁にと申されまして」
ご存じなかったのですか? と付け足して問う。
「ああ、そういうことか。 母上が言ったのは知らぬが、紫がリツソの想い人であることは知っておる。 母上はリツソのことを可愛がっておられるゆえ、リツソのことを想って仰ったのであろう。 軽く受け流してよいのではないか?」
「リツソ様が紫さまに?」
「領主さん、その話は・・・」
秋我に付き添われて紫揺がやって来た。 領主が振り返る。
「紫か。 姉上の婚礼の儀には足労であった」
背中を見せたままマツリが言う。
「こちらこそ、手厚い接待を有難うございました」
背中のマツリにほぼ棒読みで返す。
「リツソのことはどうするつもりだ」
「どう、とは?」
「母上の申し出を受けるのか」
「澪引様にはちゃんと返事をしました。 本領に帰って澪引様に訊いて下さい。 それにさっき、領主さんに受け流して下さいって言ってましたよね」
此之葉がハラハラして会話を聞いているが、どうにか “言ってたわよね” ではなく “言ってましたよね” と、ギリギリアウトではあるが、それでも完全アウトでないことに胸を撫で下ろす。
「言った。 だが今は紫の気持ちを訊いただけだが。 そうか、母上に返事をしているのならそれで良い」
「澪引様はリツソ君がこの一年・・・一の年で変わったって仰ってたけど、そうなんですか」
リツソのことをリツソ君と呼ばないように、リツソ様と呼ぶようにというのを言い漏らしていた、と此之葉が額に手をやる。
「母上が?」
領主を見ると領主が頷いてみせている。
「母上がそう仰ったのであれば、母上にはそう見えるのであろう」
その返事で十分に内容がわかる。
「領主さん、もういいですか?」
「ああ、紫はまだここに居るとよい。 我が去ろう。 領主、祭を楽しませてもらった。 秋我、耶緒を大切にな」
そう言い残すと椅子から立ち上がり、紫揺の横を過ぎて歩き出した。