『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第113回
夕刻を過ぎた頃からガザンが紫揺の家の前でお座りをしている。 尻尾を踏んでしまわないかと、出入りする者たちは注意を払わなければいけない状態である。
やっと辺境から紫揺が戻ってきたのだから、出入りする人間の数は多い。 女たちが腕を振るって料理を作っているのだから。
辺境では民の家に泊まらせてもらっている。 辺境の民ももてなしてはいるだろうが、あくまでも辺境。 海近くに行けば魚や貝ばかり、山に入れば肉があるときもあるだろうが、木の実や山菜が主になってくる。 食材が片寄っているのは明らかである。
「ガザン、ちょっとだけ端に寄ってくれない?」
女が言うが、ガザンは耳を動かすだけで動く様子を見せない。
紫揺が馬に乗れるようになってからは、辺境にはお転婆で出ている。 その前は馬車で出ていて此之葉もついて来ていたが、お転婆で出るようになってからは此之葉は留守番になってしまっていた。
『馬車でついて行きます!』 と言い張ったのだが、馬車では到底行けないところもあるし時間がかかり過ぎる。 今までを取り戻したいから、時間を有効に使いたいと紫揺が説得したのだった。
『今までを取り戻したい』 というのを辺境の民が聞けば涙するだろうが、どこまで真実なのかは分からないと、お付きたちは疑いを持っている。 お転婆で走りたいだけじゃないのか? などとは口には出してはいない。
「今回は疲れたー」
額の煌輪を小さな座布団に戻すと、両手を投げ出し卓に突っ伏した。 家に戻って来てその足で湯に浸かり、着替えも済んでいる。
その姿を茶を淹れながらチラリと見る此之葉。
「どちらまで行かれたんですか?」
辺境にも色々ある。 此之葉は辺境の全てに足を運んだわけではない。 行ったことの無い所であれば想像を膨らませて聞くことしか出来ない。
「うんと・・・前に此之葉さんも行ったことのある、覚えてるかな? 山の麓の川沿いの集落の名生(みょう)お爺(じじ)」
突っ伏したままで顔だけ横に向け話している。
「はい、覚えています」
コトリと湯呑を置く。
ありがとう、と言いながら身体を起こし湯呑を手に取る。 熱すぎることなく飲み頃である。
「あの奥の山の中」
「え?」
「馬道があってね、馬のままで入れましたけど、よく生活出来てるなぁーって感じでした」
「あの先の山の中にも民が居たんですか?」
あの辺りでは、名生お爺のいる集落が人の住む最端だと思っていた。
「結構いました。 名生お爺のいる集落より多かったですよ。 生活は厳しいそうだったけど麓に下りる気はないって」
紫揺が急に辺境に行くと言い出した。 それまでは唱和の喪に服したいからと大人しく家の中に居たが、此之葉がいつもの通りに紫揺に付いていた。 隠してはいるつもりだろうが、此之葉が涙を堪えているのがよく分かった。
一週間、家の中で大人しくしていた。 此之葉のことが気にはなるが、日本で言うところの初七日までは大人しくしようと決めていた。
そしてその後しばらくは此之葉を自分から解放してあげようと、辺境に行くと言い出したのだった。
「そうですか。 いくら厳しくとも民にとってはその地が一番良いのでしょうね」
そう言うと間をおいて「紫さま」と居ずまいを正すような声を出した。
「ん? なんですか?」
「独唱様と唱和様のお話を沢山しました。 ・・・やっと、落ち着くことが出来ました。 お気遣いを有難うございました」
手をついて頭を下げる。
「あ・・・」
『お前の考えなど透けて見えるわ』 マツリにだけ透けて見られていたわけではなかったのか・・・。 それによく考えると、辺境で塔弥にも言われたのだった。 思い出したくない光景だった時に。
思わず頭を隠しかけて、そうでは無かったと思い直す。
「いや・・・そんな。 お気遣いだなんて気のせいだし・・・。 うん、でも、此之葉さんが元気になったのならそれでいい」
此之葉が頭を上げると咄嗟に腕ではなく両掌で頭を覆った。
「如何なさいました?」
「あ、いや、なんでもないです」
目には見えないのだった。 そろっと手を下ろす。
外風呂から上がってきたお付きたちが、ぞろぞろと紫揺の家に戻っていく。 阿秀だけはざっと汗と汚れを落としてから領主の家に足を向けていた。 辺境でのことと、紫揺のことを報告しなければいけない。
「にしても、あんな所に住んでるなんて知らなかったな」
辺境の集落を転々としていた時、最端と思われていた集落の奥の山に、まだ人がいると偶然耳にしたのだった。
「ああ、紫さまも山を下りるように勧めておられたが、かなり血が濃くなってきている様子だったな。 あのままでは良いことは無いだろう」
「それが不思議だ。 どうしてあの紫さまがそんなことに気付いたんだ?」
「たとえあの紫さまと言えど分かるだろう」
「そっかぁ? 俺は分からなかったぞぉ」
「お前が鈍感すぎるんだよ。 ところで塔弥」
全員が塔弥を見る。 その視線に従って段々と半輪になっていく。
「な、なんだよ」
「直接はお前と阿秀しか見てないよな」
「なんのことだよ」
「俺たちはあの時と似た光しか見ていない」
「ああ、置いてけぼりをくったんだからな」
半輪が段々と狭くなってくる。
「置いてけぼりって、人聞きの悪い。 お前達の走るのが遅かっただけだろう」
馬の走るのが遅いのは乗り手に似たんじゃないのか、と言ってしまってはコブラツイストや4の字固めだけでは済まないだろう。 思っただけで口にすることは無い。
「あーん!?」 全員の声がした。 さすがにいつも、のほほんとしている醍十の声も交じっている。 思ったことを口にせず控えたのにも関わらず、全員からの反感を買ったようだ。
「何があったか話してもらおう、かっ!」
その時、塔弥の目にお付きたちの間から、背中を見せ、ずっと前を走り行く秋我の姿が目に入った。 他のお付きたちは背中を向けていて気付いていない。
「あれ? 秋我?」
え? っと全員が振り返る。
「何かあったのか?」
秋我の走っている方向には、芝を敷き詰めたように草が咲いているだけだ。 そしてそこは、東の領土にやってきたマツリがキョウゲンから跳び下りるところでもある。
「マツリ様」
息を切らせながら秋我がマツリに近寄った。
「領土は落ち着いておるようだな」
「はい」
「その後、紫に変わりはないか」
「つい先ほどまで辺境に行っておいででした。 その時に少々何やらあられたようなのですが、今その話を聞き始めた所です」
マツリの片眉がピクリと動いた。 紫揺の気は感じる。 倒れてはいないだろう。
「そうか、我も話を聞こう」
「では、こちらに」
領主の家に足を向けた。
ボーっと秋我の後姿を追っていたお付きたち。 だがその姿も左に曲がると見えなくなってしまった。
「どうする?」
「追うか?」
などと話している所に阿秀が領主の家から出てきた。
「塔弥! こっちに来い!」
阿秀が叫んだ。
「だってさ。 行ってくるわ」
絞った手拭いを湖彩に押し付けると走り去って行った。
「上手く逃げやがった」
「なんか塔弥って、ここって時にタイミングよく誰かが声を掛けるんだよな」
「だからと言って逃げ切らせるか」
「ああ、今夜は修学旅行だ」
「うーん? 野夜、そんなこと言って起きていられるのかぁ?」
「だな。 一番先に寝るな」
「寝るかい! あんのヤロー、寝込みを襲いやがって、今夜は腕挫十字固だっ!」
意趣返しの応酬は止まらないようだ。
「阿秀、何かあったんですか? ―――」
秋我が走って行ったけど、まで言えなかった。
「マツリ様が来られた」
「・・・やっぱり」
「やっぱりって、塔弥が言ってたより随分と遅いじゃないか」
塔弥が口を歪める。
「本領で何かあったんじゃないですか? ほら、前も忙しそうにされてたじゃないですか」
「まぁ、丁度良かったと言えばそうだが。 辺境であったことをマツリ様が訊かれるようならばお話しする。 私一人では思い込みや見落としもあるかもしれない。 それに塔弥が一番近くにいた。 塔弥も同席してくれ」
「はい」
辺境を馬で歩いていた。 休憩を幅のある川で取っている時、それは起こった。
いつものように下穿きをたくし上げて、ジャバジャバと川の中に入って足を冷やしていた紫揺。
紫たる者のすることではないと何度も塔弥から注意を受けていたが、この程度のことでやいのやいのと言われたくない紫揺は聞く耳を持たなかったし、他のお付きたちもそろそろ慣れだしてきていた。
河原近くの深さはさほどないが、あまり進んでしまうと深くなり激しい水流に足を取られてしまう。 足元に注意しながら膝下までの深さに進む。 川砂が心地よく、時折あたる小石は足の裏のツボを刺激する。
そこに川の水の色では無いものが混じってきた。
見覚えのある色。
おかしいと思い足元を見ていた顔を上げ川上を見ると何かが流れてきている。
『あれ・・・なに・・・』
まるで独語のように、聞こえるか聞こえないかの声が紫揺の口から漏れた。
川上は左から大きくうねってきていて、紫揺から見た百メートル先ほどの突き当りには山肌と下には岩しか見えない。
紫揺の様子を見ていた阿秀が紫揺の視線の先を追った。 その横を塔弥が走り抜け、紫揺の手を引き川から上げたが紫揺の足元がおぼつかない。
『見てはいけません』
川上から目を離せない紫揺の前に塔弥が立ちはだかり前を塞いだ。
阿秀が何やらお付きたちに命令を下している声が聞こえる。
『・・・ヒ、ト?』
『此処から離れましょう』
川上が見えないように塞ぎながら紫揺の背中を押したが紫揺が動こうとしない。
『人が・・・流れて・・・』
それも一人や二人ではなかった。
『どう、して・・・人が、流れて、くる、の?』
その前に目にした見覚えのある色は血の色だった。
東の領土に来てつい数日前に唱和との別れがあったが、民との別れなど一度もしていない。 ましてや布団の上で見守られながら亡くなるのではなく、川に流れているとはどういうことだ。
『落ち着いて下さい』
東の領土の辺境にはあちこちに足を運んでいる。 つい一昨日、足を運んだ名生お爺の集落の奥にある山の中に限らず、どこでも生活が厳しい中でも民は笑顔で暮らしていた。 争いごとなど東の領土で目にしたことなど無い。
紫揺の動揺ぶりに塔弥が何かを感じた。
『熊かもしれません』
『・・・え?』
『この奥の集落を熊が襲ったのかもしれません』
『熊、って・・・』
『民の争いごととは限りません』
『あ・・・』
まるで紫揺が考えていたことを見透かしたように塔弥は言ったが、それはそれで看過できないことではないのだろうか。
熊は人肉を食べるとその味を覚えてしまうとどこかで聞いたことがある。
『山の中での生活はそういう危険と隣り合わせです』
行きましょう、と紫揺の背を押す塔弥の手を振りほどくと川上に向かって走り出した。
『紫さま!!』
すぐに塔弥が手を伸ばしたが、かすることさえ出来なかった。 すぐに追ったが、中途半端に紫揺を止めようとするお付きたちが邪魔で遅れをとってしまった。
お付きたちは紫揺を止めようとしたが、片手で死人を持ったままで紫揺を触るのを憚り、伸ばしかけた手を引っ込め、結果、塔弥の障害物となってしまった。
丁度一人を岸に上げた阿秀が紫揺と塔弥の後を追う。
残されたお付きたちが川に流されてきた全員を岸に上げるとようやっと後を追った。
塔弥も阿秀も身体能力に優れている。 だが紫揺が岩を跳ぶ度、心臓が止まりそうになり足のスピードも緩んでしまう。 引き離される一方であった。
川筋に添って左にカーブをすると、そのずっと先右手に集落が見えた。 今から行こうとしていた集落だ。
一気にそこまで走ると河原に数人が倒れている。 息があるのかないのか分からない。 その息を確かめるより先に何があったのか、膝の高さほどの一段高くなっているところを上り、集落に足を踏み入れた。
そして呆然となった。
目の前に見たこともない大きな猫科の獣が十数頭いる。 こちらに尻を向けて歩いていたり、家の屋根に上がっている獣もいる。 大きさにして大型犬と中型犬の間くらいだろうか。
桶がひっくり返り地を濡らし、あちらこちらに人が倒れている。
一頭が紫揺に気付いた。 まるでモデルウォークのような足取りで、だがモデルのようにツンと顎を上げていない。 頭を下に位置させ、獲物を狙う目でゆっくりと紫揺に向かって歩いて来ている。
やっと塔弥が河原に倒れる者たちのところまで来た。 その先、一段上がった所に紫揺が立っている。
(良かった)
すぐに一段高くなっている所まで走り、その段を上ろうとした時、屋根の上に居る獣が目に入った。
(香山猫(こうざんねこ)!! どうしてこんな所に!)
香山猫。 それは高山である一定の高山草が発する香りのある所にしか住まないと言われている肉食獣。
足を止めた塔弥の耳に阿秀の足音が聞こえた。 我に戻った塔弥が段を上がり紫揺の元までゆっくりと進む。 走って香山猫を刺激したくない。
阿秀も同じように考えたのだろう、ゆっくりと一段高い所に上がってきた。
塔弥が手を伸ばして紫揺の腕をつかもうとした時、額の煌輪から紫の光が発せられた。
塔弥と阿秀の動きが止まる。 それだけではなく、こちらに歩いて来ていた香山猫の足も止まった。
紫揺の目を見ていたならば、そこから恐れがなくなり、そして瞳の色が変わったことに気付いたかもしれないが、残念ながら塔弥も阿秀も紫揺の目を見られる位置にいない。
紫揺がゆっくりと歩き出した。 辺り一面は紫の光に覆われている。
塔弥が止めようと手を出しかけ、その手を止めた。
初めてこの紫の光を見た時には紫揺は空を仰ぐように倒れた。 だが今の紫揺は確実に地を踏みしめ歩いている。
本領で紫の力の事を教わったと言っていた。 己などが口を挟むことでは無い。
塔弥が考えるように阿秀も考えているのだろう、塔弥を急き立てることはなかった。
香山猫の前まで歩いた紫揺。 香山猫は身体を低くしていつでも跳びかかれる態勢だ。
だが数秒後、香山猫が姿勢を戻し踵を返した。 他の香山猫もその後に続く。 屋根の上に上っていた香山猫も紫揺をチラリと見ると、その大きさから想像が出来ないくらい優雅に屋根から跳び下りた。
最初はゆっくりと歩いていたが、群れの全員が後ろについたことを確認した先頭が走り出すと、その後を追って全頭が走り去って行った。
やっとお付きたちが駆けてきた。 目の前に紫の光が入ってくる。 その光が徐々に薄くなっていった。
紫揺が頭を垂れた。 この短い時にかなり精神を消耗した。
『大丈夫ですか?』
塔弥が前に回って紫揺の顔を覗き込んできた。
『うん。 ちょっと疲れただけ。 それより・・・』
顔を上げ辺りを見回す。
塔弥が頷き『もう香山猫はいない! 誰かいるか!?』 と大声を上げた。 すると家々の中から恐る恐る何人もが顔を出してきた。
家人が欠けている者たちは、大声で叫びながら欠けている者の名を呼びだす。 口を塞がれていた子がその手を緩められ、恐怖の光景を続いて見ているように泣きだした。
お付きたちが倒れていた者の息を確かめたが、もう事切れていたようだった。 食い千切られていた者は、見ただけで生きていないと分かった。
阿秀の指示のもと、お付きたちが男達と共に川下の河原に上げてきた者たちや、河原で事切れている者たちを運んだ。
誰一人息が無く、男女、子供も合わせて十二名の遺体がむしろに寝かされた。
阿秀が男達に話を聞くと、今日もこの数日も何の変りもなくいつも通りだったと言う。 どうして香山猫が急にやって来たのかは分からないということだった。
急に山の上の方から聞き慣れない咆哮が聞こえたかと思ったら、見たこともない獣がこちらをめがけて走って来た。 誰かが「獣だ、家に入れ!」と叫び、この辺りに居た者は誰の家と問わず飛び入ったという。
山の中で暮らしていて色んな獣と鉢合わせをすることもあったが、初めて見る獣、そしてあれほどの頭数を目にしたのは初めてだったという。
水を汲みに川に出ていた者たちは逃げ場を失くして襲われたのだろう、ということだった。
阿秀が話を聞いている間、紫揺が泣いている民を、沈んでいる民を慰めていたという。
「ふむ・・・」
顎に手を当てたマツリが返事とも言えない声を出し、少しの間をおいて今度こそ返事と言える声を発した。
「よく分かった」
この説明で紫揺の何がよく分かったというのだろうか。
「紫は乗り越えたようだな」
領主と秋我が目を合わせる。
「もう紫の力のことで案ずることは無いだろう」
「はぁ・・・」
「新たなことがない限りはな」
はぁ、と答えた領主がギョッとした顔をする。
「まぁ、そうそうあってもらっては困るがな」
紫揺のトンデモを思いながら「はい」と応える領主。
「だが唱和が亡くなったのは残念だ」
「・・・はい」
僅かの間しかこの地に居られることが出来ませんでした。 そう続けかけて口を噤んだ。 心の底からそれを残念と思っているが、聞く人間の立場によっては酷に聞こえる。
「独唱はどうしておる」
「未だ涙一つお零しになっておられません。 気丈なお方で御座います」
「そうか。 独唱も歳だ。 労わってやってくれ」
「はい」
マツリが腰を上げかけようとした時、領主が口を開いた。
「マツリ様、前に来られた時には、いかようなお話がありましたでしょうか?」
「あ、ああ。 あれか・・・」
延期にしようと思っていた。 よく分からない紫の力を有したまま誰彼と、などと考えないだろうと思っていたからだ。
だが今の話しからすればそうでは無くなったようだ。 まさかこんなに早く力を使えるとは思っていなかった。
「そうだな・・・。 ああ、よい。 またいつか話そう」
塔弥がチラリとマツリを見たが、素知らぬ振りをしている。
「紫に訊きたいことがある」
いま話したことについてだろうと、領主が頷き塔弥を見た。 紫揺を呼んで来いということである。
「よい。 我がゆく」
残っていた茶を飲み干すと立ち上がった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第113回
夕刻を過ぎた頃からガザンが紫揺の家の前でお座りをしている。 尻尾を踏んでしまわないかと、出入りする者たちは注意を払わなければいけない状態である。
やっと辺境から紫揺が戻ってきたのだから、出入りする人間の数は多い。 女たちが腕を振るって料理を作っているのだから。
辺境では民の家に泊まらせてもらっている。 辺境の民ももてなしてはいるだろうが、あくまでも辺境。 海近くに行けば魚や貝ばかり、山に入れば肉があるときもあるだろうが、木の実や山菜が主になってくる。 食材が片寄っているのは明らかである。
「ガザン、ちょっとだけ端に寄ってくれない?」
女が言うが、ガザンは耳を動かすだけで動く様子を見せない。
紫揺が馬に乗れるようになってからは、辺境にはお転婆で出ている。 その前は馬車で出ていて此之葉もついて来ていたが、お転婆で出るようになってからは此之葉は留守番になってしまっていた。
『馬車でついて行きます!』 と言い張ったのだが、馬車では到底行けないところもあるし時間がかかり過ぎる。 今までを取り戻したいから、時間を有効に使いたいと紫揺が説得したのだった。
『今までを取り戻したい』 というのを辺境の民が聞けば涙するだろうが、どこまで真実なのかは分からないと、お付きたちは疑いを持っている。 お転婆で走りたいだけじゃないのか? などとは口には出してはいない。
「今回は疲れたー」
額の煌輪を小さな座布団に戻すと、両手を投げ出し卓に突っ伏した。 家に戻って来てその足で湯に浸かり、着替えも済んでいる。
その姿を茶を淹れながらチラリと見る此之葉。
「どちらまで行かれたんですか?」
辺境にも色々ある。 此之葉は辺境の全てに足を運んだわけではない。 行ったことの無い所であれば想像を膨らませて聞くことしか出来ない。
「うんと・・・前に此之葉さんも行ったことのある、覚えてるかな? 山の麓の川沿いの集落の名生(みょう)お爺(じじ)」
突っ伏したままで顔だけ横に向け話している。
「はい、覚えています」
コトリと湯呑を置く。
ありがとう、と言いながら身体を起こし湯呑を手に取る。 熱すぎることなく飲み頃である。
「あの奥の山の中」
「え?」
「馬道があってね、馬のままで入れましたけど、よく生活出来てるなぁーって感じでした」
「あの先の山の中にも民が居たんですか?」
あの辺りでは、名生お爺のいる集落が人の住む最端だと思っていた。
「結構いました。 名生お爺のいる集落より多かったですよ。 生活は厳しいそうだったけど麓に下りる気はないって」
紫揺が急に辺境に行くと言い出した。 それまでは唱和の喪に服したいからと大人しく家の中に居たが、此之葉がいつもの通りに紫揺に付いていた。 隠してはいるつもりだろうが、此之葉が涙を堪えているのがよく分かった。
一週間、家の中で大人しくしていた。 此之葉のことが気にはなるが、日本で言うところの初七日までは大人しくしようと決めていた。
そしてその後しばらくは此之葉を自分から解放してあげようと、辺境に行くと言い出したのだった。
「そうですか。 いくら厳しくとも民にとってはその地が一番良いのでしょうね」
そう言うと間をおいて「紫さま」と居ずまいを正すような声を出した。
「ん? なんですか?」
「独唱様と唱和様のお話を沢山しました。 ・・・やっと、落ち着くことが出来ました。 お気遣いを有難うございました」
手をついて頭を下げる。
「あ・・・」
『お前の考えなど透けて見えるわ』 マツリにだけ透けて見られていたわけではなかったのか・・・。 それによく考えると、辺境で塔弥にも言われたのだった。 思い出したくない光景だった時に。
思わず頭を隠しかけて、そうでは無かったと思い直す。
「いや・・・そんな。 お気遣いだなんて気のせいだし・・・。 うん、でも、此之葉さんが元気になったのならそれでいい」
此之葉が頭を上げると咄嗟に腕ではなく両掌で頭を覆った。
「如何なさいました?」
「あ、いや、なんでもないです」
目には見えないのだった。 そろっと手を下ろす。
外風呂から上がってきたお付きたちが、ぞろぞろと紫揺の家に戻っていく。 阿秀だけはざっと汗と汚れを落としてから領主の家に足を向けていた。 辺境でのことと、紫揺のことを報告しなければいけない。
「にしても、あんな所に住んでるなんて知らなかったな」
辺境の集落を転々としていた時、最端と思われていた集落の奥の山に、まだ人がいると偶然耳にしたのだった。
「ああ、紫さまも山を下りるように勧めておられたが、かなり血が濃くなってきている様子だったな。 あのままでは良いことは無いだろう」
「それが不思議だ。 どうしてあの紫さまがそんなことに気付いたんだ?」
「たとえあの紫さまと言えど分かるだろう」
「そっかぁ? 俺は分からなかったぞぉ」
「お前が鈍感すぎるんだよ。 ところで塔弥」
全員が塔弥を見る。 その視線に従って段々と半輪になっていく。
「な、なんだよ」
「直接はお前と阿秀しか見てないよな」
「なんのことだよ」
「俺たちはあの時と似た光しか見ていない」
「ああ、置いてけぼりをくったんだからな」
半輪が段々と狭くなってくる。
「置いてけぼりって、人聞きの悪い。 お前達の走るのが遅かっただけだろう」
馬の走るのが遅いのは乗り手に似たんじゃないのか、と言ってしまってはコブラツイストや4の字固めだけでは済まないだろう。 思っただけで口にすることは無い。
「あーん!?」 全員の声がした。 さすがにいつも、のほほんとしている醍十の声も交じっている。 思ったことを口にせず控えたのにも関わらず、全員からの反感を買ったようだ。
「何があったか話してもらおう、かっ!」
その時、塔弥の目にお付きたちの間から、背中を見せ、ずっと前を走り行く秋我の姿が目に入った。 他のお付きたちは背中を向けていて気付いていない。
「あれ? 秋我?」
え? っと全員が振り返る。
「何かあったのか?」
秋我の走っている方向には、芝を敷き詰めたように草が咲いているだけだ。 そしてそこは、東の領土にやってきたマツリがキョウゲンから跳び下りるところでもある。
「マツリ様」
息を切らせながら秋我がマツリに近寄った。
「領土は落ち着いておるようだな」
「はい」
「その後、紫に変わりはないか」
「つい先ほどまで辺境に行っておいででした。 その時に少々何やらあられたようなのですが、今その話を聞き始めた所です」
マツリの片眉がピクリと動いた。 紫揺の気は感じる。 倒れてはいないだろう。
「そうか、我も話を聞こう」
「では、こちらに」
領主の家に足を向けた。
ボーっと秋我の後姿を追っていたお付きたち。 だがその姿も左に曲がると見えなくなってしまった。
「どうする?」
「追うか?」
などと話している所に阿秀が領主の家から出てきた。
「塔弥! こっちに来い!」
阿秀が叫んだ。
「だってさ。 行ってくるわ」
絞った手拭いを湖彩に押し付けると走り去って行った。
「上手く逃げやがった」
「なんか塔弥って、ここって時にタイミングよく誰かが声を掛けるんだよな」
「だからと言って逃げ切らせるか」
「ああ、今夜は修学旅行だ」
「うーん? 野夜、そんなこと言って起きていられるのかぁ?」
「だな。 一番先に寝るな」
「寝るかい! あんのヤロー、寝込みを襲いやがって、今夜は腕挫十字固だっ!」
意趣返しの応酬は止まらないようだ。
「阿秀、何かあったんですか? ―――」
秋我が走って行ったけど、まで言えなかった。
「マツリ様が来られた」
「・・・やっぱり」
「やっぱりって、塔弥が言ってたより随分と遅いじゃないか」
塔弥が口を歪める。
「本領で何かあったんじゃないですか? ほら、前も忙しそうにされてたじゃないですか」
「まぁ、丁度良かったと言えばそうだが。 辺境であったことをマツリ様が訊かれるようならばお話しする。 私一人では思い込みや見落としもあるかもしれない。 それに塔弥が一番近くにいた。 塔弥も同席してくれ」
「はい」
辺境を馬で歩いていた。 休憩を幅のある川で取っている時、それは起こった。
いつものように下穿きをたくし上げて、ジャバジャバと川の中に入って足を冷やしていた紫揺。
紫たる者のすることではないと何度も塔弥から注意を受けていたが、この程度のことでやいのやいのと言われたくない紫揺は聞く耳を持たなかったし、他のお付きたちもそろそろ慣れだしてきていた。
河原近くの深さはさほどないが、あまり進んでしまうと深くなり激しい水流に足を取られてしまう。 足元に注意しながら膝下までの深さに進む。 川砂が心地よく、時折あたる小石は足の裏のツボを刺激する。
そこに川の水の色では無いものが混じってきた。
見覚えのある色。
おかしいと思い足元を見ていた顔を上げ川上を見ると何かが流れてきている。
『あれ・・・なに・・・』
まるで独語のように、聞こえるか聞こえないかの声が紫揺の口から漏れた。
川上は左から大きくうねってきていて、紫揺から見た百メートル先ほどの突き当りには山肌と下には岩しか見えない。
紫揺の様子を見ていた阿秀が紫揺の視線の先を追った。 その横を塔弥が走り抜け、紫揺の手を引き川から上げたが紫揺の足元がおぼつかない。
『見てはいけません』
川上から目を離せない紫揺の前に塔弥が立ちはだかり前を塞いだ。
阿秀が何やらお付きたちに命令を下している声が聞こえる。
『・・・ヒ、ト?』
『此処から離れましょう』
川上が見えないように塞ぎながら紫揺の背中を押したが紫揺が動こうとしない。
『人が・・・流れて・・・』
それも一人や二人ではなかった。
『どう、して・・・人が、流れて、くる、の?』
その前に目にした見覚えのある色は血の色だった。
東の領土に来てつい数日前に唱和との別れがあったが、民との別れなど一度もしていない。 ましてや布団の上で見守られながら亡くなるのではなく、川に流れているとはどういうことだ。
『落ち着いて下さい』
東の領土の辺境にはあちこちに足を運んでいる。 つい一昨日、足を運んだ名生お爺の集落の奥にある山の中に限らず、どこでも生活が厳しい中でも民は笑顔で暮らしていた。 争いごとなど東の領土で目にしたことなど無い。
紫揺の動揺ぶりに塔弥が何かを感じた。
『熊かもしれません』
『・・・え?』
『この奥の集落を熊が襲ったのかもしれません』
『熊、って・・・』
『民の争いごととは限りません』
『あ・・・』
まるで紫揺が考えていたことを見透かしたように塔弥は言ったが、それはそれで看過できないことではないのだろうか。
熊は人肉を食べるとその味を覚えてしまうとどこかで聞いたことがある。
『山の中での生活はそういう危険と隣り合わせです』
行きましょう、と紫揺の背を押す塔弥の手を振りほどくと川上に向かって走り出した。
『紫さま!!』
すぐに塔弥が手を伸ばしたが、かすることさえ出来なかった。 すぐに追ったが、中途半端に紫揺を止めようとするお付きたちが邪魔で遅れをとってしまった。
お付きたちは紫揺を止めようとしたが、片手で死人を持ったままで紫揺を触るのを憚り、伸ばしかけた手を引っ込め、結果、塔弥の障害物となってしまった。
丁度一人を岸に上げた阿秀が紫揺と塔弥の後を追う。
残されたお付きたちが川に流されてきた全員を岸に上げるとようやっと後を追った。
塔弥も阿秀も身体能力に優れている。 だが紫揺が岩を跳ぶ度、心臓が止まりそうになり足のスピードも緩んでしまう。 引き離される一方であった。
川筋に添って左にカーブをすると、そのずっと先右手に集落が見えた。 今から行こうとしていた集落だ。
一気にそこまで走ると河原に数人が倒れている。 息があるのかないのか分からない。 その息を確かめるより先に何があったのか、膝の高さほどの一段高くなっているところを上り、集落に足を踏み入れた。
そして呆然となった。
目の前に見たこともない大きな猫科の獣が十数頭いる。 こちらに尻を向けて歩いていたり、家の屋根に上がっている獣もいる。 大きさにして大型犬と中型犬の間くらいだろうか。
桶がひっくり返り地を濡らし、あちらこちらに人が倒れている。
一頭が紫揺に気付いた。 まるでモデルウォークのような足取りで、だがモデルのようにツンと顎を上げていない。 頭を下に位置させ、獲物を狙う目でゆっくりと紫揺に向かって歩いて来ている。
やっと塔弥が河原に倒れる者たちのところまで来た。 その先、一段上がった所に紫揺が立っている。
(良かった)
すぐに一段高くなっている所まで走り、その段を上ろうとした時、屋根の上に居る獣が目に入った。
(香山猫(こうざんねこ)!! どうしてこんな所に!)
香山猫。 それは高山である一定の高山草が発する香りのある所にしか住まないと言われている肉食獣。
足を止めた塔弥の耳に阿秀の足音が聞こえた。 我に戻った塔弥が段を上がり紫揺の元までゆっくりと進む。 走って香山猫を刺激したくない。
阿秀も同じように考えたのだろう、ゆっくりと一段高い所に上がってきた。
塔弥が手を伸ばして紫揺の腕をつかもうとした時、額の煌輪から紫の光が発せられた。
塔弥と阿秀の動きが止まる。 それだけではなく、こちらに歩いて来ていた香山猫の足も止まった。
紫揺の目を見ていたならば、そこから恐れがなくなり、そして瞳の色が変わったことに気付いたかもしれないが、残念ながら塔弥も阿秀も紫揺の目を見られる位置にいない。
紫揺がゆっくりと歩き出した。 辺り一面は紫の光に覆われている。
塔弥が止めようと手を出しかけ、その手を止めた。
初めてこの紫の光を見た時には紫揺は空を仰ぐように倒れた。 だが今の紫揺は確実に地を踏みしめ歩いている。
本領で紫の力の事を教わったと言っていた。 己などが口を挟むことでは無い。
塔弥が考えるように阿秀も考えているのだろう、塔弥を急き立てることはなかった。
香山猫の前まで歩いた紫揺。 香山猫は身体を低くしていつでも跳びかかれる態勢だ。
だが数秒後、香山猫が姿勢を戻し踵を返した。 他の香山猫もその後に続く。 屋根の上に上っていた香山猫も紫揺をチラリと見ると、その大きさから想像が出来ないくらい優雅に屋根から跳び下りた。
最初はゆっくりと歩いていたが、群れの全員が後ろについたことを確認した先頭が走り出すと、その後を追って全頭が走り去って行った。
やっとお付きたちが駆けてきた。 目の前に紫の光が入ってくる。 その光が徐々に薄くなっていった。
紫揺が頭を垂れた。 この短い時にかなり精神を消耗した。
『大丈夫ですか?』
塔弥が前に回って紫揺の顔を覗き込んできた。
『うん。 ちょっと疲れただけ。 それより・・・』
顔を上げ辺りを見回す。
塔弥が頷き『もう香山猫はいない! 誰かいるか!?』 と大声を上げた。 すると家々の中から恐る恐る何人もが顔を出してきた。
家人が欠けている者たちは、大声で叫びながら欠けている者の名を呼びだす。 口を塞がれていた子がその手を緩められ、恐怖の光景を続いて見ているように泣きだした。
お付きたちが倒れていた者の息を確かめたが、もう事切れていたようだった。 食い千切られていた者は、見ただけで生きていないと分かった。
阿秀の指示のもと、お付きたちが男達と共に川下の河原に上げてきた者たちや、河原で事切れている者たちを運んだ。
誰一人息が無く、男女、子供も合わせて十二名の遺体がむしろに寝かされた。
阿秀が男達に話を聞くと、今日もこの数日も何の変りもなくいつも通りだったと言う。 どうして香山猫が急にやって来たのかは分からないということだった。
急に山の上の方から聞き慣れない咆哮が聞こえたかと思ったら、見たこともない獣がこちらをめがけて走って来た。 誰かが「獣だ、家に入れ!」と叫び、この辺りに居た者は誰の家と問わず飛び入ったという。
山の中で暮らしていて色んな獣と鉢合わせをすることもあったが、初めて見る獣、そしてあれほどの頭数を目にしたのは初めてだったという。
水を汲みに川に出ていた者たちは逃げ場を失くして襲われたのだろう、ということだった。
阿秀が話を聞いている間、紫揺が泣いている民を、沈んでいる民を慰めていたという。
「ふむ・・・」
顎に手を当てたマツリが返事とも言えない声を出し、少しの間をおいて今度こそ返事と言える声を発した。
「よく分かった」
この説明で紫揺の何がよく分かったというのだろうか。
「紫は乗り越えたようだな」
領主と秋我が目を合わせる。
「もう紫の力のことで案ずることは無いだろう」
「はぁ・・・」
「新たなことがない限りはな」
はぁ、と答えた領主がギョッとした顔をする。
「まぁ、そうそうあってもらっては困るがな」
紫揺のトンデモを思いながら「はい」と応える領主。
「だが唱和が亡くなったのは残念だ」
「・・・はい」
僅かの間しかこの地に居られることが出来ませんでした。 そう続けかけて口を噤んだ。 心の底からそれを残念と思っているが、聞く人間の立場によっては酷に聞こえる。
「独唱はどうしておる」
「未だ涙一つお零しになっておられません。 気丈なお方で御座います」
「そうか。 独唱も歳だ。 労わってやってくれ」
「はい」
マツリが腰を上げかけようとした時、領主が口を開いた。
「マツリ様、前に来られた時には、いかようなお話がありましたでしょうか?」
「あ、ああ。 あれか・・・」
延期にしようと思っていた。 よく分からない紫の力を有したまま誰彼と、などと考えないだろうと思っていたからだ。
だが今の話しからすればそうでは無くなったようだ。 まさかこんなに早く力を使えるとは思っていなかった。
「そうだな・・・。 ああ、よい。 またいつか話そう」
塔弥がチラリとマツリを見たが、素知らぬ振りをしている。
「紫に訊きたいことがある」
いま話したことについてだろうと、領主が頷き塔弥を見た。 紫揺を呼んで来いということである。
「よい。 我がゆく」
残っていた茶を飲み干すと立ち上がった。