『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第175回
「あれま、どうしたんだい?」
水を汲みに外に出ると誰かが座り込んでいた。
綺麗ではあるが変わった衣を着ている、それなのに足元を見ると何も履いていない。 裸足で長く歩いてきたのだろう、柔らかな足の裏から血が出ている。 疲れて座り込んでしまったようだ。
「お、空・・・」
可愛い顔をして空を見上げている。 長い睫毛に囲われた黒く大きな瞳がゆらゆらと揺れ、零れ落ちそうになっている。 その瞳にゆっくりと瞼が落ちた。
「ちょ、ちょっと。 あんたー!」
女が家の中に居る亭主を呼んだ。
翌朝、早朝から杠と二人乗りで馬に乗って出掛けた。 紫揺に手綱は持たせられない。
「昨日は武官達とどんな話をしたんだ?」
昨日、紫揺と昼餉を済ませると自警の群に労いの言葉をかけに出た。 その間、紫揺は武官所に預けていた。
六都官別所に百二十七人を入れた武官たちが戻って来て、紫揺と楽しいお話をしていたようだった。
「うーん、メイン・・・主には木の枝に跳び乗ったこと。 あれは何だったのかとか、どうすればいいのかとか。 他には杠と私の関係」
「はぁ?」
「お兄ちゃんのように慕ってるって言ったけど、都合悪かった?」
まんまを言ったのか。
慕ってる・・・表情筋がなくなったように崩れていく。
「いや、あ、え、その、都合って何だ?」
「だって杠の立場もあるでしょ?」
「し、慕っているというのは?」
どうしてそんなことを訊いてしまったのか、どうしてこんなにドギマギするのか、どうしてもう一度聞きたいと思うのか。
己・・・オカシイ。
今までになく長い間、紫揺と居たせいだろうか。
「のは、って訊かれても。 だって・・・お兄ちゃんだし。 え? 駄目なの?」
杠が紫揺の腹に手をまわしぐっと引き寄せる。
「そんなことがあるはずないだろう、紫揺は俺の妹だ。 いつもいつも手の中に入れていたい。 お譲りするのはマツリ様にだけだ」
“手の中に入れていたい” 嬉しいフレーズ。 紫揺としてはいつも杠の胸ポケットに入っていたい、そう思っていた。 ここの衣に胸ポケットは無いけど。 お兄ちゃんから離れたくない。
でも・・・マツリは別。
「・・・うん」
「マツリ様は戻って来られる」
「マツリなんてどうでもいい、杠と一緒に居たい」
葉月曰く、おムネは大きくならないらしいけど。 ・・・ああ、でも、おムネ・・・大きくなりたい。 あのお姉さんのように。
後ろで杠が笑った気がした。
「戻って来られる」
杠の言うようにマツリが戻ってきた。
キョウゲンから跳び下りたマツリを見た巡回をしていた武官が文官所に報告をする。
「マツリ様!」
文官が走り寄ってきた。
「杠は」
「紫さまと・・・遠出に出られたと聞いておりますが」
「・・・杠めっ!!」
「は?」
「いや何でもない。 それより、今回の六都の者を捕らえたということは早馬で知らされたが杠からの報告が無い。 何かあったのか」
「特には何もあったわけは御座いません。 自警の群もよく動いたと武官から聞いております」
では何故、杠からの連絡が無い。
「武官に代わって自警の群が捕らえた者の咎の言い渡しと、今回の捕らえた者の言い渡しをすぐにお願い致したいのですが」
もう六都官別所が溢れかえっている。
何故か返事をするどころかマツリが思いっきり口を歪めている。 どうしてだろうか。
「承知した。 だがその前に武官長に話を訊きに行く」
(くそっ! 遠出とはどういうことだ!)
「この山だな」
杠が馬を止める。
紫揺が目の前の山肌を見る、間違えないような気がする。 幼い頃、父と母と見に行った山肌。 だが父ほど詳しくはない。 あの時、父にどう説明してもらっただろうか。 山肌を見て目を瞑り思い出す。 父の言っていたことを。
父のことを想ってもう泣かない。 心に刃など持ったことは無いのだから。 それどころかこうして父の声や楽しかった会話を思い出せる。 心には楽しかった思い出がある。
『紫揺? 見て分かるかな? 粘土質が堆積した岩石を崩しているだろう? ほら、あそこ分かるだろ?』
『んー・・・あのお山?』
『そう。 あのお山が硯の原石なんだ』
『コンコン叩いてる』
『そう。 放置して風化してしまう前に硯を作るんだ』
(お父さん・・・)
瞑っていた目を開ける。 泣かない。 絶対に。 いっぱい泣いた。 最後にマツリの胸の中でイッパイ泣いた。
マツリが何もかも吸い取ってくれた。
だから泣かない。
深く深く息を吸い、長く長く吐いた。
杠が紫揺を見る。
「この山、硯が作れると思うんだけど」
「硯?」
「うん、見当違いかもしれないけど」
紫揺が馬を下りて山の壁面に歩いて行く。
父に教えられた層が見える。
「間違ってるかもしれないけど、一度硯を作っている職人さんに確認してもらえる?」
山肌の土の層を手で触りながら言う。
「硯か・・・」
杉山だけでは納まり切れなくなると、マツリとそんな話をしていると紫揺に話した。 紫揺自身もそう感じていると言っていた。 それを考えていたのだろう、そこに武官からの話があった。 思い当たる節があったのだろう、だから確認しに来たということ、か。
杠が紫揺の頭を抱(いだ)く。
「いい子だ」
紫揺はいつもカルネラにそう言っていた。
紫揺が杠の体に手をまわす。
いつもなら何か言うはず。 いい子でしょ、等と。 だが紫揺の口からは何も発せられなかった。
「紫揺・・・?」
褒めて抱(いだ)いた紫揺の頭だった。 だが違うものを感じた。 無言でもう一度紫揺を抱く手に力を込める。
「く・・・苦し・・・い」
「あ、悪い!」
杠が紫揺の後頭部から手を離した。
手を回したまま顔を横に向けるとプハーっと息を吐く。 カルネラが紫揺の懐から出てきた時はこんな感じだったのかと思う。
横に向けた目の先には山肌がある。 岩石の山肌をじっと見つめて口を開く。
「お父さんってね・・・私の。 書が上手だったの。 師範・・・師になれる寸前までいってたんだって。 師になるつもりは無かったって言ってたけど。 どっちかって言ったら硯や筆の方に興味があったって。 でね、一度お母さんと一緒に会社の車・・・その、馬車で硯の元になる山に連れて行ってもらったの。 小っちゃかったからはっきり覚えてないけどこんな感じだったと思うんだ」
「・・・そうか」
「マツリから聞いてるかな」
「・・・ああ」
「・・・私も杠のことを聞いた」
「ああ・・・」
知っている。
「マツリがね、沢山言ってくれたの。 腹立つほどムカツクほどに。 ・・・お父さんとお母さんのことを思うといつも一人で泣いてた。 でもマツリが一緒に居てくれた、泣かせてくれた、だからもう泣かない、んだけど・・・」
「・・・ぅん?」
「それでも・・・寂しいね。 お父さんもお母さんも大好き。 お爺様もお婆様も。 みんなみんなを連れてきてあげたかった」
紫揺が杠の体に顔を伏せる。
どこに連れてきてあげたかったのか? それに紫揺の言葉が分からない部分がある。 本領と東の領土の言葉の違いを感じる。 でもそのことに疑問を抱く時ではないであろう。
「そうか。 紫揺の想いに父御も母御も祖父御も祖母御も喜んでおられる」
そうだ。 目に見えなくとも姿が見えなくとも。
「私より杠の方が小さい時にお父さんとお母さんと離れちゃったんだよね」
杠は誰かの腕の中で泣けたのだろうか。
紫揺が顔を上げて杠を見る。 今、杠の手は紫揺の背中にかかっている。
「そうだな」
「・・・大丈夫?」
杠が口角を上げる。
「歪んでいた、ようだ」
「え?」
杠を見上げる紫揺の視線を外して山の方を見る。
「マツリ様に紫揺は乗り越えた、杠も乗り越えてくれ。 マツリ様からの頼みだ、そう言われた」
「杠・・・」
視線を紫揺に戻す。 眉を上げ、声が出るのは口からだったが、その目から話されているような感じがした。
「だが、もう大丈夫だ」
「うん」
杠がどうして宮都に報告に来なかったのか、武官長から聞いてその理由は分かった。 かなり言い渋るように言ってはいたが、紫揺の事だ、それくらいするだろう。 だがもう夕刻になろうとしているというのに、まだ杠と紫揺が戻って来ない。
ペタコン、ペタコンと書類に判を押していく。
百二十七名には労役を科すが労役の先は現在不定。 そして詳しいことも他の都と合わせなくてはならない。 当分、官別所で冷たい飯と共に過ごしてもらう。
ゴロツキにはとっとと明日から杉山に行かせる。 金河と將基もそろそろ戻って来るだろう。
「手首が死ぬわっ!」
一人叫んでみるが四方はこの程度ではないのだろう。 改めて四方の大変さを知ることとなった。
最後の一枚に判を押した頃には夕刻になっていた。
「お疲れ様で御座いました」
全てに押印が終わった時、ちょうど控えていた文官が茶を持ってきた。
「・・・杠は」
「まだお帰りになってはおられないようですが」
マツリがブスッとしかけた時に文官所の戸が開いた音がした。
「マツリ様が戻られていると聞きましたが」
杠の声だ。
「戻られたようで」
文官が文官長室の戸を開け杠を呼び、すれ違いに文官が出て行った。
文官長室に入るとブスッとした顔のマツリが居た。
「どうされました?」
左腕で頬杖をつき、顔は横を向いて目だけを杠に合わせている。
「右手首が瀕死寸前」
杠が首を傾げる。
「押印。 杠が居れば杠に頼んだものを・・・どこに行っておった、それに紫は」
マツリの前に置かれている書類の束、これに押印して手首が疲れたと言いたいのか。
「この程度で?」
マツリが眉根を寄せる。
「鍛練が足りませんね。 四方様とご一緒に仕事をされた方が宜しいかもしれません」
押印に鍛練などというものがあるのか。
「紫は」
「武官所に居られます」
「武官所? どうして」
「武官と楽しい仲間になったと仰っておられました。 して、決起の方はどうなりましたか?」
楽しい仲間に薬草を塗り直してもらってもいるが。
杠に訊かれて思い出した。 そうだった、その話が一番だった。 押印が頭にきてすっかり頭から飛んでいた。 迂闊だった。
「呉甚も柴咲も捕らえた。 柴咲は似面絵が効いたようだ、二都で足止めを食っておった。 七都と八都の民がそれぞれ入った都で右往左往しておったと報告が入ってきた。 三都の者はどうだった」
「迎えもありませんでしたし、その様な動きもなかったと聞いております」
「そうか、五都の者は動いてはいなかったということだ」
「ということは、六都から七八都に入って二都に行ったということですか。 あとの都は何も知らなかった」
「ああ、そのようだな」
「動いた者と動かなかった者で咎が違ってきますか?」
「違ってくる。 動かなかったと言っても謀反を起こそうとしていたのだから、それなりの咎があるが動いた民はそれ以上の咎だ。 全ての都で咎を合わさなくてはならん、他の都の状況を見てからの判断となる。 従って六都の百二十七名は暫くあのままになる」
「承知いたしました」
「紫が怪我をしたと聞いたが?」
「紫揺自身は何でもないと言っておりますが、六都武官長が気にされております。 それに怪我をしたまま戻ればお方様やシキ様、あの女官たちがご心配をされるでしょう」
「その程度か」
「はい」
「で? どこに行っておった。 我抜きでっ!」
笑いかけた顔を見られないよう、すぐに横を向いたが気付かれたようだ。
「・・・杠」
駄目だ、耐えられない。 後ろを向いて肩を揺らす。
「・・・二人してなん月も一緒に居りおって」
「なん月などと、数日ではありませんか」
くっく、と笑いながら、まだ後ろを向いている。
「我からすれば、なん月ほどと感じておる」
なんとか肩の揺れをおさめマツリに向き直るが涙目である。
「それなのですが・・・」
紫揺と硯が作れるのではないかと思える、粘土質が堆積した岩石の山を見に行ったことを話した。
「硯?」
「はい。 人の手で割れる岩石です、確認してきました」
「どこにある」
「杉山と反対方向の三十都との境です。 紫揺は確証が持てないようで硯職人に確認してほしいと言っておりました」
「その山は間違いなく六都の山か」
「はい。 武官も時々ではありますが巡回に回るようですし、文官にも確認を取りました」
「承知した」
「ああ、それと。 將基と金河が戻って来ております。 道中手厚くしてもらったと喜んでおりました」
そのようにせよと、馭者となった武官には言っておいた。 間違いなくしたようだ。
あとには小声で百足が動いているかもしれないと話し、紫揺が襲われかけたことも話した。
額に紙が貼ってあったことを聞くと互いに目を合わせる。 好々爺だな、と。
「その者たちはどうした」
「最初武官たちは首を捻っていたようですが、間抜けにもまだ襲っていない、御内儀様とやらの顔を見ようと窓から入る寸前でわけが分からなくなった、と申しまして、武官長が蒼白になって官別所に放り込んだとのことです。 そちらの方の咎もお願い致します」
「ったく! いらん仕事を増やしおって。 杉山送りだ、たっぷり力山に可愛がってもらえばよい!」
「ではそのように」
「礼を言いに行かねばならんな」
「酒の用意をしておきます」
戸の外から文官たちのざわめきが聞こえてきた。
「紫揺が来たようです」
どうして紫揺が来ただけで文官たちのざわめきとなるのか、マツリが首を捻る。
ギュッと抱き上げられ、マツリ曰くの抱擁をされている紫揺。
紫揺が入ってきた途端にそうしたものだから戸を閉める間もなかった。 戸口には文官たちの顔が並んでいる。
「ば、馬鹿! 離しなさいよ!」
「言ったであろう、我に手を回すまでおろさんと」
「マツリ様、もう少し下がって下さいませ」
マツリが紫揺を抱えたまま二歩三歩と下がる。 杠が文官たちに軽く会釈をし、そっと戸を閉める。 その気配を背中で感じた紫揺。 しぶしぶマツリの首に手を回す。 するとマツリの片手が紫揺の背中に手を回してくる。
「久しい」
「・・・それ程でもないと思うけど」
頬を付けた紫揺の声が耳朶に響く。
「怪我はどうだ?」
「さっき武官さんが薬・・・薬草を塗ってくれた」
まただ、聞いたことの無い言葉。 どれほど本領と東の領土では言葉が違うのだろうか。
紫揺がこだわった “くん” にしてもそうだ、この本領にはそんな呼び方などは無い。
そうだ、それに・・・。 地下のことを四方に報告をしていた時 “デカームの人” と言っていた。 あの時は聞き慣れない使い方だと思っただけだったが、前後の話から意味が分かり特に何も考えなかったが、誰かを指す時にそんな言葉の使い方はこの本領ではしない。
「あとで見よう」
手には晒が巻かれているが、どうしてあとなのか。
「なんで?」
「今はまだこのままだ」
杠がそっと武官長室を出ると、文官たちが蜘蛛の子を散らすように自分の席に着いた。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第175回
「あれま、どうしたんだい?」
水を汲みに外に出ると誰かが座り込んでいた。
綺麗ではあるが変わった衣を着ている、それなのに足元を見ると何も履いていない。 裸足で長く歩いてきたのだろう、柔らかな足の裏から血が出ている。 疲れて座り込んでしまったようだ。
「お、空・・・」
可愛い顔をして空を見上げている。 長い睫毛に囲われた黒く大きな瞳がゆらゆらと揺れ、零れ落ちそうになっている。 その瞳にゆっくりと瞼が落ちた。
「ちょ、ちょっと。 あんたー!」
女が家の中に居る亭主を呼んだ。
翌朝、早朝から杠と二人乗りで馬に乗って出掛けた。 紫揺に手綱は持たせられない。
「昨日は武官達とどんな話をしたんだ?」
昨日、紫揺と昼餉を済ませると自警の群に労いの言葉をかけに出た。 その間、紫揺は武官所に預けていた。
六都官別所に百二十七人を入れた武官たちが戻って来て、紫揺と楽しいお話をしていたようだった。
「うーん、メイン・・・主には木の枝に跳び乗ったこと。 あれは何だったのかとか、どうすればいいのかとか。 他には杠と私の関係」
「はぁ?」
「お兄ちゃんのように慕ってるって言ったけど、都合悪かった?」
まんまを言ったのか。
慕ってる・・・表情筋がなくなったように崩れていく。
「いや、あ、え、その、都合って何だ?」
「だって杠の立場もあるでしょ?」
「し、慕っているというのは?」
どうしてそんなことを訊いてしまったのか、どうしてこんなにドギマギするのか、どうしてもう一度聞きたいと思うのか。
己・・・オカシイ。
今までになく長い間、紫揺と居たせいだろうか。
「のは、って訊かれても。 だって・・・お兄ちゃんだし。 え? 駄目なの?」
杠が紫揺の腹に手をまわしぐっと引き寄せる。
「そんなことがあるはずないだろう、紫揺は俺の妹だ。 いつもいつも手の中に入れていたい。 お譲りするのはマツリ様にだけだ」
“手の中に入れていたい” 嬉しいフレーズ。 紫揺としてはいつも杠の胸ポケットに入っていたい、そう思っていた。 ここの衣に胸ポケットは無いけど。 お兄ちゃんから離れたくない。
でも・・・マツリは別。
「・・・うん」
「マツリ様は戻って来られる」
「マツリなんてどうでもいい、杠と一緒に居たい」
葉月曰く、おムネは大きくならないらしいけど。 ・・・ああ、でも、おムネ・・・大きくなりたい。 あのお姉さんのように。
後ろで杠が笑った気がした。
「戻って来られる」
杠の言うようにマツリが戻ってきた。
キョウゲンから跳び下りたマツリを見た巡回をしていた武官が文官所に報告をする。
「マツリ様!」
文官が走り寄ってきた。
「杠は」
「紫さまと・・・遠出に出られたと聞いておりますが」
「・・・杠めっ!!」
「は?」
「いや何でもない。 それより、今回の六都の者を捕らえたということは早馬で知らされたが杠からの報告が無い。 何かあったのか」
「特には何もあったわけは御座いません。 自警の群もよく動いたと武官から聞いております」
では何故、杠からの連絡が無い。
「武官に代わって自警の群が捕らえた者の咎の言い渡しと、今回の捕らえた者の言い渡しをすぐにお願い致したいのですが」
もう六都官別所が溢れかえっている。
何故か返事をするどころかマツリが思いっきり口を歪めている。 どうしてだろうか。
「承知した。 だがその前に武官長に話を訊きに行く」
(くそっ! 遠出とはどういうことだ!)
「この山だな」
杠が馬を止める。
紫揺が目の前の山肌を見る、間違えないような気がする。 幼い頃、父と母と見に行った山肌。 だが父ほど詳しくはない。 あの時、父にどう説明してもらっただろうか。 山肌を見て目を瞑り思い出す。 父の言っていたことを。
父のことを想ってもう泣かない。 心に刃など持ったことは無いのだから。 それどころかこうして父の声や楽しかった会話を思い出せる。 心には楽しかった思い出がある。
『紫揺? 見て分かるかな? 粘土質が堆積した岩石を崩しているだろう? ほら、あそこ分かるだろ?』
『んー・・・あのお山?』
『そう。 あのお山が硯の原石なんだ』
『コンコン叩いてる』
『そう。 放置して風化してしまう前に硯を作るんだ』
(お父さん・・・)
瞑っていた目を開ける。 泣かない。 絶対に。 いっぱい泣いた。 最後にマツリの胸の中でイッパイ泣いた。
マツリが何もかも吸い取ってくれた。
だから泣かない。
深く深く息を吸い、長く長く吐いた。
杠が紫揺を見る。
「この山、硯が作れると思うんだけど」
「硯?」
「うん、見当違いかもしれないけど」
紫揺が馬を下りて山の壁面に歩いて行く。
父に教えられた層が見える。
「間違ってるかもしれないけど、一度硯を作っている職人さんに確認してもらえる?」
山肌の土の層を手で触りながら言う。
「硯か・・・」
杉山だけでは納まり切れなくなると、マツリとそんな話をしていると紫揺に話した。 紫揺自身もそう感じていると言っていた。 それを考えていたのだろう、そこに武官からの話があった。 思い当たる節があったのだろう、だから確認しに来たということ、か。
杠が紫揺の頭を抱(いだ)く。
「いい子だ」
紫揺はいつもカルネラにそう言っていた。
紫揺が杠の体に手をまわす。
いつもなら何か言うはず。 いい子でしょ、等と。 だが紫揺の口からは何も発せられなかった。
「紫揺・・・?」
褒めて抱(いだ)いた紫揺の頭だった。 だが違うものを感じた。 無言でもう一度紫揺を抱く手に力を込める。
「く・・・苦し・・・い」
「あ、悪い!」
杠が紫揺の後頭部から手を離した。
手を回したまま顔を横に向けるとプハーっと息を吐く。 カルネラが紫揺の懐から出てきた時はこんな感じだったのかと思う。
横に向けた目の先には山肌がある。 岩石の山肌をじっと見つめて口を開く。
「お父さんってね・・・私の。 書が上手だったの。 師範・・・師になれる寸前までいってたんだって。 師になるつもりは無かったって言ってたけど。 どっちかって言ったら硯や筆の方に興味があったって。 でね、一度お母さんと一緒に会社の車・・・その、馬車で硯の元になる山に連れて行ってもらったの。 小っちゃかったからはっきり覚えてないけどこんな感じだったと思うんだ」
「・・・そうか」
「マツリから聞いてるかな」
「・・・ああ」
「・・・私も杠のことを聞いた」
「ああ・・・」
知っている。
「マツリがね、沢山言ってくれたの。 腹立つほどムカツクほどに。 ・・・お父さんとお母さんのことを思うといつも一人で泣いてた。 でもマツリが一緒に居てくれた、泣かせてくれた、だからもう泣かない、んだけど・・・」
「・・・ぅん?」
「それでも・・・寂しいね。 お父さんもお母さんも大好き。 お爺様もお婆様も。 みんなみんなを連れてきてあげたかった」
紫揺が杠の体に顔を伏せる。
どこに連れてきてあげたかったのか? それに紫揺の言葉が分からない部分がある。 本領と東の領土の言葉の違いを感じる。 でもそのことに疑問を抱く時ではないであろう。
「そうか。 紫揺の想いに父御も母御も祖父御も祖母御も喜んでおられる」
そうだ。 目に見えなくとも姿が見えなくとも。
「私より杠の方が小さい時にお父さんとお母さんと離れちゃったんだよね」
杠は誰かの腕の中で泣けたのだろうか。
紫揺が顔を上げて杠を見る。 今、杠の手は紫揺の背中にかかっている。
「そうだな」
「・・・大丈夫?」
杠が口角を上げる。
「歪んでいた、ようだ」
「え?」
杠を見上げる紫揺の視線を外して山の方を見る。
「マツリ様に紫揺は乗り越えた、杠も乗り越えてくれ。 マツリ様からの頼みだ、そう言われた」
「杠・・・」
視線を紫揺に戻す。 眉を上げ、声が出るのは口からだったが、その目から話されているような感じがした。
「だが、もう大丈夫だ」
「うん」
杠がどうして宮都に報告に来なかったのか、武官長から聞いてその理由は分かった。 かなり言い渋るように言ってはいたが、紫揺の事だ、それくらいするだろう。 だがもう夕刻になろうとしているというのに、まだ杠と紫揺が戻って来ない。
ペタコン、ペタコンと書類に判を押していく。
百二十七名には労役を科すが労役の先は現在不定。 そして詳しいことも他の都と合わせなくてはならない。 当分、官別所で冷たい飯と共に過ごしてもらう。
ゴロツキにはとっとと明日から杉山に行かせる。 金河と將基もそろそろ戻って来るだろう。
「手首が死ぬわっ!」
一人叫んでみるが四方はこの程度ではないのだろう。 改めて四方の大変さを知ることとなった。
最後の一枚に判を押した頃には夕刻になっていた。
「お疲れ様で御座いました」
全てに押印が終わった時、ちょうど控えていた文官が茶を持ってきた。
「・・・杠は」
「まだお帰りになってはおられないようですが」
マツリがブスッとしかけた時に文官所の戸が開いた音がした。
「マツリ様が戻られていると聞きましたが」
杠の声だ。
「戻られたようで」
文官が文官長室の戸を開け杠を呼び、すれ違いに文官が出て行った。
文官長室に入るとブスッとした顔のマツリが居た。
「どうされました?」
左腕で頬杖をつき、顔は横を向いて目だけを杠に合わせている。
「右手首が瀕死寸前」
杠が首を傾げる。
「押印。 杠が居れば杠に頼んだものを・・・どこに行っておった、それに紫は」
マツリの前に置かれている書類の束、これに押印して手首が疲れたと言いたいのか。
「この程度で?」
マツリが眉根を寄せる。
「鍛練が足りませんね。 四方様とご一緒に仕事をされた方が宜しいかもしれません」
押印に鍛練などというものがあるのか。
「紫は」
「武官所に居られます」
「武官所? どうして」
「武官と楽しい仲間になったと仰っておられました。 して、決起の方はどうなりましたか?」
楽しい仲間に薬草を塗り直してもらってもいるが。
杠に訊かれて思い出した。 そうだった、その話が一番だった。 押印が頭にきてすっかり頭から飛んでいた。 迂闊だった。
「呉甚も柴咲も捕らえた。 柴咲は似面絵が効いたようだ、二都で足止めを食っておった。 七都と八都の民がそれぞれ入った都で右往左往しておったと報告が入ってきた。 三都の者はどうだった」
「迎えもありませんでしたし、その様な動きもなかったと聞いております」
「そうか、五都の者は動いてはいなかったということだ」
「ということは、六都から七八都に入って二都に行ったということですか。 あとの都は何も知らなかった」
「ああ、そのようだな」
「動いた者と動かなかった者で咎が違ってきますか?」
「違ってくる。 動かなかったと言っても謀反を起こそうとしていたのだから、それなりの咎があるが動いた民はそれ以上の咎だ。 全ての都で咎を合わさなくてはならん、他の都の状況を見てからの判断となる。 従って六都の百二十七名は暫くあのままになる」
「承知いたしました」
「紫が怪我をしたと聞いたが?」
「紫揺自身は何でもないと言っておりますが、六都武官長が気にされております。 それに怪我をしたまま戻ればお方様やシキ様、あの女官たちがご心配をされるでしょう」
「その程度か」
「はい」
「で? どこに行っておった。 我抜きでっ!」
笑いかけた顔を見られないよう、すぐに横を向いたが気付かれたようだ。
「・・・杠」
駄目だ、耐えられない。 後ろを向いて肩を揺らす。
「・・・二人してなん月も一緒に居りおって」
「なん月などと、数日ではありませんか」
くっく、と笑いながら、まだ後ろを向いている。
「我からすれば、なん月ほどと感じておる」
なんとか肩の揺れをおさめマツリに向き直るが涙目である。
「それなのですが・・・」
紫揺と硯が作れるのではないかと思える、粘土質が堆積した岩石の山を見に行ったことを話した。
「硯?」
「はい。 人の手で割れる岩石です、確認してきました」
「どこにある」
「杉山と反対方向の三十都との境です。 紫揺は確証が持てないようで硯職人に確認してほしいと言っておりました」
「その山は間違いなく六都の山か」
「はい。 武官も時々ではありますが巡回に回るようですし、文官にも確認を取りました」
「承知した」
「ああ、それと。 將基と金河が戻って来ております。 道中手厚くしてもらったと喜んでおりました」
そのようにせよと、馭者となった武官には言っておいた。 間違いなくしたようだ。
あとには小声で百足が動いているかもしれないと話し、紫揺が襲われかけたことも話した。
額に紙が貼ってあったことを聞くと互いに目を合わせる。 好々爺だな、と。
「その者たちはどうした」
「最初武官たちは首を捻っていたようですが、間抜けにもまだ襲っていない、御内儀様とやらの顔を見ようと窓から入る寸前でわけが分からなくなった、と申しまして、武官長が蒼白になって官別所に放り込んだとのことです。 そちらの方の咎もお願い致します」
「ったく! いらん仕事を増やしおって。 杉山送りだ、たっぷり力山に可愛がってもらえばよい!」
「ではそのように」
「礼を言いに行かねばならんな」
「酒の用意をしておきます」
戸の外から文官たちのざわめきが聞こえてきた。
「紫揺が来たようです」
どうして紫揺が来ただけで文官たちのざわめきとなるのか、マツリが首を捻る。
ギュッと抱き上げられ、マツリ曰くの抱擁をされている紫揺。
紫揺が入ってきた途端にそうしたものだから戸を閉める間もなかった。 戸口には文官たちの顔が並んでいる。
「ば、馬鹿! 離しなさいよ!」
「言ったであろう、我に手を回すまでおろさんと」
「マツリ様、もう少し下がって下さいませ」
マツリが紫揺を抱えたまま二歩三歩と下がる。 杠が文官たちに軽く会釈をし、そっと戸を閉める。 その気配を背中で感じた紫揺。 しぶしぶマツリの首に手を回す。 するとマツリの片手が紫揺の背中に手を回してくる。
「久しい」
「・・・それ程でもないと思うけど」
頬を付けた紫揺の声が耳朶に響く。
「怪我はどうだ?」
「さっき武官さんが薬・・・薬草を塗ってくれた」
まただ、聞いたことの無い言葉。 どれほど本領と東の領土では言葉が違うのだろうか。
紫揺がこだわった “くん” にしてもそうだ、この本領にはそんな呼び方などは無い。
そうだ、それに・・・。 地下のことを四方に報告をしていた時 “デカームの人” と言っていた。 あの時は聞き慣れない使い方だと思っただけだったが、前後の話から意味が分かり特に何も考えなかったが、誰かを指す時にそんな言葉の使い方はこの本領ではしない。
「あとで見よう」
手には晒が巻かれているが、どうしてあとなのか。
「なんで?」
「今はまだこのままだ」
杠がそっと武官長室を出ると、文官たちが蜘蛛の子を散らすように自分の席に着いた。