『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第130回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第135回
四方が口に入れたものを咀嚼する音が聞こえる。
マツリの頭の中を一周し終えたであろう四方の声がやっと落ち着いて納まる場所を見つけた。
「え“え”―――!!」
すごいタイムラグである。
顔をしかめた四方が、わざとらしく箸を持っていない方の手で耳を押さえる。
給仕をしていた女官も驚いた顔をしている。 こんなに間の抜けたマツリの大声を聞くことなど今までに無かったのだから。
「そんなに驚くことはなかろう。 ああそうだった、リツソだったか」
「え? あ、いや、その。 シ、シグロが? ハクロの仔を?」
「他の狼では有り得んだろう」
「ま、まあ、そうですけど・・・」
まさかハクロに先を越されるとは思ってもみなかった。
「ハクロが・・・父親・・・」
「いつまでも何を言っておる。 リツソだ。 あ、いいや、発端は父上か」
ハクロがやって来た時にはマツリは居なかったが、偶然にも四方を見つけた。 そこで四方からシグロを本領に帰す許可をもらったのだが、運悪く四方の隣に四方の父上であり、リツソのジジ様であるご隠居とリツソが居た。
『ではハクロ、寂しかろう』
リツソが言う。
そんなことはないと言いかけたハクロより先にご隠居が口を開く。
『おお、リツソは何と優しいことか』
『ジジ様、我がハクロの相手をしてやります』
一瞬にして青ざめたハクロ。 その様なことは無用と口を開きかけた時に、再度ご隠居が言った。
『おお、おお。 そうか、そうか。 リツソは良い子じゃ、優しい子じゃ。 ハクロ、そうせえ。 そうじゃな、宮に長逗留は考えものじゃ。 わしの所に居るといい。 リツソ? 毎日ジジの所に来るか?』
『はいっ!』
「ということでな、リツソは毎日、父上の所に行っておる」
「あ? ではリツソは今もお爺様の所に行っているということで御座いますか?」
四方が苦い顔をしてみせる。
「毎日、ハクロに跨ってあちこちを走っておるらしい」
狼が走っていると民から苦情が殺到しているという。 苦情もそうだろうが、それ以前に考えなくてはいけないことがある。
「それでは北の領土のことはどうなります」
茶の狼たちだけでは的確に動けないだろう。
「わしも言ったのだがな、父上はリツソのこととなると・・・ああ、澪引のこともか。 とにかく聞く耳を持って下さらん」
マツリが大きな溜息を吐いた。
「我がリツソを連れ戻し、ハクロを北に戻します」
北の領土に何かあってからでは遅い。
「マツリの言うことなら父上も聞いて下さるだろう。 頼む」
その後は四方の話す宮都の様子をマツリが聞いていた。
四方との話を済ませると、秀亜群に飛ぶ前にまずはご隠居の所に行かねばならなくなった。 キョウゲンには戻ってきてから飛んでもらわなくてはならない。 巣で休ませたまま馬を走らせた。
屋敷の呼び鈴を鳴らすと、戸口の中に立っていた戸守男が木戸を開けた。
「これは、マツリ様」
「リツソは居るか」
「はい、先ほど丁度戻ってこられました」
腹が減って昼餉を食べに戻ってきたのだろう。
戸守男がマツリから手綱を預かると馬を中に入れ手綱を手綱木に引っ掛ける。
「ハクロは」
「こちらに」
戸守男が陽のあたらない所に案内をした。 そこにぐったりとしたハクロが身体を伸ばして横たわっている。
本来なら夜に動く狼。 それを朝から昼から走らされては身体が持たないだろう。 それにここは冷える北の領土ではない。 寒い所ならいざ知らず、こんな平地で過ごすには暑かろう。
「ハクロ」
かったるげにハクロが顔を上げた。
「マ、マツリ様!」
驚いて体を起こし身を正す。
「悪かったな。 我が居ぬ間に」
「・・・そのようなことは」
あります、めっちゃあります。 などとは言えない。
だが言わずともマツリには分かっている。
「今から北に戻る体力は残っておるか」
「はい」
「では戻って北のことを頼む」
「有難うございます」
承知しましたではない。 心の声なのだろう。
戸守男がハクロの先を歩くと木戸を開けて馬を遠ざける。 ハクロ達は北の領土と宮を行き来している。 見張番の馬は多少臭いには慣れているが、マツリの乗ってきた馬にその姿を見せて暴れさせてはいけないからだろう。 その間にマツリが家の中に入った。
「な~ご」
ジジ様の供である山猫が迎えに出てきたのか、偶然そこに居たのか。 マツリが履き物を脱ぐと山猫が案内するように先を歩く。
客間の襖の前で山猫が止まる。 マツリを振り向くと何もなかったように戻っていった。
襖の前にマツリが座す。
「お爺様、マツリで御座います」
ひっ! という声が襖の向こうから聞こえた。 リツソの声だ。
「マツリか、入れ」
客間ではリツソに膳を出し、リツソの食べる様子を嬉しそうにご隠居が見ていたようだ。 ご隠居はいつも決まった時間に食べる。 既に食べ終わっていたのだろう。 リツソが箸を持ったまま固まっている。
「父上からお聞きいたしました。 リツソが毎日お伺いしているそうで」
「おおそうじゃ。 毎日ハクロと民を見まわっておる」
うんうん、と何度も深く頷いてご満悦だ。
四方の元に苦情が殺到していることなど露ほども知らないらしい。
「ほぅ、そうでありましたか。 そのような事とは知らず、今しがたハクロを北の領土に戻してしまいました」
「え? どうしてじゃ」
どうしてじゃ、とは・・・。 本来狼は北の領土を見張っているものだろう。 リツソの玩具ではない。
「北の領土は少々不安材料が御座いまして、領土が今少し落ち着くまではハクロの目が必要かと」
「北の領土で何かあったのか?」
無くとも狼は北の領土を見ねばならないだろう。 隠居をしてすっかり北の領土のことを忘れてしまったのかと疑ってしまう。
「五色の・・・白の力を持つ者が先だって身罷りました。 代わりに本領から行きました五色はまだ歳浅い者で御座います。 それに領土に水害も出ておりますので」
火が出ていると言えば何か疑われるかもしれない。 沢を操る力を持つ白の力が必要となってくる水害が無難だろう。
「・・・そうか。 それでは民も不安であろうか」
「はい」
「では致し方ないか」
「はい。 して、お爺様。 リツソは朝から夕までこちらに伺わさせて頂いているようですが、勉学が滞っていると師が心配をしておりまして」
「勉学とな?」
「はい」
「ああ、それではわしが見てやろうか、のう、リツソ」
マツリがほくそ笑む。
未だ固まっていたリツソだったがご隠居に声をかけられ、ましてや勉学と聞かされ急速に解凍した。 これは都合が悪い。
「あ・・・、いえ、いいえ、そのような。 勉学は師からこいますのでジジ様はご心配なく」
ご隠居の所に来るのは殆ど逃げ込みに来るのだから、そんな所で勉学を教えてもらっては逃げて来た意味がないし、師から逃げることは出来ても、ご隠居から逃げるとあとあとマズい。
「リツソ、師が待っておられるがどうする」
「あ・・・」
「昼餉を頂いてから戻るか」
「・・・はい」
マツリがふと気づいた。
「カルネラは」
「えっと・・・怒って・・・木で休んでいると・・・思います」
怒ってとはどういうことだ。 気にはなるがとにかく今はさっさと食べさせて、とっとと宮に戻し、ちゃっちゃと秀亜群に行かねばならない。
「そうか。 ではせっかく作って頂いたのだから美味しくいただけ」
マツリに見張られ、これから宮に戻されるかと思うと美味しくなんて食べられるわけがない。
「そうじゃリツソ、マツリの言う通り。 美味しかろう、リツソの好きなものばかりが入っておろう? ジジがしっかりと言っておいたからな」
見事に偏った食事。 溜息を吐きたいのを堪える。
ご隠居がリツソを見ていた目をマツリに向ける。
「六都に出向いておるそうじゃな」
「はい」
「どんな具合じゃ」
ご隠居になにも六都のことを隠すことはない。 かといって全てを話して頭に血を上らせてもらっても困る。 突っ込まれ話が長引いて、リツソが食事を終えても話さなければいけなくなるだろうし、ポックリ逝かれても困る。
いま男達にさせていることを話すのが無難なところだろう。
「そうか、あの六都の者どもが汗を流しておるのか」
「疲れて悪さをする体力も残っていないようで、今のところ以前ほどの問題は起きておりません」
「六都といえど、所詮は金に釣られるか」
「食べ逃げをするのに食べながら店主の様子を見ているより、堂々と食べたほうが美味いということを知ったのでしょう」
話をしている間にリツソが食べ終えた。 必要以上に時がかかったのはマツリの気のせいではないだろう。
「ジジ様、ご馳走様で御座いました」
「おお、よう挨拶のできる良い子じゃ」
リツソの頭を撫でている。 それを白い目で見ているマツリ。 リツソはもう十六の歳になっているというのに。
「お爺様にお暇(いとま)の挨拶をして、カルネラを連れてくるよう」
不承不承という顔をしたリツソがご隠居に挨拶をする。
「ジジ様、有難うございました。 ハクロが居なくてもまた来ます」
「うんうん。 いつでも来るがいい」
リツソが立ち上がり部屋を出ようとした時、リツソだけに聞こえるようにマツリの低い声がした。 「逃げるなよ」 と。
背筋に怖気が走るような声だった。
「では、お爺様、これにて失礼をいたしますが、屋敷でリツソが世話になった者に礼を言ってから―――」
「よいよい。 わしからくれぐれも言っておく」
「なにからなにまでお世話になります。 では失礼をいたします」
「ああ、リツソを頼む」
パタリと襖を閉めたマツリ。 大きく溜息を吐きたいが、まだリツソを宮に戻さなくてはいけない。
そのまま玄関に向かって歩いて行くとカルネラの声が聞こえてきた。 玄関の戸は開けっ放しである。
「リツソ、オベンキョ、ベンガク! オベンキョシテネ、カルネライイコ、シユラスキ、リツソオシッコモラスー!」
カルネラがリツソの頭に上りリツソの頭をポカスカ叩いている。
カルネラが怒っているというのはそういうことか。 それにしても。
「も! もう漏らしておらん!」
マツリが堪らず溜息を吐き額に掌をあてた。
宮に戻るとリツソを師に預け、尾能に言って四方の従者を四人まわしてもらうと、窓と襖に二人づつ見張として立たせた。
「良いな、夕餉までしかりと励め」
「えー!? 夕餉までー!?」
「よろしく頼む」
師が恭しく頭を下げるとマツリがリツソの部屋を出て行き、自室に戻って狩衣から他出着に着替えるとキョウゲンに跳び乗った。
ちょうど外の空気を吸いに出ていた四方が飛び去るキョウゲンを見た。 六都からは馬でやって来たと聞いていたのに。
「マツリは六都に戻るのではないのか?」
後ろに控えている尾能に訊ねる。
「秀亜群の様子を見に行かれると仰っておられました」
四方に聞かせるのはどうかと思ったが、マツリの気持ちを伝えたかった。
「・・・そうか」
昼餉のときにはそんなことを言っていなかったのに。
「茶をお淹れいたしましょう」
「・・・ああ」
再び櫓が建てられ、紫揺の誕生の祝いである祭が行われていた。
紫揺も櫓の周りに輪を作っている民の中に入って一緒に踊っている。 櫓の上では祭の時と同じように楽の音が響いている。
笑顔を民に振りまいている紫揺だが心の中は泥沼状態だ。 それでも紫揺が憂いていた時のように民が気付かないのは、あの時ほどではないからであろう。
チラチラと月明かりに照らされる夜空を見上げる。 何度見てもキョウゲンの姿はない。
(来るならとっとと来なさいよ。 って? あれ? もしかして中止かな? マツリ、忙しそうだったからな)
当分来られないと言っていたのだから。
(んじゃ、気にすることないか)
「紫さま!」
「あ、朋来(ほうらい)、どう? 奈野(なの)のお熱は下がったの?」
やっと “ちゃん” や “君” 付けをしなくても気にならなくなってきた。 この領土では、本領もだが、そんな風に呼ぶことが無いのだから。 葉月が此之葉のことを “此之葉ちゃん” と呼んでいるのは日本に影響されたらしかった。
この朋来は、まだ紫揺が東の領土に来ることを決めていなかった時、そんな中、一度やって来た東の領土。 その紫揺の後ろを忍びながらお付きたちが紫揺の後を尾けていた。 その時に梁湶に声をかけ、驚いた梁湶がウワァ―っと声を上げかけ、壁にへばりついていた身体をより一層壁に引っ付けさせた、あの時の張本人だ。
あの時は丸い頬をした四歳だったが今では九歳になり、七つ離れた妹もいてしっかりとお兄ちゃんをしている。
「はい。 でも今はまだ家にいます」
楽の音がある。 互いに声を張り上げて話さなくてはいけない。
「うん、無理しない方がいいからね」
「これっ」
後ろ手に隠していた差し出された手には花束が握られている。
「わっ、ありがとう!」
「また家に戻って奈野の様子を見るから」
誕生を祝う祭に参加できないからということだろう。 その代わりに花束をくれたのだろう。
「うん。 奈野が寂しがるからね」
奈野はお兄ちゃん子である。 紫揺もそれをよく知っている。
その様子を見ていた湖彩がそっと紫揺に近寄る。 朋来が立ち去っていくのを見てから花束を預かる。 花がしおれていくのを紫揺が見たいと思っていないのをお付きたちは知っている。 湖彩が此之葉に渡すと器に水を入れ紫揺の部屋に飾った。
祭は佳境にかかってきた。
「マツリ様、来られませんね」
夜空を見上げながら秋我が言う。
「ああ・・・あの時にこちらから訊けば良かった。 もうこれ以上は・・・胃の腑が持たん」
「もし来られなかったら私から訊きましょうか?」
領主がチラリと秋我を見る。 いつの間にか背は抜かれていた。 辺境に行っている間に抜かれたのだろう。 細かった身体も今は領主によく似てしっかりとしている。
「もう・・・秋我に領主の座を譲ろうか・・・」
「何を仰ってるんですか」
ちょっと塔弥に相談すればわかることだが、まさか塔弥がこの事を知っているとは思ってもいない二人である。
そろそろ祭が終わる。
塔弥が夜空を見上げる。 だがキョウゲンの姿はどこにも見えない。
「みんなー! ありがとうー!! 皆さんが健康で、そして領土が安泰でありますようにー!」
紫揺が締めくくりの声を上げると喝采が起きた。
紫の誕生の祝いの祭が終わった。
「お疲れ様で御座いました」
此之葉が茶を出す。
「あ、お花生けてくれたんですね」
朋来から受け取った花束が飾られているのを目にする。
「萎れてしまってはいけませんので」
「うん、ありがとうございます。 奈野お熱が下がったみたいです。 わざわざ朋来が持ってきてくれました。 すぐに家に帰っちゃいましたけど」
「妹想いの朋来ですから気になるのでしょう」
「うん、そうでしょうね」
「マツリ様、来られませんでしたね」
「来なくていいから丁度良かった」
マツリが来る理由を紫揺は知っているはずだ。 それを言ってはもらえないが。
「湯浴みの用意が整っておりますが、休憩されてからお入りになりますか?」
「あ、じゃ、すぐに入ります」
ここはボタン一つで追い炊きが出来るわけではない。
飲み頃に淹れられていたお茶を一気に飲み干す。
夕餉は祭の前に食べ終わっている。 風呂にさえ入れば今日一日が終わる。
そう、無事に終わるはずだった。
それなのに・・・。
いま紫揺の目の前にマツリが居る。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第135回
四方が口に入れたものを咀嚼する音が聞こえる。
マツリの頭の中を一周し終えたであろう四方の声がやっと落ち着いて納まる場所を見つけた。
「え“え”―――!!」
すごいタイムラグである。
顔をしかめた四方が、わざとらしく箸を持っていない方の手で耳を押さえる。
給仕をしていた女官も驚いた顔をしている。 こんなに間の抜けたマツリの大声を聞くことなど今までに無かったのだから。
「そんなに驚くことはなかろう。 ああそうだった、リツソだったか」
「え? あ、いや、その。 シ、シグロが? ハクロの仔を?」
「他の狼では有り得んだろう」
「ま、まあ、そうですけど・・・」
まさかハクロに先を越されるとは思ってもみなかった。
「ハクロが・・・父親・・・」
「いつまでも何を言っておる。 リツソだ。 あ、いいや、発端は父上か」
ハクロがやって来た時にはマツリは居なかったが、偶然にも四方を見つけた。 そこで四方からシグロを本領に帰す許可をもらったのだが、運悪く四方の隣に四方の父上であり、リツソのジジ様であるご隠居とリツソが居た。
『ではハクロ、寂しかろう』
リツソが言う。
そんなことはないと言いかけたハクロより先にご隠居が口を開く。
『おお、リツソは何と優しいことか』
『ジジ様、我がハクロの相手をしてやります』
一瞬にして青ざめたハクロ。 その様なことは無用と口を開きかけた時に、再度ご隠居が言った。
『おお、おお。 そうか、そうか。 リツソは良い子じゃ、優しい子じゃ。 ハクロ、そうせえ。 そうじゃな、宮に長逗留は考えものじゃ。 わしの所に居るといい。 リツソ? 毎日ジジの所に来るか?』
『はいっ!』
「ということでな、リツソは毎日、父上の所に行っておる」
「あ? ではリツソは今もお爺様の所に行っているということで御座いますか?」
四方が苦い顔をしてみせる。
「毎日、ハクロに跨ってあちこちを走っておるらしい」
狼が走っていると民から苦情が殺到しているという。 苦情もそうだろうが、それ以前に考えなくてはいけないことがある。
「それでは北の領土のことはどうなります」
茶の狼たちだけでは的確に動けないだろう。
「わしも言ったのだがな、父上はリツソのこととなると・・・ああ、澪引のこともか。 とにかく聞く耳を持って下さらん」
マツリが大きな溜息を吐いた。
「我がリツソを連れ戻し、ハクロを北に戻します」
北の領土に何かあってからでは遅い。
「マツリの言うことなら父上も聞いて下さるだろう。 頼む」
その後は四方の話す宮都の様子をマツリが聞いていた。
四方との話を済ませると、秀亜群に飛ぶ前にまずはご隠居の所に行かねばならなくなった。 キョウゲンには戻ってきてから飛んでもらわなくてはならない。 巣で休ませたまま馬を走らせた。
屋敷の呼び鈴を鳴らすと、戸口の中に立っていた戸守男が木戸を開けた。
「これは、マツリ様」
「リツソは居るか」
「はい、先ほど丁度戻ってこられました」
腹が減って昼餉を食べに戻ってきたのだろう。
戸守男がマツリから手綱を預かると馬を中に入れ手綱を手綱木に引っ掛ける。
「ハクロは」
「こちらに」
戸守男が陽のあたらない所に案内をした。 そこにぐったりとしたハクロが身体を伸ばして横たわっている。
本来なら夜に動く狼。 それを朝から昼から走らされては身体が持たないだろう。 それにここは冷える北の領土ではない。 寒い所ならいざ知らず、こんな平地で過ごすには暑かろう。
「ハクロ」
かったるげにハクロが顔を上げた。
「マ、マツリ様!」
驚いて体を起こし身を正す。
「悪かったな。 我が居ぬ間に」
「・・・そのようなことは」
あります、めっちゃあります。 などとは言えない。
だが言わずともマツリには分かっている。
「今から北に戻る体力は残っておるか」
「はい」
「では戻って北のことを頼む」
「有難うございます」
承知しましたではない。 心の声なのだろう。
戸守男がハクロの先を歩くと木戸を開けて馬を遠ざける。 ハクロ達は北の領土と宮を行き来している。 見張番の馬は多少臭いには慣れているが、マツリの乗ってきた馬にその姿を見せて暴れさせてはいけないからだろう。 その間にマツリが家の中に入った。
「な~ご」
ジジ様の供である山猫が迎えに出てきたのか、偶然そこに居たのか。 マツリが履き物を脱ぐと山猫が案内するように先を歩く。
客間の襖の前で山猫が止まる。 マツリを振り向くと何もなかったように戻っていった。
襖の前にマツリが座す。
「お爺様、マツリで御座います」
ひっ! という声が襖の向こうから聞こえた。 リツソの声だ。
「マツリか、入れ」
客間ではリツソに膳を出し、リツソの食べる様子を嬉しそうにご隠居が見ていたようだ。 ご隠居はいつも決まった時間に食べる。 既に食べ終わっていたのだろう。 リツソが箸を持ったまま固まっている。
「父上からお聞きいたしました。 リツソが毎日お伺いしているそうで」
「おおそうじゃ。 毎日ハクロと民を見まわっておる」
うんうん、と何度も深く頷いてご満悦だ。
四方の元に苦情が殺到していることなど露ほども知らないらしい。
「ほぅ、そうでありましたか。 そのような事とは知らず、今しがたハクロを北の領土に戻してしまいました」
「え? どうしてじゃ」
どうしてじゃ、とは・・・。 本来狼は北の領土を見張っているものだろう。 リツソの玩具ではない。
「北の領土は少々不安材料が御座いまして、領土が今少し落ち着くまではハクロの目が必要かと」
「北の領土で何かあったのか?」
無くとも狼は北の領土を見ねばならないだろう。 隠居をしてすっかり北の領土のことを忘れてしまったのかと疑ってしまう。
「五色の・・・白の力を持つ者が先だって身罷りました。 代わりに本領から行きました五色はまだ歳浅い者で御座います。 それに領土に水害も出ておりますので」
火が出ていると言えば何か疑われるかもしれない。 沢を操る力を持つ白の力が必要となってくる水害が無難だろう。
「・・・そうか。 それでは民も不安であろうか」
「はい」
「では致し方ないか」
「はい。 して、お爺様。 リツソは朝から夕までこちらに伺わさせて頂いているようですが、勉学が滞っていると師が心配をしておりまして」
「勉学とな?」
「はい」
「ああ、それではわしが見てやろうか、のう、リツソ」
マツリがほくそ笑む。
未だ固まっていたリツソだったがご隠居に声をかけられ、ましてや勉学と聞かされ急速に解凍した。 これは都合が悪い。
「あ・・・、いえ、いいえ、そのような。 勉学は師からこいますのでジジ様はご心配なく」
ご隠居の所に来るのは殆ど逃げ込みに来るのだから、そんな所で勉学を教えてもらっては逃げて来た意味がないし、師から逃げることは出来ても、ご隠居から逃げるとあとあとマズい。
「リツソ、師が待っておられるがどうする」
「あ・・・」
「昼餉を頂いてから戻るか」
「・・・はい」
マツリがふと気づいた。
「カルネラは」
「えっと・・・怒って・・・木で休んでいると・・・思います」
怒ってとはどういうことだ。 気にはなるがとにかく今はさっさと食べさせて、とっとと宮に戻し、ちゃっちゃと秀亜群に行かねばならない。
「そうか。 ではせっかく作って頂いたのだから美味しくいただけ」
マツリに見張られ、これから宮に戻されるかと思うと美味しくなんて食べられるわけがない。
「そうじゃリツソ、マツリの言う通り。 美味しかろう、リツソの好きなものばかりが入っておろう? ジジがしっかりと言っておいたからな」
見事に偏った食事。 溜息を吐きたいのを堪える。
ご隠居がリツソを見ていた目をマツリに向ける。
「六都に出向いておるそうじゃな」
「はい」
「どんな具合じゃ」
ご隠居になにも六都のことを隠すことはない。 かといって全てを話して頭に血を上らせてもらっても困る。 突っ込まれ話が長引いて、リツソが食事を終えても話さなければいけなくなるだろうし、ポックリ逝かれても困る。
いま男達にさせていることを話すのが無難なところだろう。
「そうか、あの六都の者どもが汗を流しておるのか」
「疲れて悪さをする体力も残っていないようで、今のところ以前ほどの問題は起きておりません」
「六都といえど、所詮は金に釣られるか」
「食べ逃げをするのに食べながら店主の様子を見ているより、堂々と食べたほうが美味いということを知ったのでしょう」
話をしている間にリツソが食べ終えた。 必要以上に時がかかったのはマツリの気のせいではないだろう。
「ジジ様、ご馳走様で御座いました」
「おお、よう挨拶のできる良い子じゃ」
リツソの頭を撫でている。 それを白い目で見ているマツリ。 リツソはもう十六の歳になっているというのに。
「お爺様にお暇(いとま)の挨拶をして、カルネラを連れてくるよう」
不承不承という顔をしたリツソがご隠居に挨拶をする。
「ジジ様、有難うございました。 ハクロが居なくてもまた来ます」
「うんうん。 いつでも来るがいい」
リツソが立ち上がり部屋を出ようとした時、リツソだけに聞こえるようにマツリの低い声がした。 「逃げるなよ」 と。
背筋に怖気が走るような声だった。
「では、お爺様、これにて失礼をいたしますが、屋敷でリツソが世話になった者に礼を言ってから―――」
「よいよい。 わしからくれぐれも言っておく」
「なにからなにまでお世話になります。 では失礼をいたします」
「ああ、リツソを頼む」
パタリと襖を閉めたマツリ。 大きく溜息を吐きたいが、まだリツソを宮に戻さなくてはいけない。
そのまま玄関に向かって歩いて行くとカルネラの声が聞こえてきた。 玄関の戸は開けっ放しである。
「リツソ、オベンキョ、ベンガク! オベンキョシテネ、カルネライイコ、シユラスキ、リツソオシッコモラスー!」
カルネラがリツソの頭に上りリツソの頭をポカスカ叩いている。
カルネラが怒っているというのはそういうことか。 それにしても。
「も! もう漏らしておらん!」
マツリが堪らず溜息を吐き額に掌をあてた。
宮に戻るとリツソを師に預け、尾能に言って四方の従者を四人まわしてもらうと、窓と襖に二人づつ見張として立たせた。
「良いな、夕餉までしかりと励め」
「えー!? 夕餉までー!?」
「よろしく頼む」
師が恭しく頭を下げるとマツリがリツソの部屋を出て行き、自室に戻って狩衣から他出着に着替えるとキョウゲンに跳び乗った。
ちょうど外の空気を吸いに出ていた四方が飛び去るキョウゲンを見た。 六都からは馬でやって来たと聞いていたのに。
「マツリは六都に戻るのではないのか?」
後ろに控えている尾能に訊ねる。
「秀亜群の様子を見に行かれると仰っておられました」
四方に聞かせるのはどうかと思ったが、マツリの気持ちを伝えたかった。
「・・・そうか」
昼餉のときにはそんなことを言っていなかったのに。
「茶をお淹れいたしましょう」
「・・・ああ」
再び櫓が建てられ、紫揺の誕生の祝いである祭が行われていた。
紫揺も櫓の周りに輪を作っている民の中に入って一緒に踊っている。 櫓の上では祭の時と同じように楽の音が響いている。
笑顔を民に振りまいている紫揺だが心の中は泥沼状態だ。 それでも紫揺が憂いていた時のように民が気付かないのは、あの時ほどではないからであろう。
チラチラと月明かりに照らされる夜空を見上げる。 何度見てもキョウゲンの姿はない。
(来るならとっとと来なさいよ。 って? あれ? もしかして中止かな? マツリ、忙しそうだったからな)
当分来られないと言っていたのだから。
(んじゃ、気にすることないか)
「紫さま!」
「あ、朋来(ほうらい)、どう? 奈野(なの)のお熱は下がったの?」
やっと “ちゃん” や “君” 付けをしなくても気にならなくなってきた。 この領土では、本領もだが、そんな風に呼ぶことが無いのだから。 葉月が此之葉のことを “此之葉ちゃん” と呼んでいるのは日本に影響されたらしかった。
この朋来は、まだ紫揺が東の領土に来ることを決めていなかった時、そんな中、一度やって来た東の領土。 その紫揺の後ろを忍びながらお付きたちが紫揺の後を尾けていた。 その時に梁湶に声をかけ、驚いた梁湶がウワァ―っと声を上げかけ、壁にへばりついていた身体をより一層壁に引っ付けさせた、あの時の張本人だ。
あの時は丸い頬をした四歳だったが今では九歳になり、七つ離れた妹もいてしっかりとお兄ちゃんをしている。
「はい。 でも今はまだ家にいます」
楽の音がある。 互いに声を張り上げて話さなくてはいけない。
「うん、無理しない方がいいからね」
「これっ」
後ろ手に隠していた差し出された手には花束が握られている。
「わっ、ありがとう!」
「また家に戻って奈野の様子を見るから」
誕生を祝う祭に参加できないからということだろう。 その代わりに花束をくれたのだろう。
「うん。 奈野が寂しがるからね」
奈野はお兄ちゃん子である。 紫揺もそれをよく知っている。
その様子を見ていた湖彩がそっと紫揺に近寄る。 朋来が立ち去っていくのを見てから花束を預かる。 花がしおれていくのを紫揺が見たいと思っていないのをお付きたちは知っている。 湖彩が此之葉に渡すと器に水を入れ紫揺の部屋に飾った。
祭は佳境にかかってきた。
「マツリ様、来られませんね」
夜空を見上げながら秋我が言う。
「ああ・・・あの時にこちらから訊けば良かった。 もうこれ以上は・・・胃の腑が持たん」
「もし来られなかったら私から訊きましょうか?」
領主がチラリと秋我を見る。 いつの間にか背は抜かれていた。 辺境に行っている間に抜かれたのだろう。 細かった身体も今は領主によく似てしっかりとしている。
「もう・・・秋我に領主の座を譲ろうか・・・」
「何を仰ってるんですか」
ちょっと塔弥に相談すればわかることだが、まさか塔弥がこの事を知っているとは思ってもいない二人である。
そろそろ祭が終わる。
塔弥が夜空を見上げる。 だがキョウゲンの姿はどこにも見えない。
「みんなー! ありがとうー!! 皆さんが健康で、そして領土が安泰でありますようにー!」
紫揺が締めくくりの声を上げると喝采が起きた。
紫の誕生の祝いの祭が終わった。
「お疲れ様で御座いました」
此之葉が茶を出す。
「あ、お花生けてくれたんですね」
朋来から受け取った花束が飾られているのを目にする。
「萎れてしまってはいけませんので」
「うん、ありがとうございます。 奈野お熱が下がったみたいです。 わざわざ朋来が持ってきてくれました。 すぐに家に帰っちゃいましたけど」
「妹想いの朋来ですから気になるのでしょう」
「うん、そうでしょうね」
「マツリ様、来られませんでしたね」
「来なくていいから丁度良かった」
マツリが来る理由を紫揺は知っているはずだ。 それを言ってはもらえないが。
「湯浴みの用意が整っておりますが、休憩されてからお入りになりますか?」
「あ、じゃ、すぐに入ります」
ここはボタン一つで追い炊きが出来るわけではない。
飲み頃に淹れられていたお茶を一気に飲み干す。
夕餉は祭の前に食べ終わっている。 風呂にさえ入れば今日一日が終わる。
そう、無事に終わるはずだった。
それなのに・・・。
いま紫揺の目の前にマツリが居る。