大福 りす の 隠れ家

小説を書いたり 気になったことなど を書いています。
お暇な時にお寄りください。

辰刻の雫 ~蒼い月~  第195回

2023年08月25日 21時08分41秒 | 小説
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次


『辰刻の雫 ~蒼い月~』 第1回から第190回までの目次は以下の 『辰刻の雫 ~蒼い月~』リンクページ からお願いいたします。


     『辰刻の雫 ~蒼い月~』 リンクページ




                                  




辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~  第195回



宿所に行くとすぐに座卓の上に渡された硯を置き、水と墨を使って磨ってみる。 引っかかりは感じないし、底もしっかりと平らにしてあるようで僅かなグラつきもない。 砥石とヤスリでよく仕上げている。
硯職人から見てどうなのかは分からないが、使い手からとしての文句はない。

「良いですね」

顔を上げて男を見ると、強張っていた男の顔が緩んでいく。

「やっとかー・・・」

そう、これで何度目であっただろうか。 だがここが第一関門に過ぎないことは分かっている。 第二関門は教えてくれた硯職人からの合否である。 

その第二関門で落ちたとしても、それを安価な商品として売ることは売る。 やり直しでどうにかなるのならやり直す。
男の脱力する様子に微笑みながら「お疲れで御座いました」と声をかけ続ける。

「どうですか? 硯の山でやっていかれますか?」

杠が合格印を押した硯を作った者には必ず訊いている。 杉山に比べると一つを仕上げるのに時がかかる。 それに杉山は品を作らなくとも杉を切るだけで給金が入ってくるが、この岩石の山ではそうはいかない。 品を作ってそれが売れてやっと給金を手にすることが出来る。 それを骨身に沁みて分かってからどうするのか。

「杉山に比べると実入りは無いも同然だがこっちでやる」

「そうですか」

「道具を買いたいんだが・・・オレの残りの金で買えるか?」

杉山で手にしていた給金は宿所の食事代にしか使っていない。 ここに来てもう何カ月も経っているが、まだ岩石の山で給金を手にしていない。 金の管理は杉山でもそうだが文官が行っている。 万が一にも泥棒騒ぎがあってはならないからだ。
中心に戻って酒を吞む時などは、文官所に行って小遣いをもらうような仕組みになっている。 それを文官が一人一人の帳面に付ける。 小遣い帳のようなものである。

「お待ちください」

そろそろ仕上がるだろうという者の小遣い帳の残金をメモしてきている。 そのメモに指を這わせる。
残金を全て使うわけにはいかない。 これからいつ給金が入ってくるのかは分からない。 それでも食事代はかかるのだから。

「今はまだ全てを揃えることはやめた方が宜しいでしょう。 まずは一つでしょうか」

これまでに同じことを言ってきた者たちもそうであった。 やはり何か月も無収入なのは大きくひびいている。

「一つか・・・」

「今すぐ決めなくても宜しいですよ。 今度まとめて私が買いに行きますので、それまでに何を買われるか決めておいてください」

取り寄せるほどの数ではない。 そしてその時に仕上がった硯の具合を指導した硯職人に見てもらいに行く、そこで収入に繋がる結果が出ればよいのだが。

「あとは墨を塗りつけて下さい。 そのあと今日は一日休憩されたらどうですか?」

ずっとあの硯にかかっていたのだ。 それに杉山ではこんなことは出来ないが、ここでは仕上がっていくらの世界。 休憩も自由である。

「いや、塗りつけた後は新しいのを作る。 今度こそ杠官吏に一発で良いと言ってもらえるものを作るからな」

「そうですか、期待をして待っております」

男が笑いながら硯を持って宿所を出て行った。 この男だけではなく、取り組む姿勢においてもだが不服三昧だった男たちなのに、本当に人が変わったと思えるような笑顔である。 つくづくマツリのやってきたことに間違いがなかったと思える。

現段階で仕上がった硯は二十三個。 まだ一つも仕上がっていない者もいれば、二つ三つと仕上がらせた者もいる。 硯自体の大小の差もあるのだろうが、やはり得手不得手の違いが出ているのだろう。

食当番の者たちが戻ってきた。 馬車で中心まで食材を買い出しに行っていたようだ。

「あれ? 杠官吏、御内儀様ってのが来てると聞いたんだが?」

中心で紫揺と杠が二人乗りをしていたと聞いたが、宿所を見回しても紫揺の姿など見えない。

「岩石の山に居られます」

「え?」

「硯を作っておられるのでしょう。 紫さまは書が堪能でいらっしゃるので、硯のこともよくお分かりのようです。 それと、まだ御内儀様ではありませんので紫さまとお呼びください」

「へぇー、紫さまね。 その紫さまって、本領領主の筋の女人か何かか? それか宮仕え?」

宮仕えといっても上流の者しかなれないのだから、それであれば書も堪能だろう。

「いいえ、東の領土の五色様です」

この岩石の山でもいずれ分ること。 隠しておく必要もないだろう。

「え?」

「東の領土の?」

「五色様?」

五色様と言われてもよくは分からないが、少なくとも時期本領領主が本領からではなく、東の領土から御内儀様を迎える? 想像だにしていなかった。

「そ、それっていいのか?」

「どういうことでしょう?」

「本領の女人でなくてもいいのか?」

「そんなことは聞いたこともありませんが」

そういう決まりはないらしい。

「そ、そうか。 ならいいんだけどな」

自分達がいいかどうかなど関係の無い話だが、漠然と本領の女人が御内儀様になるものだと思っていた。

「その紫さまってのが居るんだ、昼餉はここで食べるだろう?」

自分達が作った物を一緒に食べるだろう?

「いいえ、お気持ちだけ頂いておきます。 いつものように紫さまの分の握り飯も持ってきておりますので」

「未来の御内儀様と食べられるなんて滅多にないことなんだしよう、一回くらい、いいじゃねーか」

「昼餉は皆さんの給金から出ています。 それを食するなど紫さまもご遠慮なさるでしょう」

「そんなことこの岩石の山のモンは考えてねーよ」

すると杠が笑いながら話し出した。

「紫さまは東の領土から来られていますので、宮で食べられるのにも遠慮をしておいでです。 働いてもいないのに食べさせて頂いていると」

マツリから聞いたことを正確に言うと、ただ飯と言っていたそうだが。

「へ?」

「なんでだ? 居るだけでいいんじゃねぇのか?」

民の感覚として宮の女人とはそういうものであって、たとえ東の領土から来ているといっても居るだけでいいのではないのか。

「東の領土では五色様として働いておられます。 それなのに宮では何もしていないのにと気にされておられます」

「へぇ・・・」

「以外っつーか」

「六都の女なら食らい付くのによぉ・・・」

「お気持ちは紫さまにお伝えしておきます。 では山に行って参ります」

履き物を履くと宿所を出て行った。
杠を見送った三人。

「いったいどんな女人だ?」

「見た事ねーよ」

「とっとと作って見に行こうぜ」

杠が岩石の山に戻ると紫揺が同じ所に座って砥石をかけていた。

「ずっと砥石をかけていらっしゃったんですか?」

前に座り込んで紫揺の手元を見る。

「うん。 なかなか平らにならないね」

紫揺がやって来た時『硯の事なら私も少しは分かるから。 あ、作り方じゃなくて仕上がった後の感触だけどね。 それに興味もあるし』 とは言っていた。 作り方を知っているとは言わなかったが、こうして砥石をかけている。 ある程度は知っているようである。

「力が無い者には時がかかっちゃうね」

「そうですね。 そろそろ指を痛めます、もうやめられればどうですか?」

「やれるところまでやる」

やると言ったら止めても聞かないだろう。

「足の方はいかがですか?」

「何ともない」

何ともあっても何ともないと言うだろうが、座りっぱなしだ、酷くはなっていないのだろう。

「杠官吏ー、見てくんねぇかー?」

「はい、すぐ行きます」

無理するなよ、と小声で紫揺に声をかけると声のかかった方に歩き出した。

「マツリも杠も忙しいんだ」

指が攣(つ)りそうである。 一度グッパをして指を動かす。
一心に砥石をかけていると再び杠がやって来た。

「昼餉の時になりました。 手を洗ってからどこかで食べましょう」

いつの間にそんな時間になっていたのか。 立ち上がりポンポンと衣をはたくと宿所にある水場に行くまでに男達からの昼餉の誘いを聞いた。 もちろん断ったことも。

「それで良かったでしょうか?」

「うん」

杠の話し方には引っかかりを感じるが民の耳がある。 仕方がない。 水場で手を洗い場所を移す。
杉山と違って木々の無い山である。 眺めとしては荒涼と言ってもいいだろう、寂しいと感じる。 それは紫揺が緑が好きであり、木々に息を感じると思っているからなのかもしれない。

適当な所に座ると杠から握り飯の入った包みを手渡された。 昨日は三個だったが三個を食べきるのは至難の業がいった。 かなりお腹がいっぱいになってしまったので、今日は二つにしてもらっている。
包みを開けると二つとも海苔が巻かれていた。 中に何が入っているのか楽しみである。
一つを手に取ると、隣で杠が筒に入っていた茶を木椀に入れてくれている。 それは女の仕事だろうと自分に突っ込むが、立場的には杠がしなければならない事。

「外で食べるのもいいね」

寂しい眺めではあるが空が見えるし広い。 パクリと一口齧る。

「御内儀様になろうとしている紫揺には有り得ないことだがな。 茶を置いておくぞ」

どこから持ってきていたのか木の台の上に木椀を置いた。 民の耳がなくなった途端、いつもの杠の話し方に戻ってくれるのは嬉しい。

「硯、売れそう?」

「さぁ・・・俺には分からないな。 あと数個出来上がれば硯職人に見てもらいに行く。 売り物になるかどうかはそこで判断してもらうが、少なくとも俺の判断では使えなくはない。 売り物にならないと言われても、安価で売るつもりだが買い手があるかどうかは別問題だからな」

杠も自分の分の包みを開けると握り飯を口に入れる。

「学び舎で勉学も教えてもらえるように言ったけど、あれどうなってるの?」

「ああ、教えてもらっている」

「硯や筆は?」

「各人が持って来ることにはなっているが持っている者などいないからな、六都で貸し出している。 硯も筆も数人に一つってところだな」

「まずは学び舎で使う硯を作るとかは?」

「買われていくらだからな。 六都も学び舎の為に進んで買うことも無いだろうし、ましてや学び舎に通う親が買うことはないだろう」

「そっか・・・。 うう、モノにならなかったら責任感じるなぁ・・・」

「作ることに楽しみを得た、まずはそれが一番だ。 金がなくなれば杉山に戻って働いて金を貯めてまたここに来るだろう。 金のことも覚えた。 紫揺が気にすることじゃない」

「だといいんだけど」

握り飯の中からおかかが出てきた。 醤油が沁みていて美味しい。

握り飯を食べ終わると少し休憩して今度は側面の歪な部分をなくしていく。
紫揺が根を詰め過ぎだとは思ったが、今は出来るだけ足を動かして欲しくはない。 座りっぱなしは丁度いい。

昼餉を食べながら紫揺の噂話でもしていたのだろう、男達が意味なく紫揺の周りを歩いていたが、当の紫揺はずっと下を向いたままで顔さえ拝めなかっただろう。
杉山の者たちと岩石の山の者たちが持つ紫揺の印象は全く違ったものになっただろう。 杠さえも紫揺がこんなにじっと座っていられるとは思いもしなかった。

「紫さま、そろそろ終わりましょう」

「え?」

「もう今日は終わりです」

周りを見るとみんな片付けをしている。 知らない間にかなりの時間集中していたようだ。

紫揺の手元は砥石で磨いた岩石にノミで池を掘っている途中だった。 水を入れる部分である。

「進みましたね」

「明日も来ていい?」

「マツリ様にお伺いしてからですね。 さ、手を洗って宿所に寄ってから戻りましょう」

立ち上がると紫揺のしかけていた物を杠が持ち宿所の棚に置いた。

「それでは皆さん、今日もお疲れ様で御座いました」

杠が言っている横で杉山から来た三人の男達に紫揺が声をかけている。

「どうでしたか?」

「こっちの方がいいかもしんねぇ、かな?」

他の二人も頷いている。

「誰に何を言われるわけでもねぇしな」

「杠に聞くとなかなかお金にはならないようですけど」

「聞いた。 でも中心に戻っても何もすることがねぇしな」

岩石の山で試してみて、それでやりたくないようなら中心に戻す、マツリにそう言われていたのを聞いている。 何もすることが無い・・・働いていなかったのか。
だが何もしない事ではなく、何かをすることを選んだ。 それは大きいのではないだろうか。

「無理をせずゆっくりと、ご自分のペース・・・歩みでやっていってください。 お金・・・のことばかり言って申し訳ありませんが、お金が無くなるようでしたら杉山で働けるそうです」

「マツリから・・・マツリ様から聞いてる、聞いてます」

言葉使いがなっていなかった、またマツリに不敬罪と言われるかもしれないと気づいたが今更である。

ちゃんとマツリが説明していたのか。

「紫さま、そろそろ杉山に戻らなくてはいけませんので」

この三人はまだ岩石の山の宿所には泊まれない。 いつ何時問題を起こすか分からないのだから、杉山に戻って武官の目があるところに戻らなければならない。

「あ、じゃ、明日も頑張ってください」

三人が杉山から通っている者たちと宿所をあとにした。
男達が宿所を出て行くのを見送ると紫揺がくるりと振り返った。 紫揺を見ていた男達の視線が踊る。

「昼餉のお誘いを有難うございました」

紫揺の第一声に男達が踊っていた視線を戻す。

「私がこの本領の者になりましたら、その時には一緒に昼餉を頂きたいと思います」

本領の者、それはマツリの御内儀になった時ということ。 宮の者として働いてちゃんと収入を得、昼餉代が払える立場になれば。 紫揺はそう思ってはいるが杠から言わすともう十分働いているのだが。

「今日は一緒に居させて下さって有難うございました」

ペコリとしかけて頭を止めると逆に宿所に居る者たちの方が頭を下げた。
杠が人知れず相好を崩したが、次の瞬間に紫揺が次のことを言った。

「出来れば明日も来て、やりかけの硯を仕上げたいんですけど・・・」

チラリと杠を見る。 その視線がわざとらしい。

「明日も来ればいいだろう?」

「そうだ、やりかけのものを放るわけにゃいかないだろ。 杠官吏、いいだろ?」

完全に岩石の山の者を味方につけたようだ。 これで明日、紫揺がここに来ないとなるとひと悶着発生するかもしれない。
マツリに何と言えばいいのか・・・。

「えーっと・・・紫さまは東の領土に戻られる時を考えねばなりませんので」

だから一日でも長くマツリと居させたいというのに。

「え? 御内儀様とやら、いつ戻るんだ?」

「まだ内儀ではありませんけど・・・」

今日で東の領土を空けて四日。 明日には五日となる。

「そろそろとは思っています。 それと今はまだ内儀ではありませんので紫と呼んでください」

「杠官吏! 少なくとも明日は御内儀様っと、紫さまを連れて来てくれよ」

御内儀様に会えるなどそうそうあることではない。 それに紫揺が硯を作っているのだ。 それもこの岩石の山で。

「あー・・・ですが」

「一日くらいいいだろ!?」

「マツリ様がどうお考えか・・・」

「杠官吏!」

「あ・・・では・・・マツリ様にはそう申し上げましょう」

責任はマツリにぶん投げることにする。 この岩石の山で目の敵にされてしまっては、岩石の山に来る意味がなくなってしまう。

「では紫さま、戻りましょうか」

杠が前を歩いて宿所を出た。
杠と二人乗りで馬に乗って帰っていくのを岩石の山の者たちが見送る。

「紫さま・・・いいよな」

誰が言い出したのだろうか。

「女人にはちーっと遠いがな」

どいつが言った。 紫揺に聞こえていれば、それなりの私刑を下されたかもしれない。 向う脛蹴りとか。

「たしかにちーっとどころか大分と遠いが、オレらみたいなのに礼を言った」

「言ったじゃねー、仰った、だろが」

マツリに対して杠や武官たちがそんな言葉を使っていたのを耳にしていた。 使い慣れないが。

「ああ、それに見たか? ずっと硯を作ってた」

「杠官吏が紫さまは書が堪能と言ってたしな」

「おらぁー! さっさと卓の用意をしろ! 夕餉だ夕餉!」

食当番が割って入ってきた。 男達が隅に片付けてあった座卓を運び出す。


「で? 紫は杠のせいにして、杠は我のせいにして、明日、紫は岩石の山に行くということか?」

「べつに杠のせいにしてないし」

「しっかりと俺を見ただろう」

「いや・・・単に硯を仕上げたかっただけだし。 杠を見たのには意味は無いし」

「あれは完全に計画的だろう」

「そんなことないしぃ~」

マツリの知らない所で起きていた話を言い合ってくれる。 やはり一日でも紫揺を手放すのではなかった。

「ね、マツリ、明日も硯の山に行ってもいいでしょ? 仕上げたいの」

岩石の山から戻って来て紫揺の足の具合を見た。 まだ明日一日は足を動かさない方がいい。 信じられない事だが、杠の話から岩石の山に居ると紫揺はじっとしているらしい。

「・・・紫」

杉山に来てはまたいつ杉に呼ばれるか分からない。 もう呼ばれることも無いだろうが、それでも万が一呼ばれてしまってはまた傷を増やすだけ。 だからと言って・・・。 また女々しいことを考えてしまう。

「紫は・・・我と居たくないのか?」

女々しいことを口にしてしまった。

「今こうして一緒に居るじゃない」

宿の一階の食処に。 ましてや斜交(はすか)いに。

「杠・・・我はどう考えればよい」

「あ・・・。 お訊きにならないで下さい」

杠とて紫揺の考えていることは分からなくもない。 だがそれを敢えてマツリに言うのは酷である。 マツリも分かっているのだろうから。

「明日で本領に来て五日でしょ? そろそろ戻ることも考えなきゃなんないし・・・ね、明日だけ。 お願い」

東の領土に戻ることを考えて己と一緒に居ないことを選ぶという。

―――どういう意味だ。

分かっていなかったようである。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 辰刻の雫 ~蒼い月~  第1... | トップ | 辰刻の雫 ~蒼い月~  第1... »
最新の画像もっと見る

小説」カテゴリの最新記事