『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第126回
「昼餉の前に帰ろうと思います」
「え? もう少しゆっくり出来ないの?」
「カジャに教えてもらったこともありますし、何かあった後では遅いので」
東の領土の災いの話をされては引き留めることは出来ない。
「残念だわ」
早々にカジャに会わせるのではなかったと、今更後悔しても遅い。
「シユラ、カエル?」
「うん。 帰るまで肩に居てね」
カルネラを肩に乗せて澪引の部屋に向かっていた。
シキと澪引が妊婦の運動という名の散歩を終え、シキが休憩をとってから、紫揺と二人で澪引の部屋を訪ねに来ていた。
回廊には従者がずらりと並んでいる。
シキの後ろにも従者がずらりと歩き、最後尾に “最高か” と “庭の世話か” が歩いている。 昌耶は紫揺と反対の横を歩きシキの手を取っている。
既にシキと紫揺の姿を見止めた従者が来訪を告げているので、何も言わずとも襖が開けられる。
部屋の端には千夜が座っている。 昌耶と目が合うと互いにフンっと顎を上げている。
シキを椅子に座らせると昌耶が部屋を出て行った。 ここは澪引の部屋、昌耶がシキの為とはいえ残ることは出来ない。 悔しいが今はシキを千夜に預けるしかない。
シキに言ったことと同じように昼餉前に東の領土に帰ると告げ、残念そうにしている澪引を慰めてから出されていた菓子にやっと手を伸ばすことができた。
「でも残念ね、せっかく紫が来てくれたというのに・・・」
とても残念そうに澪引が言う。
何のことかと紫揺が眉を上げる。 その口には齧ろうとした菓子が半身入っている。
「マツリがいないでしょ?」
サクッと音を立て半身を口に入れ、もう半身を持つ手を下げる。
「澪引様とシキ様にお会い出来ました。 それにややにも」
まだシキのお腹の中ではあるが、懐妊を知らされた時にはお腹も膨らんでおらず実感がなかったが、今は充分実感できる。 それに蹴りという挨拶も受けたのだから。
澪引が小さな溜息を洩らしている。
「ね、紫?」
「はい」
「母上もわたくしも紫をマツリの奥にと考えているの。 それにマツリも」
「あ・・・えっとー。 でもそれは・・・」
シキが首を振る。 長くウエーブしている髪の毛がそっと揺れる。
「無理強いしているのではないの。 それを忘れないでいてもらえる?」
紫揺が口の中の物を飲み込むと一文字にした。 なにかを考えるようにして、そしてゆっくりとその口を開く。
「・・・仮に」
シキの目が嬉しそうに輝き、澪引の朱唇が期待にほころぶ。
「仮に・・・私が、マツリ・・・のことを・・・その、想った・・・としても。 東の領土と別れる気はありませんから」
マツリのことを想ったとしても、そこのところは途切れ途切れに言ったのに、東の領土のことはすらすらと言ってくれた。
どこまでマツリのことを言いにくくしているのか。 だが “仮に” とでも、マツリのことを想うと言った。 これは大きな進展だ。
「紫? マツリを信じてもらえない?」
紫揺が何のことかと首を傾げる。 いつものコキンではない。 ゆっくりと。
「マツリは東の領土から紫を取り上げたりしないはずよ」
今度は傾げたままで眉根を寄せる。
「東の領土の紫はただ一人。 東の領土の民が言っていることにマツリが耳を寄せないはずはないわ。 それに紫の気持ちを一番に考えているはずよ」
シキを見ていた視線を下げる。
「マツリを信じて? そして紫は誰を想っているのかに心を寄せてもらえる?」
「誰を想っている、か?・・・」
「ええ。 誰も想っていなくはないはずよ。 紫の心に誰かが居るはずよ」
ここまで言えば、シキがその誰かが誰なのか言っているようなものなのだが、残念な紫揺には届いてはいない。
澪引の部屋を出て着替えを済ませるとカルネラを預け、澪引とシキに見送られ大階段を下りた。 そして最後には “最高か” と “庭の世話か” が紫揺と秋我を見送った。
「な~ご」
回廊の端からカジャが出てきて紫揺の後姿を見送っていた。
門が閉まると三々五々散らばっていた従者が戻ってきた。 最後の最後にリツソに現れてもらっては困るからだ。 万が一にも大泣きに泣かれてはどうしようもない。
「捕らえろ!」
マツリのひときわ大きな声が上がった。
朱色の皮の胸や肘膝当てを付けた武官たちが走る。 鎧は着けていない。 相手は山賊でもなければ強盗でも地下の者でもない。 武器など持っていないのだから。 それに走って追うに鎧は邪魔なだけである。
宮都からやって来た武官たちを幾つかの組に分け、その一つの組、朱翼軍(しゅよくぐん)の三人を引き連れ、毎日その筆頭に立って軽い食べ逃げにしても喧嘩にしても徹底的に捕らえた。 武官に捕まるのを嫌って家から出てこなければそれで良しとしている。
いま六都には都司が居なければ文官所長もいない。 マツリが六都文官所に入れば、それは六都官吏の長となるということだ。 その立場を利用し、六都の中で徹底的に六都の粛清を謀っていた。
宮を出る前の朝議では、それは独裁になると反対意見も出たが、マツリがゴリオシで通していた。
今を逃すとあとが無いのだから。 それに全員に反対されれば考え直す余地もあったが、反対をしたのは六都の現状をあまりよく知らない文官の文部長ただ一人だけだった。
そして今、マツリが武官を従えている一方で、六都の文官が一人、武官に付き添われせっせと人足募集の貼り紙をあちこちに貼ってまわっている。
残りの文官は文官所に詰め、宮都からやって来た文官たちと一緒に二重帳簿から税がどれだけ横流しされていたのか、都庫金の不正がどれだけあったのか、それを何年も前に遡って調べている。 もちろん都司が書き記していた三冊にも目を通していた。
数日前、三か所で捕らえられた者たちは、すぐにマツリと数人の武官と共に宮都に移動をしていた。
宮都の刑部が「やっと落ち着いたと思ったのに、またか・・・」とガックリと肩を落としたことをマツリは知らない。
だが送られたのは、都司、文官所長、六人の文官と六年前の都司とその女房だけである。 他の者は六都内でその咎に判断を下す。
そして咎人たちを刑部に引き渡すと四方の許可の元、マツリが式部省で杠の宮都への移動指示令を書かせ六都に舞い戻っていた。
「マツリ様」
ひっ捕らえていかれる者たちを見送っていたマツリの耳に月夜の影から杠の声が聞こえた。
辺りに目を走らせると、そっと声のした路地に足を向ける。 路地の手前で止まると杠に背を向ける形で立ち止まった。
「分かったか」
「辺境からの脅しとは関係なかったようですが、詳しいことはまだ特定には及んでおりません。 ですがどうも、宮内(みやうち)が関係しているかもしれなません」
「宮内?」
マツリが目を眇める。
六都を出た享沙からの連絡であった。 いま享沙は一人で下三十都に居る。 絨礼と芯直が持って帰ってきた官吏家族たちの井戸端の情報の裏付けに動いていた。
井戸端の話しでは『下三十都に辺境の郡司が入るようだ』 ということであった。
以前、辺境の郡司が下九都を食おうとしていた、そんな話が百足からもたらされ、四方から注意喚起を受けた下九都ではそれを潰したようだが、同じことが繰り返されているのだろうかと訝しんで、杠が下三十都に享沙を送り込んだのだが、その様ではなかったらしい。
マツリが咎人と共に宮に戻った時、四方にそのことを訊くと、百足からそのような連絡は入っていないということであった。
たしかに絨礼と芯直が聞いたときも “郡司が下三十都に入るようだ” という話であって “入った” ではなかった。
だが単に入るのなら井戸端で話されるはずがない。 なにより六都と下三十都はかなり離れている。 何かあるのかもしれないと杠が怪しんだ。 何をしに辺境の郡司が下三十都に入ろうとしているのだろうか。
享沙が調べた時にはすでに郡司が入ってきていて、薬草を売りつける為だったようだと噂を聞きつけた。
いま下三十都では流行り病に苦しむ民が多々居るらしい。 それに効くという薬草を持って入ってきたということだが、あまりにも高値が過ぎた。
それに辺境の地でどうして下三十都の流行り病のことを知ったのか。 下三十都に隣接しているとはいえ、流行り病で人が倒れていたのは下三十都の中心だ。 簡単に辺境にまで噂が届くとは思えない。
そこまでが現状分っていたことである。 杠が説明を終える。
「宮内の誰かが流行り病のことを教えたということか」
下三十都の流行り病のことを知っている者が。
「その色が濃いかと」
「官舎ではなくか」
六都のことがある。 官吏が関わっているのかもしれないと敢えて訊いた。
宮都以外は官所(かんどころ)というが、宮都では官舎と言う。 宮内(みやない)にある門を潜って武官や文官が働いているところである。 宮内の門を潜るといっても、そこを宮内(みやうち)とは呼ばない。 宮内(みやうち)と呼ぶのは、客をもてなしたりマツリたちを含む宮の者が生活する場所と、四方が宮内に作った文官たちの仕事部屋、四方の執務室だけのことである。
「はい」
先に享沙を送り込み、マツリが一旦宮都に戻って再度六都に戻ってくるのを待ってから杠も下三十都に入った。 享沙と合流すると、杠はまず最初に官吏や官所で働く者たちを調べようとした。
以前、四方に付いて仕事をしていた時に目にした書類があったからである。
そこに書かれていたのは、下三十都都司と秀亜郡にいざこざがあったということだった。
杠はそれが気になった。 今回の郡司はまさにその時の秀亜群の郡司だったのだから。
だからすぐに官吏と都司の動きを調べようとしたのだが、官吏も都司も流行り病に倒れていた。 それどころか、郡司にべったりと張りついていた享沙が思いもかけない拾い物を目にした。
郡司が茶屋で喉を潤し銭袋を懐から出そうとした時、その懐から落とした物は宮の印のある封じ袋だった。 郡司がすぐに拾い上げたが、郡司にとって運悪く落としたのは、茶屋の床几に座っていた享沙の足元であった。
だがそれだけでは、今回のことと関係しているのかどうかも分からない。 と言いたいところだが、そうとも言えない。
宮にいる者がどうして郡司に文を送るのか。 官吏でもないのに。 常なら考えられない。
官吏であったならば、違う印が押されている。
「このままこちらの方を洗っても宜しいでしょうか」
最初に考えていたのは、下九都と同じことが起きているのではないかということだったが、そうではなかった。 それで終わる筈だった。 それなのに六都のことを置いて下三十都に舞い戻ると言っている。
「そちらは俤に任せる」
杠が気にしているということは何かあるのだろう。 それに宮内が関係しているかもしれないというのも気になる。
「金河を連れて出ても宜しいでしょうか」
マツリが顎に手をやった。
金河である巴央はよく動いてくれる。 だが・・・六都の咎人が捕まってからの様子がおかしい。
「・・・ああ、構わん」
最初に巴央を見た時、巴央自身は使えると思ったが灰汁が強すぎる。 だが杠なら何とかやってくれるだろうと思っていた。
それが今かと思えた、杠がそうしようと思っていると思えた。
杠が頭を下げた気配を残して全ての気配がなくなった。
杠が巴央の長屋を訪ねた。
内側から戸が開くと「なんだ」と気の抜けた声を出し、左右をキョロキョロとすると顎をしゃくる。
すぐに中に入り杠が戸を閉めるが長居をする気はない。
「下三十都で調べものがあります」
「沙柊が行ってるんじゃないのか?」
「ええ、ですが金河も来て下さい。 今からすぐに」
巴央が目を眇める。
「調べものがあると言いました。 下三十都だけでは終わらないかもしれないので」
「餓鬼たちはどうすんだ」
一日中とは言わないが柳技、絨礼、芯直を離れた所から見守っていた。 杠に言われたということもあるが、言われなくともそうしただろう。 意外と優しい一面を持っている。
「力山に頼んでおきました。 今は力山の長屋に移動させています。 それに三人とも当分、大人しくしていてもらいますので」
柳技においてはマツリがこちらに来てしまったのだ。 商品が入ってこないのだから商売も出来ないし、もともと官所にいる杠との連絡役であったところが大きい。 その杠がもう官所にいないのだから、柳技の仕事は殆どが無いようなものである。
絨礼と芯直においても、もうマツリと武官、文官が入ったのだ。 噂は必要ない。
「力山に行かしゃあいいだろうが」
「話している時が惜しいので歩きながら説明をします。 すぐに荷物をまとめて下さい」
「おい! なに言ってんだ!!」
「野並の四つ辻、二つ西に入ったところで待っています」
ガチャンと何かを投げる音が戸を閉めた杠の背中に聞こえた。
人気のない道を二人が歩いている。
「え・・・嘘だろ」
「最初に言いました。 こういう見方も出来ると。 決してそうとは限らないですが、そのつもりで動いて下さい」
四つ辻で待っていると “すぐに” と言ったのに、それ以上に待たされた。
少し前、不貞腐れた様子を見せながら巴央が姿を見せた。 巴央にしてみれば、言われた野並の四つ辻二つ西に入った所に来たのに杠の姿がない。 袋に包んだ荷物を投げようとしかけた時に『何をしています、行きますよ』 と声が聞こえた。
振り返るといつの間にか杠が立っていて歩き出していた。
いつの間に、と思いながらも、投げかけた袋を背負い直し杠の後ろについた。
『まずは事の起こりから、そしてあったこと、最後に己の考えを言います。 己の考えというのは、あくまでもこういう見方も出来るということです』
杠から聞かされたのは、まず今回、下三十都に秀亜郡司が入ってきたというところから始まった。 そして以前、下三十都都司と秀亜群司でいざこざがあったということであった。
『どういうことだ、死人が出たってのに、何も分からないで終わりってか!?』
『ええ、許せるものではありません』
『・・・え』
意外な答えだった。
巴央の失敗を、抽斗をちゃんと元に戻さなかった失敗を皆の前で言った。 巴央の矜持をズタズタにした杠だった。 憎んでいると言ってもいい相手だった。
だがそれは己の手落ちが発端だとは分かっている。 ・・・それでも許せない。
巴央は真っ直ぐに生きてきた。 その真っ直ぐ過ぎる生き方は矜持をも高くもしていたが、本人はそれに気付いていない。
杠は同じ様な過ちを他の者たちにもさせないために言っただけであって、巴央を糾弾したわけではない。 それも分かっている。
だが・・・許せない。
『下三十都に任せるだけでなく、宮都から武官も文官も行って調べたようですが、確かに亡くなった官吏が火をつけていたそうなんです。 それを秀亜群の民が証言したのですから、それ以上進めないということです。 それで己は今回のことと繋げて考えるのですが・・・』
聞く気もない杠の話が頭の中に入ってくる。
それは突拍子もないと言っていい話だった。 どうしてその話と今回のことがそんな風に繋がるんだ。 それにそんなやり方で。
『ですから己はそう考えています。 ですがそれは見当違いかもしれません』
その見当違いの話を聞かされた巴央が『嘘だろ』と言ったのだった。
「己の見当違いを望みますが、望むと現実にある、無いとは違ったものです」
「はっ、お前の見当が間違い過ぎなんじゃないのか?」
「そうあって欲しいものです。 ですから調べたいのです」
もし杠の言う通りであったら・・・。
「俺は汚いことが嫌いだ」
「ええ、己もです。 そして力山も沙柊もです」
巴央が前を歩く杠の背を睨む。
「柳技と絨礼と芯直もそう思えるよう、己らが伝えていかなくてはなりません」
「本当にそんなことが起きてると思ってるのか?」
「分かりません。 ですが・・・有り得なくはありません」
「宮のことは分からねーが・・・」
言葉をとぎらせた巴央に杠が軽く肩越しに振り返る。
「ええ、己も僅かな間、宮に居ただけですが」
温和な声音で杠が言う。 そして続ける。
「だからこそ、有り得るかもしれないと思うんです」
四方の仕事を手伝いながら色んな事例を見た。
杠が前を見る。
「そうですね、下三十都で色々見聞きしていただいた後、秀亜群に飛んでいただきたい・・・あ、沙柊が先に飛びますか。 沙柊もかなり怒っていますから」
「お前の話を聞いてか?」
杠が口の端を上げる。
「沙柊には己が思う話をしていません。 あったことだけを話しています。 それで沙柊なりに考えて動くでしょう」
臭わせるようなことを織り込みながら話したが。
「沙柊がお前と同じことを思うっていうことか? それとも単にお前がそう思いこんでいるってことか?」
「さぁ、どうでしょう」
享沙は享沙の判断で動いているということ。 そして杠はそれを止めていない。
巴央の矜持が動いた。
「てれてれ歩いてんじゃない。 さっさと歩け」
巴央が杠を抜いて事前に官吏としての杠が用意していた馬を引き取りに行くための馬宿に向かった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第126回
「昼餉の前に帰ろうと思います」
「え? もう少しゆっくり出来ないの?」
「カジャに教えてもらったこともありますし、何かあった後では遅いので」
東の領土の災いの話をされては引き留めることは出来ない。
「残念だわ」
早々にカジャに会わせるのではなかったと、今更後悔しても遅い。
「シユラ、カエル?」
「うん。 帰るまで肩に居てね」
カルネラを肩に乗せて澪引の部屋に向かっていた。
シキと澪引が妊婦の運動という名の散歩を終え、シキが休憩をとってから、紫揺と二人で澪引の部屋を訪ねに来ていた。
回廊には従者がずらりと並んでいる。
シキの後ろにも従者がずらりと歩き、最後尾に “最高か” と “庭の世話か” が歩いている。 昌耶は紫揺と反対の横を歩きシキの手を取っている。
既にシキと紫揺の姿を見止めた従者が来訪を告げているので、何も言わずとも襖が開けられる。
部屋の端には千夜が座っている。 昌耶と目が合うと互いにフンっと顎を上げている。
シキを椅子に座らせると昌耶が部屋を出て行った。 ここは澪引の部屋、昌耶がシキの為とはいえ残ることは出来ない。 悔しいが今はシキを千夜に預けるしかない。
シキに言ったことと同じように昼餉前に東の領土に帰ると告げ、残念そうにしている澪引を慰めてから出されていた菓子にやっと手を伸ばすことができた。
「でも残念ね、せっかく紫が来てくれたというのに・・・」
とても残念そうに澪引が言う。
何のことかと紫揺が眉を上げる。 その口には齧ろうとした菓子が半身入っている。
「マツリがいないでしょ?」
サクッと音を立て半身を口に入れ、もう半身を持つ手を下げる。
「澪引様とシキ様にお会い出来ました。 それにややにも」
まだシキのお腹の中ではあるが、懐妊を知らされた時にはお腹も膨らんでおらず実感がなかったが、今は充分実感できる。 それに蹴りという挨拶も受けたのだから。
澪引が小さな溜息を洩らしている。
「ね、紫?」
「はい」
「母上もわたくしも紫をマツリの奥にと考えているの。 それにマツリも」
「あ・・・えっとー。 でもそれは・・・」
シキが首を振る。 長くウエーブしている髪の毛がそっと揺れる。
「無理強いしているのではないの。 それを忘れないでいてもらえる?」
紫揺が口の中の物を飲み込むと一文字にした。 なにかを考えるようにして、そしてゆっくりとその口を開く。
「・・・仮に」
シキの目が嬉しそうに輝き、澪引の朱唇が期待にほころぶ。
「仮に・・・私が、マツリ・・・のことを・・・その、想った・・・としても。 東の領土と別れる気はありませんから」
マツリのことを想ったとしても、そこのところは途切れ途切れに言ったのに、東の領土のことはすらすらと言ってくれた。
どこまでマツリのことを言いにくくしているのか。 だが “仮に” とでも、マツリのことを想うと言った。 これは大きな進展だ。
「紫? マツリを信じてもらえない?」
紫揺が何のことかと首を傾げる。 いつものコキンではない。 ゆっくりと。
「マツリは東の領土から紫を取り上げたりしないはずよ」
今度は傾げたままで眉根を寄せる。
「東の領土の紫はただ一人。 東の領土の民が言っていることにマツリが耳を寄せないはずはないわ。 それに紫の気持ちを一番に考えているはずよ」
シキを見ていた視線を下げる。
「マツリを信じて? そして紫は誰を想っているのかに心を寄せてもらえる?」
「誰を想っている、か?・・・」
「ええ。 誰も想っていなくはないはずよ。 紫の心に誰かが居るはずよ」
ここまで言えば、シキがその誰かが誰なのか言っているようなものなのだが、残念な紫揺には届いてはいない。
澪引の部屋を出て着替えを済ませるとカルネラを預け、澪引とシキに見送られ大階段を下りた。 そして最後には “最高か” と “庭の世話か” が紫揺と秋我を見送った。
「な~ご」
回廊の端からカジャが出てきて紫揺の後姿を見送っていた。
門が閉まると三々五々散らばっていた従者が戻ってきた。 最後の最後にリツソに現れてもらっては困るからだ。 万が一にも大泣きに泣かれてはどうしようもない。
「捕らえろ!」
マツリのひときわ大きな声が上がった。
朱色の皮の胸や肘膝当てを付けた武官たちが走る。 鎧は着けていない。 相手は山賊でもなければ強盗でも地下の者でもない。 武器など持っていないのだから。 それに走って追うに鎧は邪魔なだけである。
宮都からやって来た武官たちを幾つかの組に分け、その一つの組、朱翼軍(しゅよくぐん)の三人を引き連れ、毎日その筆頭に立って軽い食べ逃げにしても喧嘩にしても徹底的に捕らえた。 武官に捕まるのを嫌って家から出てこなければそれで良しとしている。
いま六都には都司が居なければ文官所長もいない。 マツリが六都文官所に入れば、それは六都官吏の長となるということだ。 その立場を利用し、六都の中で徹底的に六都の粛清を謀っていた。
宮を出る前の朝議では、それは独裁になると反対意見も出たが、マツリがゴリオシで通していた。
今を逃すとあとが無いのだから。 それに全員に反対されれば考え直す余地もあったが、反対をしたのは六都の現状をあまりよく知らない文官の文部長ただ一人だけだった。
そして今、マツリが武官を従えている一方で、六都の文官が一人、武官に付き添われせっせと人足募集の貼り紙をあちこちに貼ってまわっている。
残りの文官は文官所に詰め、宮都からやって来た文官たちと一緒に二重帳簿から税がどれだけ横流しされていたのか、都庫金の不正がどれだけあったのか、それを何年も前に遡って調べている。 もちろん都司が書き記していた三冊にも目を通していた。
数日前、三か所で捕らえられた者たちは、すぐにマツリと数人の武官と共に宮都に移動をしていた。
宮都の刑部が「やっと落ち着いたと思ったのに、またか・・・」とガックリと肩を落としたことをマツリは知らない。
だが送られたのは、都司、文官所長、六人の文官と六年前の都司とその女房だけである。 他の者は六都内でその咎に判断を下す。
そして咎人たちを刑部に引き渡すと四方の許可の元、マツリが式部省で杠の宮都への移動指示令を書かせ六都に舞い戻っていた。
「マツリ様」
ひっ捕らえていかれる者たちを見送っていたマツリの耳に月夜の影から杠の声が聞こえた。
辺りに目を走らせると、そっと声のした路地に足を向ける。 路地の手前で止まると杠に背を向ける形で立ち止まった。
「分かったか」
「辺境からの脅しとは関係なかったようですが、詳しいことはまだ特定には及んでおりません。 ですがどうも、宮内(みやうち)が関係しているかもしれなません」
「宮内?」
マツリが目を眇める。
六都を出た享沙からの連絡であった。 いま享沙は一人で下三十都に居る。 絨礼と芯直が持って帰ってきた官吏家族たちの井戸端の情報の裏付けに動いていた。
井戸端の話しでは『下三十都に辺境の郡司が入るようだ』 ということであった。
以前、辺境の郡司が下九都を食おうとしていた、そんな話が百足からもたらされ、四方から注意喚起を受けた下九都ではそれを潰したようだが、同じことが繰り返されているのだろうかと訝しんで、杠が下三十都に享沙を送り込んだのだが、その様ではなかったらしい。
マツリが咎人と共に宮に戻った時、四方にそのことを訊くと、百足からそのような連絡は入っていないということであった。
たしかに絨礼と芯直が聞いたときも “郡司が下三十都に入るようだ” という話であって “入った” ではなかった。
だが単に入るのなら井戸端で話されるはずがない。 なにより六都と下三十都はかなり離れている。 何かあるのかもしれないと杠が怪しんだ。 何をしに辺境の郡司が下三十都に入ろうとしているのだろうか。
享沙が調べた時にはすでに郡司が入ってきていて、薬草を売りつける為だったようだと噂を聞きつけた。
いま下三十都では流行り病に苦しむ民が多々居るらしい。 それに効くという薬草を持って入ってきたということだが、あまりにも高値が過ぎた。
それに辺境の地でどうして下三十都の流行り病のことを知ったのか。 下三十都に隣接しているとはいえ、流行り病で人が倒れていたのは下三十都の中心だ。 簡単に辺境にまで噂が届くとは思えない。
そこまでが現状分っていたことである。 杠が説明を終える。
「宮内の誰かが流行り病のことを教えたということか」
下三十都の流行り病のことを知っている者が。
「その色が濃いかと」
「官舎ではなくか」
六都のことがある。 官吏が関わっているのかもしれないと敢えて訊いた。
宮都以外は官所(かんどころ)というが、宮都では官舎と言う。 宮内(みやない)にある門を潜って武官や文官が働いているところである。 宮内の門を潜るといっても、そこを宮内(みやうち)とは呼ばない。 宮内(みやうち)と呼ぶのは、客をもてなしたりマツリたちを含む宮の者が生活する場所と、四方が宮内に作った文官たちの仕事部屋、四方の執務室だけのことである。
「はい」
先に享沙を送り込み、マツリが一旦宮都に戻って再度六都に戻ってくるのを待ってから杠も下三十都に入った。 享沙と合流すると、杠はまず最初に官吏や官所で働く者たちを調べようとした。
以前、四方に付いて仕事をしていた時に目にした書類があったからである。
そこに書かれていたのは、下三十都都司と秀亜郡にいざこざがあったということだった。
杠はそれが気になった。 今回の郡司はまさにその時の秀亜群の郡司だったのだから。
だからすぐに官吏と都司の動きを調べようとしたのだが、官吏も都司も流行り病に倒れていた。 それどころか、郡司にべったりと張りついていた享沙が思いもかけない拾い物を目にした。
郡司が茶屋で喉を潤し銭袋を懐から出そうとした時、その懐から落とした物は宮の印のある封じ袋だった。 郡司がすぐに拾い上げたが、郡司にとって運悪く落としたのは、茶屋の床几に座っていた享沙の足元であった。
だがそれだけでは、今回のことと関係しているのかどうかも分からない。 と言いたいところだが、そうとも言えない。
宮にいる者がどうして郡司に文を送るのか。 官吏でもないのに。 常なら考えられない。
官吏であったならば、違う印が押されている。
「このままこちらの方を洗っても宜しいでしょうか」
最初に考えていたのは、下九都と同じことが起きているのではないかということだったが、そうではなかった。 それで終わる筈だった。 それなのに六都のことを置いて下三十都に舞い戻ると言っている。
「そちらは俤に任せる」
杠が気にしているということは何かあるのだろう。 それに宮内が関係しているかもしれないというのも気になる。
「金河を連れて出ても宜しいでしょうか」
マツリが顎に手をやった。
金河である巴央はよく動いてくれる。 だが・・・六都の咎人が捕まってからの様子がおかしい。
「・・・ああ、構わん」
最初に巴央を見た時、巴央自身は使えると思ったが灰汁が強すぎる。 だが杠なら何とかやってくれるだろうと思っていた。
それが今かと思えた、杠がそうしようと思っていると思えた。
杠が頭を下げた気配を残して全ての気配がなくなった。
杠が巴央の長屋を訪ねた。
内側から戸が開くと「なんだ」と気の抜けた声を出し、左右をキョロキョロとすると顎をしゃくる。
すぐに中に入り杠が戸を閉めるが長居をする気はない。
「下三十都で調べものがあります」
「沙柊が行ってるんじゃないのか?」
「ええ、ですが金河も来て下さい。 今からすぐに」
巴央が目を眇める。
「調べものがあると言いました。 下三十都だけでは終わらないかもしれないので」
「餓鬼たちはどうすんだ」
一日中とは言わないが柳技、絨礼、芯直を離れた所から見守っていた。 杠に言われたということもあるが、言われなくともそうしただろう。 意外と優しい一面を持っている。
「力山に頼んでおきました。 今は力山の長屋に移動させています。 それに三人とも当分、大人しくしていてもらいますので」
柳技においてはマツリがこちらに来てしまったのだ。 商品が入ってこないのだから商売も出来ないし、もともと官所にいる杠との連絡役であったところが大きい。 その杠がもう官所にいないのだから、柳技の仕事は殆どが無いようなものである。
絨礼と芯直においても、もうマツリと武官、文官が入ったのだ。 噂は必要ない。
「力山に行かしゃあいいだろうが」
「話している時が惜しいので歩きながら説明をします。 すぐに荷物をまとめて下さい」
「おい! なに言ってんだ!!」
「野並の四つ辻、二つ西に入ったところで待っています」
ガチャンと何かを投げる音が戸を閉めた杠の背中に聞こえた。
人気のない道を二人が歩いている。
「え・・・嘘だろ」
「最初に言いました。 こういう見方も出来ると。 決してそうとは限らないですが、そのつもりで動いて下さい」
四つ辻で待っていると “すぐに” と言ったのに、それ以上に待たされた。
少し前、不貞腐れた様子を見せながら巴央が姿を見せた。 巴央にしてみれば、言われた野並の四つ辻二つ西に入った所に来たのに杠の姿がない。 袋に包んだ荷物を投げようとしかけた時に『何をしています、行きますよ』 と声が聞こえた。
振り返るといつの間にか杠が立っていて歩き出していた。
いつの間に、と思いながらも、投げかけた袋を背負い直し杠の後ろについた。
『まずは事の起こりから、そしてあったこと、最後に己の考えを言います。 己の考えというのは、あくまでもこういう見方も出来るということです』
杠から聞かされたのは、まず今回、下三十都に秀亜郡司が入ってきたというところから始まった。 そして以前、下三十都都司と秀亜群司でいざこざがあったということであった。
『どういうことだ、死人が出たってのに、何も分からないで終わりってか!?』
『ええ、許せるものではありません』
『・・・え』
意外な答えだった。
巴央の失敗を、抽斗をちゃんと元に戻さなかった失敗を皆の前で言った。 巴央の矜持をズタズタにした杠だった。 憎んでいると言ってもいい相手だった。
だがそれは己の手落ちが発端だとは分かっている。 ・・・それでも許せない。
巴央は真っ直ぐに生きてきた。 その真っ直ぐ過ぎる生き方は矜持をも高くもしていたが、本人はそれに気付いていない。
杠は同じ様な過ちを他の者たちにもさせないために言っただけであって、巴央を糾弾したわけではない。 それも分かっている。
だが・・・許せない。
『下三十都に任せるだけでなく、宮都から武官も文官も行って調べたようですが、確かに亡くなった官吏が火をつけていたそうなんです。 それを秀亜群の民が証言したのですから、それ以上進めないということです。 それで己は今回のことと繋げて考えるのですが・・・』
聞く気もない杠の話が頭の中に入ってくる。
それは突拍子もないと言っていい話だった。 どうしてその話と今回のことがそんな風に繋がるんだ。 それにそんなやり方で。
『ですから己はそう考えています。 ですがそれは見当違いかもしれません』
その見当違いの話を聞かされた巴央が『嘘だろ』と言ったのだった。
「己の見当違いを望みますが、望むと現実にある、無いとは違ったものです」
「はっ、お前の見当が間違い過ぎなんじゃないのか?」
「そうあって欲しいものです。 ですから調べたいのです」
もし杠の言う通りであったら・・・。
「俺は汚いことが嫌いだ」
「ええ、己もです。 そして力山も沙柊もです」
巴央が前を歩く杠の背を睨む。
「柳技と絨礼と芯直もそう思えるよう、己らが伝えていかなくてはなりません」
「本当にそんなことが起きてると思ってるのか?」
「分かりません。 ですが・・・有り得なくはありません」
「宮のことは分からねーが・・・」
言葉をとぎらせた巴央に杠が軽く肩越しに振り返る。
「ええ、己も僅かな間、宮に居ただけですが」
温和な声音で杠が言う。 そして続ける。
「だからこそ、有り得るかもしれないと思うんです」
四方の仕事を手伝いながら色んな事例を見た。
杠が前を見る。
「そうですね、下三十都で色々見聞きしていただいた後、秀亜群に飛んでいただきたい・・・あ、沙柊が先に飛びますか。 沙柊もかなり怒っていますから」
「お前の話を聞いてか?」
杠が口の端を上げる。
「沙柊には己が思う話をしていません。 あったことだけを話しています。 それで沙柊なりに考えて動くでしょう」
臭わせるようなことを織り込みながら話したが。
「沙柊がお前と同じことを思うっていうことか? それとも単にお前がそう思いこんでいるってことか?」
「さぁ、どうでしょう」
享沙は享沙の判断で動いているということ。 そして杠はそれを止めていない。
巴央の矜持が動いた。
「てれてれ歩いてんじゃない。 さっさと歩け」
巴央が杠を抜いて事前に官吏としての杠が用意していた馬を引き取りに行くための馬宿に向かった。