Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ワールドカップサッカー・アジア予選8

2005-02-06 | Football Asia
1989年6月4日 東京 ワールド杯1次予選 日本2-1 北朝鮮
私はこの試合を国立競技場で婚約中の家内と観戦した。 4年前と異なり好天で気温もかなり上がった東京であった。この試合の前に日本学生陸上競技選手権が同競技場で行われており、その大会関係者との入れ替えの為になかなか競技場内に入れなかった。その間、家内に“俺も学生時代、この大会に出たんだよ”と自慢したら家内に“じゃあ早く入れてって頼んでよ”と言われたのを憶えているが、今の家内は何も憶えていない。
この試合も在日朝鮮人の人達の方が日本サポーターよりも多く、4年前よりその数は更に多くなっており、バックスタンドでは国旗を人文字で描きブラスバンドが北朝鮮サポーターをリードした。私も回りを在日の人達に包囲され、その中の一人に尋ねると遠隔から応援バスを仕立ててやって来た在日の人も多くいるとの事であった。
試合は一進一退の攻防が続いたが、後半26分、現北朝鮮代表監督のユン=ジュンスにヘディングで先制点を許した。するとスタンドは耳を劈くような在日の人達の大歓声で覆われた。
しかしその3分後、当時の横山日本代表監督の戦術の申し子、ウィングバックの佐々木が左サイドを突破し、そのクロスを水沼がボレーで豪快に同点ゴールを叩き込むと、形勢は一気に逆転し、88分北朝鮮主将のオ=ヨンナムのオウンゴールを誘い見事な逆転勝利を飾った。
試合後、私は混雑が引くまで勝利の満足感に浸りながら家内とスタンドに残り、競技場内のトラックに彼女を連れ出し、“俺はここで走ったんだぞ”と自慢していたら競技場の役員に“出口はあちらですので”と退場を促された。その事は家内は憶えていた。

1989年6月25日 平壌 ワールド杯1次予選 北朝鮮 2-0 日本
この試合は中継録画で同日試合後、深夜にNHKで放映された。 
前週、神戸で行われた香港戦を引分けてしまい、この試合を勝たねばならなくなった日本は香港戦で不調だった前田治を外して、名取を入れた。試合開始3分、日本は長谷川健太が抜け出しGKと1対1になるビッグチャンスを掴んだが、シュートはGKに当ててしまい絶好のチャンスを逃した。結局前半のシュートらしいシュートはこれ一本のみで後は北朝鮮の猛攻の前に防戦一方になる。両サイドをいっぱいに使われ、ゴール前に何度も精度の高いクロスが入れられる。そのこぼれ玉をことごとく拾われ試合は日本ゴール前から動かない。たまに攻撃に転じても相手DFの早いもどりで、シュートレンジにすら入れない。
そして36分日本の右サイドを破られ、キム=パンイルに先制ゴールを許した。
後半に入ると北朝鮮の運動量が落ちたことも有り、ようやく日本も技術を生かしたパスワークが繋がるようになり、チャンスを掴むが得点には至らない。そして後半30分過ぎに相手FWと空中戦で競ったGK松永が鼻骨を折るアクシデントで森下と交代を余儀なくされ、その直後、カウンター気味の攻撃からシュートレンジに入ったリ=ヒョクチョンが放ったシュートは一旦森下が体に当てて防いだが、そのこぼれダマがそのままゴールに吸い込まれ追加点を奪われてしまった。 平壌での朝日戦3試合目で何と始めて北朝鮮が日本を破った試合であった。この組からは北朝鮮が2次予選に進出、4年前の雪辱を果たされた。

1990年7月31日 北京 ダイナスティ杯 日本0-1 北朝鮮
イタリアワールド杯の興奮冷めやらぬ(といっても当時ワールドカップといえば一般人もマスコミもバレーボールと連想していた。)7月、東アジア4カ国のレベルアップの為に始まったのがこのダイナスティカップだ。 実は1978年ごろ日本を舞台にして日本、韓国、北朝鮮の代表で定期戦を行えないかとの構想はあった。当時高校生だった私はその実現を楽しみにしていたのだが、12年後にようやく中国を加えた4カ国での国際大会が始まった。
前年の代表チームから、水沼、名取らが抜けて中盤を構成する選手を欠いていた。攻撃陣は永島、黒崎、前田そして中山らがいたが、他の3カ国と比較して力不足感は否めなかった。カズ、ラモスらが代表入りする直前の大会で、健闘は見せたが3戦3敗で無得点(他に韓国 0-2, 中国 0-1 )に終わった。しかし、当時の北朝鮮の尹団長は後に“このチームは潜在性があるな、10年後には我が祖国も太刀打ちできなくなるかも”と感じたと亡命先の韓国で語っていた。
事実、井原を始め、“ドーハ組み”が多く含まれていた。

1992年8月26日 北京 ダイナスティ杯 日本4-1 北朝鮮
こういう日がやっと来た、いつか来るかもしれないと願っていたがなかなか来なかったその日が、アジアの強敵を次々に撃破し、世界への扉を開くのではと思わせる日がついにやってきた。
それが第二回ダイナスティカップであった。翌年からのプロリーグの発足に向かい、そして初めての外国人監督、ハンス=オフトを迎え、日本代表が劇的に飛躍を始めた年であった。
だが、この大会はテレビ中継されず、大会後テレビ東京のサッカー番組でカズ、清雲コーチを迎えて2週に渡ってダイジェスト放送された。 
緒戦の韓国戦は硬さが目立ち、押し込まれる場面も少なくなかったが15年ぶりに韓国を無失点に抑え0-0 で引き分けると、次の地元中国戦、開始20分まで審判の判定にも助けられた中国が繰り出す波状攻撃を食い止め(というよりも末期的症状の決定力不足に助けられ)、
前後半にそれぞれ1点ずつを上げ2-0で勝利を収めた第三戦北朝鮮を迎えた。
北朝鮮も韓国と引き分け、日本に勝てば決勝に進めるということで勝利狙いの展開。開始13分、クリアーミスからボールを繋いだ北朝鮮が最後は在日蹴球団選手キム=ジョンソンのゴールで先制をした。 しかし、先制点で落ち着きを失うような日本ではなかった。個人能力が上回り、32分に福田が同点ゴールを決めると、34分、46分に高木が連続ゴール。74分にはカズが抜け出して追加点を上げカズダンスを披露。北京の地元観客も“カス!カス!”と声援を送り(北京語では KAZU はカスと発音するらしい)スタンド全体はすっかり日本のサポーターと化した。(12年後のアジアカップと大違い)。その後もカズのシュートがポストを叩くなど、更に2~3点は取れた試合であった。
決勝の韓国戦は延長戦でも決着が付かなかったが、PK戦で破り、優勝を勝ち取った。
戦前の極東五輪での優勝はあったが、1954年のAFC創設以来初めての代表レベルでのアジアでのタイトルであった。 そして何よりも韓国と対等以上に戦うのを初めて見せてくれた試合であった。
<つづく>

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