<日朝戦その戦いの跡>
これまで日本は北朝鮮と11回対戦している。その対戦成績は4勝4敗3分けの五分である。
最初の対戦は1975年香港で行われたアジアカップ地区予選だ。
昨夏、北京大会で13回目を数えたアジアカップであるが、日本は80年代までこの大会を重要視しておらず、優勝した第10回大会の広島大会以前はB代表が派遣されたり、大会自体に参加すらしない事もあった。この大会には広島大会以前にA代表が派遣された唯一の年大会であったが、このメンバーにはエース釜本は含まれていなかった。
この試合はイングランドワールド杯時の得点者、楊成国を含む北朝鮮が1-0で勝っている。
尚、この地区予選ではFIFA加盟前の中国が本大会に進んでいる。
2回目の対戦は1979年8月、日本代表が北朝鮮、旧ソ連に強化遠征をした際に平壌で対戦している。試合は0-0で引分けた。この遠征で日本代表は6試合を行ったが、代表Aマッチはこの試合のみで残りは全て地元クラブチームと対戦。3敗3分けで遠征を終えた。この遠征時、日本では FIFA ワールドユース大会が開催されており、専門誌でさえ結果を報道するのみであった。70年代までの北朝鮮との対戦はこの2試合のみ。韓国とは同年迄、既に35試合対戦をしており、日朝、日韓の関係の違いここから伺える。
それでは1980年以降の熱戦をさかのぼってみよう。
1980年12月30日 香港 ワールド杯1次予選 日本0-1 北朝鮮
年末の12月22日から他に中国、マカオ、シンガポール、香港がアジア地区予選第4組に組み入れ、2次予選進出を目指して香港に集い、熱戦を繰り広げたのであるが、当時この予選の模様は日本では全く報道されず、現地には専門誌2誌の記者が派遣されたのみであったらしい。
私はこの予選の結果を知りたくて、当時ラジオたんぱが深夜放送していたニュース番組を聴いていたのを憶えている。 試合は、大型選手を揃えたパワープレー主体の北朝鮮に対し、同年3月マレーシアで行われたモスクワ五輪予選で敗れ、4年後のロス五輪出場を目指して一気に若手にメンバーチェンジした日本代表がそれまでにスタイルと異なり、個人テクニック主体にしたプレースタイルで対抗した。後に有名になった木村和司のFKはこの大会で“お披露目”され対戦相手チーム、地元香港の観客からも大いに注目された。結局試合は延長戦の末に0-1で敗れたが、70年代までと異なり個人テクニックの高い選手の揃った日本代表チームの将来が大いに期待された予選大会であったらしい。
1985年3月21日 東京 ワールド杯1次予選 日本1-0 北朝鮮
前年4月、期待されたシンガポールでのロス五輪アジア地区予選に惨敗。その“破産状態”にあった日本代表が同年10月の日韓定期戦で史上初めて韓国をソウルで2-1と破り復興のきっかけを掴み、ワールド杯予選に臨んだ。前月シンガポールをアウェィで木村和司の活躍で3-1と破り、1982年、アジア大会の準決勝戦後にコーチが暴力事件を起こし2年間の謹慎が明けたばかりの同組最大のライバル北朝鮮を東京に迎えた。25,000人の観衆の6割以上は在日朝鮮人で占められ、まるでアウェィゲームの様な雨の国立競技場、ピッチコンディションはパワープレー主体の北朝鮮が有利であったが前半20分、北朝鮮ゴール前に出たボールが水溜りに止まり、それを原が蹴り込み先制。以降、加藤久、西村、宮内らを中心にした守備陣が北朝鮮の猛攻を跳ね返し虎の子の1点を守り、史上最初の北朝鮮戦の勝利を収めた。
1985年4月30日 平壌 ワールド杯1次予選 北朝鮮 0-0 日本
観衆80,000人が詰掛けた人工芝の金日成競技場で行われた完全なアウェィゲーム。
この試合は録画ですら日本では放映されなかった。私はこの試合の1ヵ月後にある人からこの試合を競技場で録画したビデオを見せてもらった。
勝たねばならない北朝鮮は立ち上がりから猛攻を仕掛けてくるが、日本DF陣も必死の防御。特にGK松井の好守が目立ち、ゴールを許さない。後半に入ると57分に木村和司が空中戦の競り合いで肘撃ちを食らい、そのまま負傷退場。木村は前年、ソウルでの日韓戦定期でも相手DFから同じような状況で肘撃ちを受け負傷退場している。 日本のシュートはわずかに2本、それに対して北朝鮮は23本のシュートを放つがゴールを割る事が出来ずにスコアーレスドローに終わった。 日本は強敵北朝鮮を押さえて1次予選を突破。次の香港を破り、韓国との決勝戦を迎えたが2戦2敗(東京 1-2 ソウル 0-1 )で悲願のワールド杯出場はならなかったが、私が初めて日本代表が次々と公式戦で勝ち星を重ねるのを見た思い出のワールド杯予選であった。
<つづく>
これまで日本は北朝鮮と11回対戦している。その対戦成績は4勝4敗3分けの五分である。
最初の対戦は1975年香港で行われたアジアカップ地区予選だ。
昨夏、北京大会で13回目を数えたアジアカップであるが、日本は80年代までこの大会を重要視しておらず、優勝した第10回大会の広島大会以前はB代表が派遣されたり、大会自体に参加すらしない事もあった。この大会には広島大会以前にA代表が派遣された唯一の年大会であったが、このメンバーにはエース釜本は含まれていなかった。
この試合はイングランドワールド杯時の得点者、楊成国を含む北朝鮮が1-0で勝っている。
尚、この地区予選ではFIFA加盟前の中国が本大会に進んでいる。
2回目の対戦は1979年8月、日本代表が北朝鮮、旧ソ連に強化遠征をした際に平壌で対戦している。試合は0-0で引分けた。この遠征で日本代表は6試合を行ったが、代表Aマッチはこの試合のみで残りは全て地元クラブチームと対戦。3敗3分けで遠征を終えた。この遠征時、日本では FIFA ワールドユース大会が開催されており、専門誌でさえ結果を報道するのみであった。70年代までの北朝鮮との対戦はこの2試合のみ。韓国とは同年迄、既に35試合対戦をしており、日朝、日韓の関係の違いここから伺える。
それでは1980年以降の熱戦をさかのぼってみよう。
1980年12月30日 香港 ワールド杯1次予選 日本0-1 北朝鮮
年末の12月22日から他に中国、マカオ、シンガポール、香港がアジア地区予選第4組に組み入れ、2次予選進出を目指して香港に集い、熱戦を繰り広げたのであるが、当時この予選の模様は日本では全く報道されず、現地には専門誌2誌の記者が派遣されたのみであったらしい。
私はこの予選の結果を知りたくて、当時ラジオたんぱが深夜放送していたニュース番組を聴いていたのを憶えている。 試合は、大型選手を揃えたパワープレー主体の北朝鮮に対し、同年3月マレーシアで行われたモスクワ五輪予選で敗れ、4年後のロス五輪出場を目指して一気に若手にメンバーチェンジした日本代表がそれまでにスタイルと異なり、個人テクニック主体にしたプレースタイルで対抗した。後に有名になった木村和司のFKはこの大会で“お披露目”され対戦相手チーム、地元香港の観客からも大いに注目された。結局試合は延長戦の末に0-1で敗れたが、70年代までと異なり個人テクニックの高い選手の揃った日本代表チームの将来が大いに期待された予選大会であったらしい。
1985年3月21日 東京 ワールド杯1次予選 日本1-0 北朝鮮
前年4月、期待されたシンガポールでのロス五輪アジア地区予選に惨敗。その“破産状態”にあった日本代表が同年10月の日韓定期戦で史上初めて韓国をソウルで2-1と破り復興のきっかけを掴み、ワールド杯予選に臨んだ。前月シンガポールをアウェィで木村和司の活躍で3-1と破り、1982年、アジア大会の準決勝戦後にコーチが暴力事件を起こし2年間の謹慎が明けたばかりの同組最大のライバル北朝鮮を東京に迎えた。25,000人の観衆の6割以上は在日朝鮮人で占められ、まるでアウェィゲームの様な雨の国立競技場、ピッチコンディションはパワープレー主体の北朝鮮が有利であったが前半20分、北朝鮮ゴール前に出たボールが水溜りに止まり、それを原が蹴り込み先制。以降、加藤久、西村、宮内らを中心にした守備陣が北朝鮮の猛攻を跳ね返し虎の子の1点を守り、史上最初の北朝鮮戦の勝利を収めた。
1985年4月30日 平壌 ワールド杯1次予選 北朝鮮 0-0 日本
観衆80,000人が詰掛けた人工芝の金日成競技場で行われた完全なアウェィゲーム。
この試合は録画ですら日本では放映されなかった。私はこの試合の1ヵ月後にある人からこの試合を競技場で録画したビデオを見せてもらった。
勝たねばならない北朝鮮は立ち上がりから猛攻を仕掛けてくるが、日本DF陣も必死の防御。特にGK松井の好守が目立ち、ゴールを許さない。後半に入ると57分に木村和司が空中戦の競り合いで肘撃ちを食らい、そのまま負傷退場。木村は前年、ソウルでの日韓戦定期でも相手DFから同じような状況で肘撃ちを受け負傷退場している。 日本のシュートはわずかに2本、それに対して北朝鮮は23本のシュートを放つがゴールを割る事が出来ずにスコアーレスドローに終わった。 日本は強敵北朝鮮を押さえて1次予選を突破。次の香港を破り、韓国との決勝戦を迎えたが2戦2敗(東京 1-2 ソウル 0-1 )で悲願のワールド杯出場はならなかったが、私が初めて日本代表が次々と公式戦で勝ち星を重ねるのを見た思い出のワールド杯予選であった。
<つづく>
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